第25話 瓶の底

文字数 3,634文字

 暗闇の中、セミの声が聞こえていた。雨戸の隙間から光が線のように洩れ入り、少し離れたところでは、コンコンコンと規則正しく、固いものを叩く音がしている。

 彼は冷蔵庫を開けた。その黄色い明りは、9歳の彼の目にやさしく映った。汗まみれの前髪がはり付いた額に冷気が触れる。彼は冷蔵庫の中を、顔を突っ込むようにして懸命に見た。

 すぐ横の扉のポケットに牛乳パックを見つけた。掴むと中に少しは残っている重さだ。すぐに彼は飲む。が、吐き出した。こぼれた白い液体には軟らかめの固形物が混じり、すえた臭いを発散している。彼はしつこく唾を吐き出しながらも、なおも冷蔵庫の中をのぞく。そしてイチゴジャムのビンを見つけると、目の前にかざした。ジャムがまばらな感じで、ほとんどビンの底にくっついたくらい残っている。

素早くふたを開けて指を突っ込んだ。ジャムが、彼の懸命に伸ばした細い指先に触れる。彼はそれをビンの側面に押し当てるようにして持ち上げると、その手の先を口にくわえてしゃぶった。何度も何度も、ビンに手を突っ込む動作を繰り返しては、わずかに指先についたジャムをべろべろなめる。体中の毛穴という毛穴が開ききってしまったかと思えるほど汗が流れて、薄汚れたずぶ濡れのTシャツをそのまま濡らし続けている。しかし彼はただ無心にジャムをなめ続けていた。

 金槌を持ち、背後に立っている女に気付かなかった。
「なにしてるの」
 そう言われて、彼はビンを抱え込むようにして床にうずくまった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
がたがた震えている。
「困った子ねえ。宿題終わったの?」
彼女の語気が強くなった。片手には金槌を持ったまま、もう片方の手で、彼の抱えたほとんど空のジャムの瓶を取り上げる。

「さっさと夏休みの宿題は終わらせなさい。夏休みの最後に適当にやるなんて、許しませんよ」
そう言うと、ジャムの瓶に金槌を思いきり叩き付けた。瓶はぐしゃっと割れ、破片がいくつか飛び散った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 彼女は、そう言い続ける彼の腕をひっぱり、ひきずるようにして階段を上がる。
「お仕置きに、この家からあと1週間出てはいけません。ちゃんと出られなくしてるから、ズルしようとしてもダメですからね。勝手に冷蔵庫開けた子には、今日のご飯はありません」
彼を押し込め、そう言うと、ぴしゃりと戸を閉めた。

 彼は畳の上でうずくまった。雨戸が閉じられていて、部屋の中はものすごく蒸し暑かった。彼は手探りで本の感触を確かめた。ずっとそこにある。

「まじょがやって来ると、その村は氷りつき、やみがすべてをしはいした…」
 彼は暗闇で物語をつぶやきだした。夏休みの宿題の読書感想文のための推薦図書の『ツンドラのまじょ』だ。彼に与えられたものはこれしかなかった。感想文を何度書いても、彼女にこんなんじゃだめだと破り捨てられた。
「まじょにはだれもこわがってちかよらなかったが、羊かいの少年だけはちかづいた。少年はいつもひとりぼっちで、だれかと話したかったし、だれかに好かれたかったから。そして、まじょは少年と話して、好きになってくれた」

なおも、すっかり覚えてしまった物語をつぶやき続ける。
「まじょはこごえて死んでしまった少年をマントにくるみ、馬車にのせると、やがてどこかにさっていき、村には明るいひるの世界がもどったのだった…」

 その夜、闇の中、彼は足で確かめながら、階段をそろそろ下りる。電気をつけると、見つかりはしないかと思ったからだ。下りて左に曲がると、まっすぐに廊下がある。右側は窓が並び、左側には居間がある。そのまままっすぐ先にはトイレへの長い廊下がある。手探りで窓を触るとざらざらした木の感触があった。ささくれだったところが手の平を刺激した。内側から窓には木の板が当てられ、釘が打たれている。彼は急ぎ足でトイレの廊下へ行く。廊下の一番手前には電球に明りがつけられるが、電球の上のところを回さないとつかない。彼の身長では届かなかったから、手探りで進む。蒸し暑さで汗がしたたり落ちるのを、彼は小さな手でぬぐった。

 まっすぐつきあたって、右に曲がると小便器があり、その奥に個室があった。そこには窓がある。あの大きさなら抜け出られそうに思っていた。あと少しだと思ったとき、明りがついた。驚いて振り向くと、橙色の明りの中に彼女が立っていた。

