第28話 矯正

文字数 3,437文字

「ヒジリ」 

 その声に振り向くと、マシタが立っていた。
「マシタ?」
マシタは微笑んで私に近付く。動悸が高まった。
「どうして、どうしてここにいるの?見張ってたの?」
「そうだよ。きみを見張ってた」と私の手を取った。
「ヒジリ、きみはずっとひとりぼっちだった。友だちがいてもどんなに遊んでも、本当のきみを理解してくれる人はいなかった。わかるよ。そのさびしさは。でも僕ならきみのことを本当にわかってあげられる」
「マシタ…」

「きみは自分の中に存在する邪悪なものを、はっきりわかってる。僕と同じようにね。人はみな自分をいい人間だと思い込もうとするが、きみは違う。だから、きみはほかのどんな悪にも犯されはしなかった。きみ自身がその存在なんだから」

そういえば、人の身体を乗っ取れる少年が、私にはなれないと言っていた。

嘘の言葉でアイラを殺してしまった私。

「知らなければよかったのに。せめて見ないふりをしておけば」と私に言ったタダシくんも、私の内側を見てそう言った。

他人と一体になれるわけがないと言いながら私を救って、身代わりに死んだマヤ。

サヨコのエンコウを、どんな気持ちだっただろうと思った私。

トモエの肩を抱きながら、クリムトの絵に魅入っていた私。

嫌われたくないから、ロクを本気で止めようとしなかった私。

レイジを心配してるふりして、自業自得だとどこかで思ってた私。

コージの好意を知っていながら、私を心配してくれる言葉をさらりと流していた私。

私はみんなに何も与えてあげなかった。私は与えてもらおうと望むだけで、決して人には何も与えなかった。私の内なる邪悪さは、ブラックホールのようにすべてを吸い込むだけだった。あの黒い鞄は、私の邪悪さを押し込めたパンドラの箱だった。それを解き放ってしまったんだ。

「だけど、もうそんなに自分の内側を見つめなくていいんだよ。きみはもっと善人になれるんだ。さあ、僕の言うとおりしていれば、きみはもう安全だ」

 マシタの顔が、私の涙に揺らぐ視界に近付いてくる。彼だけが、私の内側をわかってくれる。私は彼を抱き締めようとした。その背後でミラーボールが回っている。が、それは回るアイラの顔になった。まさか、これらはすべてキャロリーンが見せている幻覚なんだろうか?知らないうちに私はキャロリーンにとり憑かれていってるんだろうか?私は身体が動かなくなった。

「どうしたの?」やさしく微笑むマシタの姿が、少しずつ揺らぎ、別な姿が見える。
「いやっ」
私は彼から離れようとした。が、ますます彼はマシタから別の顔に変わりつつある。

 そのとき、誰かがその奇妙な姿を殴り、払い除けた。
「ヒジリ、大丈夫か!」
信じられないことに、殴ったのはマシタだった。
「マシタ?」
驚いて殴られた方を見ると、そこには端正な顔をした隅田が転がっていた。「ひどいなあ」と隅田が立ち上がる。

 マシタは私を後ろにまわし、隅田と対峙した。大笑いする隅田。すらりとした身体、端正な顔の姿と別の顔の姿が交互に現れる。

「あの方はもうすぐ現れる。あの方は偉大ですよ。望むものを与えてくれる。私にも素晴らしい力を与えてくださった。誰もが私の思うままだった。見てよ。この顔を。こんな顔ってある?失敗した遺伝子ですよね。ひどいこの顔。この曲がったひどい身体。親にもおまえほど醜い顔や姿を見たことがないと言われ続けてきた。忌み嫌われていたの。あの方は、こんな私の身体を矯正してくださった。ここにやって来るどんな人にとっても、ときめくような美しい姿になるように。素敵でしょう。誰も私を醜いとは言わない。誰もが私をあがめ、信者となった。彼らのおかげよ。あの方を連れてきてくれた」

「小島ユウキたちか?」マシタが低い声で聞く。
「そう。彼の望むものは現れかけたけど、まだ完成できなかった。でも少しは彼に取り込まれた」
隅田は少し顔を曇らせた。

「でも、彼は従わせることはできなかった。あの姉のせいよ。私たちの世界に入れることを拒否したの」
「苔はどこだ?」
「おやおや、さあね」隅田は笑い出した。
「ここにあるはずだ」
マシタがあたりに視線を動かす。
「ヒジリももう少しだったのに。でもキャロリーンは、とってもあなたを気に入ってる。必ずあなたを引き入れてみせる。私のようなキャロリーンの崇拝者は…」

