第30話 不眠

文字数 3,722文字

 不 眠


 午前1時18分。時枝佑司は畳の上に座ったまま時計を見た。

腫れた目をしている。彼は鞄から分厚いシステム手帳を取り出すと、住所録を調べていたが、なぞっていた指がようやく止まった。

しんとした中で、時計の音が大きく聞こえる。やがて彼は、手帳を見ながら携帯をかけた。

『時枝?』相手の声は少し間があった。そして『ああ、佑司か。久しぶりだなあ』と、なつかしそうに言った。
「久しぶりだな」

もちろん彼はこんな夜中に本当に久しぶりに電話したことで、相手が何かあったのかと聞いてくるだろうことはわかっていた。

だから「こんな夜中に悪い。だが、どうしても聞いて欲しいことがあるんだ」と続けた。それは本当だった。

相手の男は実はまだ仕事先にいるが、仕事はもう終わったところなのでいいよと、快く言った。
「実は…最近よく眠れなかったんだ」と、佑司は切り出した。


  *    *


 佑司ははがきを1分もせずに読み終えると、ため息をつきながら内ポケットにしまった。
「どうした?時枝」
運転する吉沢圭介が、ちらりと佑司を横目で見た。
「広美ちゃんからだろう?」

 吉沢は、佑司の妻をいつもそう呼ぶ。妻の広美がかつて仕事の同僚だったせいである。

しかしそれももう、20数年前のはるか昔のことだ。会社の何人が知っているだろう。佑司はなんとなく老いた気分になる。まだ、46だというのにだ。

「ああ、たくさん野菜がとれて、今年も恒例の食事会をするそうだ。それに来いってね」
佑司はまた、ため息をついた。

「行けばいいじゃないか。最近、会いに行ったのか?」
「そんな呑気なこと言ってられないよ」

 さきほどの、営業先でのことが尾をひいているようだ。
「驚いたよな、ムゲンはうちの半分の見積もり出してた。半分だよ、半分。いったいどうすりゃそれで、儲けが出るんだ?」
「決まってる。おれたちに過労死させるのさ」
佑司は頭をぼりぼりとかいた。

 ムゲンとは、彼らの会社「幸福印刷」の競争相手だ。インターネットなどによる、紙による出版物の減少と、さらにこの不況で、印刷業界は仕事の取り合いをしている。

 吉沢が舌打ちをした。角を曲がると、車が動かず渋滞している。「最近はいつでも混んでるな」と、ハンドルを軽く叩きながらつぶやいた。

このあたりの商店街も、以前は定休日があるところが多かったが、今は年中無休にしているところが大半だ。その中にもシャッターが降りたままで、貸店鋪と書かれているところもぽつりぽつりある。

「朝でも夜でもみんな働いてるさ」
「うちは残業は9時までになっただろう?」
「ああ、残業手当てが出るのが9時までとね」

佑司が苦笑いをした。
「まったく、給料は減る一方だし。50以上だった早期退職募集、今度は40歳以上だってな。しかも希望者いなくても何人かリストラだぜ。まいったな」

「その先でちょっと止めてくれ」と、佑司が前を指した。
「またか?」
「先に担当の部下が行ってるし、おまえが行くならおれまでいいだろう」

 得意先が発注を渋っていて、そのために上司が顔を見せろと部長からの指示だった。
「誠意で仕事が取れるんなら、それもいいが」

渋っているのは金のことだ。もっと安くたたこうと思っている。同業者が恐ろしく安い見積もりを出したのだろう。今は長年の付き合いがあるというだけでは、仕事は取れない。

 佑司は鞄を抱えると、車のドアを勢いよく閉めた。もわっとした熱気がアスファルトからたちのぼり、汗が吹き出る。雲ひとつない空を見上げ、またため息をつき歩き出す。行く先は決まっている。吉沢が「またか」と言った先だ。

仕事の下請けをしてくれて、もうずいぶん長い付き合いになる仲尾という男の仕事場のある建物に向かう。

最近はろくに仕事のつながりがない。仕事を持っていくわけでもない所に何の用があるんだと、吉沢はそう言いたげだった。

 5階建ての古びたビルの2階に、その男の事務所はある。『NAKAO』と書かれた扉を開けると、そこには誰もいなかった。変に片付いている。

仲尾が2日前に自殺したというのを、もどってきたとなりの事務所の男から聞いた。

「気にするな。おまえのせいじゃない。仲尾さん、なんでも同じビルのつぶれた飲み屋の保証人になってたらしいじゃないか」と、吉沢が大きく煙草の煙りを吐いた。

 佑司と吉沢は蕎麦屋で昼食をかき込み、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら一服しているところだった。佑司は煙草をやめているので、手持ちぶさたに缶コーヒーを揺らしている。