「なにしてるの」
 パジャマ姿で、手には短い木切れを持っている。
「宿題は終わったの?」と、すたすたと歩いて来た。
「ごめんなさいごめんなさい」
「トイレに行くなら、ちゃんと許可をもらいなさい」
彼女はその木切れを彼の手にぎゅうっと押し当てた。その先には反対側から打たれた釘の先が大きく飛び出ていた。彼はうめき声をあげながらも、必死に耐えようとしていた。そのまま彼はまたひきずられるように、階段のところまで連れて行かれた。

 そのとき急に彼女は木切れを落とすと、「ごめんね、ごめんね。痛かったでしょ」と、彼を抱き締めた。彼は肩を抱かれながら階段を上がる。うつむいて後ろを振り向く彼の目に、階段の下に転がっている木切れが映った。

 彼女は時々眠りからさめたように態度が豹変し、彼をますます混乱させた。今の彼女はとてもやさしいが、また別人のようになるのを恐れた。また閉じ込められる、その思いは彼に思いもかけない行動を取らせた。

 階段を上がりきったとき、彼女を全ての力で押した。彼女は簡単にバランスを崩し、転げ落ちた。激しく落ちた音の後は静まりかえっていた。

 彼は電気をつけた。彼女がうつ伏せの状態で倒れている。そろそろとおりていくと、のぞきこんだ。血がべっとりとあった。彼女は木切れに額を押し付けたまま、目を見開いていた。彼は一瞬身体をそらすが、その彼女の表情がもはや固まったままなのを知った。


 *    *


 埃の積もった薄暗い居間で、コージは突っ立ったままだった。息が苦しい。記憶から消えていた過去がいま、悪夢のように蘇ったからだ。

 自分が、母親を、殺した。

 その事実は彼を打ちのめした。母親が階段から落ちて死んだのは、事故だとずっと思っていた。いや、自分が殺したという記憶を、自分自身が消していたのだ。

 彼はおそるおそる廊下へ行く。階段、そして反対側にはトイレへの廊下が見えた。はっとした。誰かがいると思ったからだ。が、それは廊下の先の正面、洗面台の上にある鏡に自分が映っていたのだった。昔と同じ所にあるが、小さな彼の姿は映らなかったのだ。

彼はゆっくり廊下を歩いていく。右側の窓は雨戸が閉まっているが、所々腐って剥げ落ち、光が漏れ入っている。光と影が交錯する不思議な光景だった。

 この母の実家には、彼が物心ついたときにはもう祖父母はいなかった。父親は単身赴任していたから、母と2人でこの実家で暮らしていた。父はたまに休みで帰ってくると、彼の腕や脇などに内出血や切り傷の痕があるのを見た。

母親が彼にしていたことを知らなかったはずはないと思う。だが、きっと見て見ぬふりをしていたのだ。そしてコージ自身の記憶細胞もまた、見なかったことにしてしまったことだった。それがなぜいま蘇ったのだろうか。忘れ去ったままだったらよかったのにと思う。

 そのとき、鏡の中に顔を見た。自分の顔の後ろに、ゆっくりとこちらに近づいてくるぼんやりした人の姿があった。彼は恐怖のあまり、振り返ることができなかった。そのまま窓と反対側のスリガラスを開け、一気に部屋を駆け抜けた。昔は布団やいろいろ物置きになっていて使われていなかった部屋だ。そこを抜け、台所を抜け、玄関にたどりつくと外に出て、振り返りもせず戸を閉めた。荒い呼吸を整えようとするが、治まりそうにない。

 ひざに手を当てて、体を曲げて息をした。そのとき、足元に割れた瓶のかけらが転がっているのに気がついた。自分が冷蔵庫を開けて、必死で瓶の底のジャムをなめようとしたことを思い出す。瓶のかけらを拾い上げ、汚れをふいて目の前にかざした。

太陽の光の中、瓶が透けて見える。が、そこに黒い影が見えた。反射するはずのない瓶に映る影。その影がとうとうはっきりと見えた。
「お母さん…」
 

 その日、市内中心部の繁華街で倒れたコージがすぐに病院へ搬送されたが、彼はすでに死んでいた。心臓発作だった。目撃者は、彼が気でも狂ったかのように走り続けていたと語った。


 *     *


 9歳のコージは走りだした。階段の電気の薄明るさをたよりに、トイレへの廊下を走り、そして個室の窓を開けると、そこから抜け出た。虫の声と、木が風に揺れる音が一気に彼の耳に入ってきた。見上げると満天の星空がある。彼は大きく息を吸い込むと、再び走りだした。家の小さな坂をかけ下り、道路を渡り、走り抜けて行った。

「お母さんお母さんお母さん…」

 彼は走りながらずっとつぶやく。彼の頬を横に、涙が流れていった。


   瓶の底 おわり


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