 マシタはソファーの端が切れていることに気付いた。それを一気にはがすと、そこにはべったりと緑色のものが付着していた。苔だ。私は悲鳴を上げた。その苔が生き物のように触手を伸ばし、迫ってきたからだ。マシタが腕を伸ばす。触手は彼の腕に巻き付いた。
「マシタ!」
彼はその触手のようなまとわりつくものをはねのけると、すぐさま私の腕を取り、ドアに走った。

 隅田は笑い声をあげながら、手のライターに火をつけた。そこに苔の触手がのびていく。
「やめろ!」
マシタが叫んだが、予想外に火は苔から燃え上がり、意思があるかのように隅田に燃え移ると、身体全体を一瞬で覆い尽くした。

なおもマシタが部屋に入ろうとしたが、火の勢いが増した。
「見るな」と、彼が私の視界を遮ろうとした。
「もう…ひとり、いる…から…」
隅田がますます大笑いしながら、火だるまで踊るようにまわるのが見えた。彼の笑い声は身体が燃え落ちるまで聞こえ続けた。

「キャロリーンはもうすぐ現れるって」
「もうひとり、いったい誰のことなんだ?そいつをなんとかしないと、きみはきっとそいつにキャロリーンのところに導かれる」
「カラオケ教室の人たちは、お母さんは大丈夫なの?」
「彼らは自分でもわからないまま支配されてるんだ」
「お母さんも河北さんも、カラオケ教室の人たちはみんな」
ひどく絶望的な気分になった。

 冷たい風が吹き、身体を震わせた。キャロリーンは望むものを与える。好きな人はいるの?と聞かれたとき、一瞬マシタを思い浮かべた。だから幻覚はマシタに姿を変えたのだ。

 マシタはいつも、私のいちばん近くに寄り添ってくれているような気がする。屋上の仲間たちがみんないなくなってしまったいま、私を助けてくれるのも彼しかいない。今の私には『そんなことにはならない。させないよ』と言った彼の言葉が、すがりつける唯一のものだった。 

 私はマシタに抱きついた。マシタが好きだよ、あなたがもし悪人だったとしても。心の中でそう言った。ケイという女の人が、彼に気をつけろと言ったけれど、私は彼の側にいようと思った。彼は少しとまどっていたが、「もう大丈夫だから」と、やさしく抱き締めてくれた。私が恐くてそうしたと思っているようだった。

「でもあの先生は、どうして自分がひどい醜い姿だと思ってたんだろう」
 隅田のその本当の姿は「普通」だった。顔も姿も、あまり特徴もない地味なごく普通のそれだった。たぶん親からひどい言葉を浴びせられ続けたせいで、病的に思い込んでしまった。そして、それがキャロリーンと結びついてしまったのだ。

「間に合えばいいが…」
 サイレンが近づいてくる。マシタは険しい表情で、カラオケ店の窓の中の燃え尽きる寸前の炎を見ていた。


 家では、お母さんとミチルが居間で話し込んでいた。
「ヒジリ、どこへ行っていたの?」
「まさか、マシタって人とデート?やめときなって、おじさんは」
ミチルが笑う。変だ。部屋にこもって、何かにおびえていたミチルじゃない。

 2階へ上がりミチルの部屋をのぞく。カーテンは閉められたままだった。急いで妹のパソコンの電源を入れた。画面にいろいろなフォルダが並んでいる。その中に例の小島ユウキの関連のがあった。それをクリックしたとき、「ないよ。お姉ちゃんが探してるものは」と、いつのまに上がってきたのか、ミチルが背後でそう言った。

「ないってば。つまんないから消しちゃった」
「ミチル。あんた、ユウキくんが刺される前の日の金曜日、みんなでカラオケクラブへ行ったんでしょ?」
「行ってない。私の思い違いだったみたい。私たちが行くのは、いつも土曜日だった」と、さえぎるように妹は大笑いした。何だろう。すごく嫌な気分がした。
「行ったとき、何か見たって」
「知らないよ。なんでそんなこというの」 と、ミチルはカーテンをぱあっと開けた。思わず息が止まる。

 真向かいの米沢さんの奥さんが、家の2階の窓からこちらをじっと見ていた。妹はそれを知ってか知らずか、大きく背伸びをした。

 ― 間に合えばいいが ―
 セノウが言った言葉を、私はいま思い出していた。

  矯正   おわり

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み