第10話 虫カゴ

文字数 2,930文字

「実は幻覚性植物を探している」

 その言葉はあまりにも唐突で、嘘っぽく響いた。
「B・C・キャロリーン、そう呼ばれる苔の一種だ」
「なにそれ」
「幻の苔だ。20世紀初頭に見つかった。その苔の胞子を吸い込むと、強力な幻覚作用を引き起こす。『悪魔を呼ぶ苔』といわれてたくらいだ」
「悪魔…」

「ヨーロッパで、これを元にした化学兵器が研究されていたという話もある。しかし戦後、研究はとぎれ、それがどうなったかわからないままだった。だが、それが日本に現れた。ある研究施設がそれを手に入れたが、もう無くなったはずだった…」
「どんな形をしてるの?」聞きながら疑っている。
「見た目は普通に苔だよ。だがマイナス40度でもプラス40度でも、生息することができる」
「それがこの街に?」
「そうだ。誰かが持ち出したんだ。おそらくごく小さな胞子の一部をね。それがあれば培養でいくらでも増える。実際、確かにそうとしか思えないような事件が多発している。胞子を吸い込んでしまうと、幻覚を見てしまう。固体差はあるが、人によるとおかしくなったり、人格が変わってしまったりすることもある、とても危険なものなんだ」

「じゃあ、アイラが死んだことは?関係あるって思える?」
 彼女が落ちて行く、嫌な記憶が蘇る。
「ありえないことはない」
「でも誰も、そんなばかげたこと思わないよね。苔自体知らないんだし」
「知ったとしても、宿主が死ねば胞子も生きてられないと、普通は思うだろう」
「普通は…」
「普通じゃないんだ。宿主が死ねば、やつはそれを栄養源にするだけだ」
鳥肌がたった。なんだかキャロリーンという名前といい、マシタの探す苔には何か人がもつような意思みたいなものが感じられた。
「このホームで最近、人が多く亡くなってるのもそうって…?」

 もしかしたら、私があんな夢をくりかえし見るのも、そのキャロリーンのせいかもしれないとふと思った。幻覚作用のせいの方が、正夢と言われるより何倍もマシだ。苔はアイラにも彼女が死ぬ夢を見せたんだろうか。

 おばあちゃんの部屋に向かっていると、急に横の部屋からシーツを持って出て来た人とぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
落ちかけたシーツを持ち上げる、その女の人の胸の名札は『峰』とあった。

 - そういえば峰さんが一度離れて戻ってくるまでの5分もたたない間に、窓から飛び下りられると思う?山野さん、足が痛くて歩けなかったのに -

さっきの入居者の人たちの話を思い出す。とっさに私は聞いていた。
「あの、山野さんの部屋はどちらですか?」
その峰という女の人は、眉を少ししかめた。
「山野さんは、お亡くなりになりました」
窓から飛び下りたそうですねとは聞けなかった。
「お気の毒です」
女の人はお辞儀をすると行こうとしたが、2、3歩行って再び振り返った。
「あの、でも変なんです」

 その日、山野さんは足が痛くて動けなかったし、ベッドは窓からずいぶん離れていた。なのに、峰さんは山野さんに言われて手紙を取りに行って戻ってくると、山野さんはもうベッドにいなかったという。ほんの僅かな時間だった。そしてその部屋の隅で、子供がショックでふるえていたと付け足した。その子供はこのホームにいた人の孫でよく遊びに来ていたというが、名前は思い出せなかった。

 救急車のサイレンが聞こえ、すぐ近くで音が止まった。私が向かうおばあちゃんの部屋のあたりに何人かが集まっている。嫌な予感がして走った。

「きっと大丈夫だ」と、マシタが言った。
病院のその廊下の椅子に座っているのは、私とマシタだけだった。運ばれるおばあちゃんに付き添って、私といっしょに救急車に乗って来てくれたのだ。おばあちゃんは心臓発作を起こしたらしかった。

 私はじっとしてられなくて廊下を歩く。私が殺される夢で見たあの廊下を思いどきりとするが、この廊下はやや薄暗く、人々のざわめきや、機器を引っ張る音など聞こえている。少し行って角を曲がると、人が行き交う光景があった。

 ひゅうっと看護婦さんが横を走り抜けた。ひとつの病室に飛び込むと、あわてて薬を注射しようとしていた。扉はなく、カーテンが開いたままだったので、その光景がよく見えた。昼下がりのスーパーの近くで交通事故にあった、あの白髪の女の人だった。生きていたんだ。鼻にチューブを入れ、点滴の針を刺され、包帯も痛々しい。でも、内出血で腫れた顔は恐怖にひきつって、何かから逃れようともがいていた。看護婦さんがまた走り出て行く。事態は緊迫しているようだった。彼女は一点を凝視し、まるで自分の呼吸を奪い取ろうとするものに、最後の闘いを試みているようだった。

 そのとき、私はようやく気付いた。彼女が見ている先には男の子がいた。あのときの虫カゴを持った男の子が、そこにいたのだ。彼は私に気付いた。

「ヨシちゃん」
彼をさがすお母さんの声がした。男の子は私を見ていたが、母親に返事をして、看護婦さんが医者とあわただしく戻って来るのと入れ代わりのように、スキップで出て行った。
「どこへ行ってたの?おじいちゃんにちゃんとご挨拶しなさい」と、男の子の母親が言う声が遠くに聞こえた。そして医者と看護婦の動作が急にゆっくりし、白髪の人がもうすでに死んでいることを知った。

 突然、背後で囁く声がした。
「マシタから離れなさい」
振り返ると、長い髪の女の人が立っていた。見知らぬ人だ。切れ長の目で、化粧気はあまりなく、白いスーツを着ていて、背がすらりと高い。彼女はにこりともせずに、私にもう一度念を押すように言った。
「いいね」

 思い出した。白いスーツのその人もまた、あの白髪の老女がはねられた事故現場にいた。集まる人の中でその顔は私を見ていた。夏の白けた景色の中、夏の暑さを感じさせないクールな表情のままこちらを見ていたのだ。

 私はどんどん走る。すっかり混乱していた。なぜあの少年が、なぜあの白いスーツの女の人がここにいて、あの白髪の人が死んだのはどうしてか。アイラが死んだことも。私はなぜか、いま関係ないアイラのことを思い出した。死んだアイラなのに、私の中ではちっとも遠ざかっていかない。いつまでも私の側にはりついていた。

 マシタが私を見て、ゆっくり立ち上がった。
「どうした?大丈夫かい?おばあちゃんは大丈夫だよ」
彼は私をやさしく包んだ。あの女の人は誰?マシタに問いかけそうになった。私は混乱したまま、彼に抱きとめられじっとしていた。私の背中にそっとおかれた彼の手の感触が、瞬間、マッチを擦ったように別の感触を照らし出す。

 部活が終ったコーセイと、雨が振り出した放課後、偶然出くわしたことがあった。中学生のときと違ってもう話すこともなかった頃だから、私はひどく固そうな笑顔を作ってしまったけど、彼は以前と同じようにさわやかな笑顔を見せてくれた。そのとき、雨がひどくなった。辺り一面が真っ白になり、他には何も見えなくなるほどだった。傘をさしていたコーセイは、私が濡れないようにそっと背中を包むように抱いて身体を寄り添わせ、いっしょに走ってくれた。その感触が一瞬にして明るく現れ、そして再び闇に消えていった。

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