 仲尾という男とは、もう20年になる付き合いだった。彼が営業の仕事に慣れ、部下もでき、自分が少しは決定権を持てだした頃からになる。佑司がデザインの仕事を発注していた。

仲尾は佑司がどんな無理をいっても、なんとかいつも応えてくれた。どんな仕事にも文句を言わず、手も抜かなかった。

今にして思えば、かなりの無理難題を、当然のように押し付けていた。しかし、最近は取れる仕事自体が減り、仲尾にまわす仕事もなかった。

「おまえのせいじゃないんだ」
吉沢がまた言った。
「それにここ最近は、おまえ、かなり気にして、仲尾さんのとこへ顔を出してたじゃないか。ほら、このあいだも。自殺しそうな感じ、おまえ、勘づいていたのか?」

佑司はぎゅっと目を閉じた。

 仲尾がベッドからふらりと立ち上がる。うつろな上を見る視線。梱包用の茶色の紐が部屋の仕切りの梁に何重にも巻かれていた。仲尾は椅子にのり、何重にも巻かれ大きくなった紐の輪に手を伸ばした。

 それは、佑司が見た夢の光景だった。1週間ほど前のことだ。

「おいおい」
吉沢が声をあげた。あきらかにふざけているかのように思っている。しかし佑司が一向に表情を変えないのをみて、不審な顔をした。

「だから、仲尾さんのところに顔を出してたんだ」
「そうなら、仲尾さんを止めてやればよかっただろ」と、吉沢はあきらかに信じていない口調だ。

「自殺をやめなさいとでも言うのか?」
「まあ、自殺したいやつは、まわりがどう言って止めても、いつかは自殺するだろう」
「おまえなあ!」
「だから、おまえのせいじゃないって言ってるんだよ」
吉沢が佑司に言い訳でもするように、あわててそう言った。

「これまでもいろいろ見たのか?いや、もし、正夢を見るっていうんなら」
佑司は首を横に振った。

 ただ首を横に振ったが、嫌でも思い出さずにはいられない。
彼が最初にみた恐ろしい夢は人が殺される夢だった。

 雨のしずくが跳ねる音が、絶えまなく続いている。ビニールの上に跳ねるしずく。つたっては流れ落ちる。どんよりした空から、雨が広がるように彼女の顔めがけて降り注ぐ。

 ビニールに顔を覆われた彼女は、ベランダのてすりに背中を押し付けられ、反り返って天を仰いでいた。その静止した姿に反して、後ろに縛られた両手の指だけは激しく動き、痙攣していた。

聞こえている子供向けの無邪気な音楽が、あまりにもミスマッチな光景だ。顔のかたちがくっきり表れるほど、彼女の顔にはビニールがぴったり密着している。

中まで濡れているせいか、余計張り付いている。途切れ途切れの、ひいひいと細く高い音が漏れる開いた口元に、ビニールが引っ込んだり、わずかに出たりしていた。

さらにビニールが密着する。やがて大きく開いた口元のビニールはひっこんだそのまま、二度と動くことはなかった。

 首がさらに反り返った。彼女の無防備な白い咽。その背後には広い空と街が広がり、テレビ局の鉄塔が見えていた。

 それは佑司には忘れられない夢の光景だった。だがそれを吉沢に言う気はなかった。

「疲れてるんだよ。仕事でさ、いろいろあるからな」
吉沢が煙草の吸い殻を踏み付けた。

「食事会、行ってこいよ。ここんとこ、休日出勤までして休みもとってないし。アキちゃんやシュウくんにもしばらく会ってないだろ」
「いや、いいんだ。あさっては会議もある」
「時枝…」吉沢は心配そうな顔をした。

 どうやら、佑司が仕事や知人の死で、精神的にまいっているから、正夢などとおかしなことを言うと思われているようだった。

「吉沢、部長なんかは印刷業務ばかりにこだわらず、IT化をすすめるとかはりきって言ってるが、おれに言わせれば、そういうのはウヨウヨある。会社の強みは印刷技術と、それに伴うデザイニングのノウハウがあることだ。だからあくまでも印刷が中心で、それにネット分野を付加していけばいいと思うんだ。上の連中は具体的ビジョンをまるで持ってないが」

 佑司はまくしたてた。精神的にまいっているように思われたくなかったのだ。夢のことは言うべきじゃなかったと、後悔する気持ちが押し寄せる。

「おまえの言うとおりかもしれない。おれは疲れてるんだろうな。さっき言ったことは忘れてくれ」
夢は記憶の奥底へ追いやった。

「それを今度の会議で言うのか?」
「まさか」

「いや、仕事の話さ、さっきの」
「ああ、とうに言い続けてきたけどね。まるで反応なしだ」
「やれやれ。だが、おまえが同期で一番に出世するはずだな」

「給料がこれ以上、下がるのが嫌なだけだ」
佑司は、また新たな煙草の1本を取り出した吉沢を残し、立ち上がった。
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