第18話 偽王
文字数 4,343文字
偽王(モック・キング)
ライブハウスでは、バンドのリハが始まっていた。ロクたちのバンド、トラッシュも出るため、私はコージとやってきた。トモエの一件から日も浅く、素直に楽しめない気分のままだ。
「ヒジリ、あの男」コージが言った。「ずいぶんオッサンじゃん」
マシタのことだ。このあいだ、コージに会ったときマシタがいっしょだった。
「まさかサヨコみたいに」
サヨコは例の件で、親に謹慎させられている。もちろんカレシとは別れさせられた。
「まさか。だからちょっとした知り合い」
「ふーん、そう」
コージは何か言いたげだった。
マシタと私は、そんなふうに見えてるんだろうか。
「レイジのこと、知ってるか?」
「レイジ?」
マシタのことを思い出していたからあわてた。
「おとといから、いなくなった」
本当にショックだった。レイジまでもが、何か恐ろしいことに巻き込まれたんだろうか。
「たぶん体育の横田のとこだよ」と、コージはあっさり言った。以前、ビルの屋上でトモエが横田とレイジの噂を言ってたのが、もうずいぶん前の遠い日のことのようだ。
「ほっときゃいんじゃない?」
コージはレイジとはあまり親しくない。というか、彼はレイジのことが苦手なんだと思う。なぜかって言われるとわからないけど、好きとか嫌いとかそのニュアンスって黙っていても伝わる。
でもレイジはこのところ変だった。トモエの件より少し前だった。本屋で偶然あったとき、何だかそわそわしてて、落ち着かない感じだった。何かに気をとられていた。それも怯えている、という感じで。
妹のミチルも、小島ユウキが死んでから何かに怯えている様子だけど、それは仲間が殺されたというショックだと思っていた。でも、そのミチルとレイジの同じような怯え方に、私はキャロリーンのせいじゃないかという嫌な思いがしていた。
だって私のまわりでは、このところ不吉なことばかり起きてる。ただの偶然にしては、あまりにも不幸だらけだ。不吉なことが私に向かって、どんどん近付いてくるみたいで怖かった。
「あ、ロク」
アンプに囲まれた狭いステージに現れたロクに、コージが手を振った。リハの途中で楽屋に行っていたロクが、上機嫌で戻ってきたところだった。ロクはヴォーカルだ。彼らはインディーズではけっこう有名で、メジャーを目指してる。
私は楽屋の前にある販売機へ、飲み物を買いに行った。今まで気付かなかったんだけど、もうひとつ奥にも楽屋があるのが見えた。ちょっと扉が開いている。買ったお茶を持って、中をのぞくが、椅子の前に鏡が並んでるよくある楽屋は、しんとしていた。
戻ろうと思ったとき、鏡の隅に人が映ってるのが見えた。
「モックキング、モックキング、モックキング…」
男が同じ言葉を繰り返している。
死ぬほど驚いて振り向くと、白いものが混じったぼさぼさ頭の男が、うつむいて部屋の隅に座っていた。
「彼はきっと有名になるよ」
男が言った。
「それ、ロクのこと?」
「おれもかつてはそうだった」
男は勝手にしゃべりだした。その男の、ずいぶん昔のことのような話を聞く気にはなれなかった。
「運命に抗うことはできない。どんなにもがこうとな」と、私が出て行こうとしたとき、その男が言った。
あの夢を思い出す。何度か繰り返される私が殺される夢。
「運命なんて変えられるよ。自分の行動しだいで」
私がそう言うと、男は頬にしわを集めて笑った。弾力のない、かさかさの肌をしている。
「さっきのやつはさ。最初は音楽やってるだけで楽しかったんだ」
「誰のこと?」
私の質問を無視して、男はそのまましゃべる。
「それがそのうち、すごく有名になって、音楽が売れまくって、金もうけしたいと思い出したんだ。目的が音楽から金と名声に変わったやつは、今からみんなに崇拝される偉大なアーティストになった自分を思い描き、インタビューへの答え方まで夢想し始める。
確かにやつは、もうすぐメジャーデビューする。そしてわずか1年ほどの間に人気がでて、有名になる。そのときインタビューで、彼はこう答えるだろう。かつて考えた答え方で、“今でも昔の友だちとは変わらず、同じようにつきあっています”とね」
そう言うと、ばかばかしそうに笑った。男の目は落ち窪み、影をつくっている。それは、頭蓋骨の目のところは丸く穴が開いていることを想像させた。
「はっ。変わらないわけがないだろう?同じわけがないだろう?同級生が初任給手取り十何万かもらってる頃に、やつは彼らの年収以上をひと月に稼いでいるのにさ。昔クラスがいっしょだったというだけで金の無心に来る『友だち』や、会わせてやるといって大勢連れて強引に面会にくる『友だち』もいるっていうのに。でもやつはのうのうとそう答えるんだ。だからって別に、やつに悪意があるわけじゃあないよ。やつは人々を救済する運命を担ったのさ」
男は話を続けた。
「やつがマイクを持って歌いながら、意識的に計算されたポーズをきめるたびに、やつのファンはどんどん増えるだろう。そしてファンはひとりひとり違う、やつの偶像をあがめ奉るんだ。『あなたのおかげで私もがんばろうって気になりました』とか、『どんな夢もがんばればかなえられると教えられました』『あなたは誰よりも一生懸命生きてる』『あなたが本当はとても繊細でやさしいことは、歌を聞いているとわかります』『私のことを歌ってくれて、救われる思いがしました』『いつもどうってことないよって、私をはげましてくれてありがとう』『がんばって!私もがんばります』『コンサート、2階の真ん中にいますから、あなたと同じオーラの私をみつけてください』とかね。みんな違う『あなた』を過剰に求める。やつにがんばってと言いながら、本当は彼らの方が救済を求めているのさ。
やつは歌うたびに、いくつもの自分の偶像を請け負い、どんどんふくれあがっていく。そしてやつはそのぶん年をとるのさ。どんどん、どんどんと…」
男は顔を上げた。しわだらけで、笑うと歯が欠けているのがわかる。
「モック・キングを知ってるか?」
私は首を振った。
「太古の昔、国を治める王は決まった時期、災害や飢饉が起きたり、儀式をやるときとかに、自分の身代わりに偽物の王をたてた。それがモック・キングだ。モック・キングは一定の期間、王のようにふるまえる。わがままもし放題だ。しかしモック・キングの運命は、選ばれたとき決まってる」
「どうなるの?」どきどきしてきた。
「生け贄として殺されるのさ。そうして王は穢れを払い生まれ変わることで、民たちの王であることを示し、民の住む世界もまた浄化される…」
男はため息をついた。
「1年前、今のおれのように年とった男が、おれに『王になりたくないか?』といった。おれは軽い気持ちだったんだ。ほんの軽く『なりたいね。みんながひれふすほどに』と、笑って言っただけなのに…」
背筋が冷えてくるのがわかった。男はふいに私の方を向き、笑ってこう言った。
「ねえ、王になりたくないか?」
私はあわてて部屋を出ようとした。
そのとき、ドアが勝手に勢い良く閉まった。ドアのノブをまわそうとするが動かない。そして男が「モック・キング、モック・キング、モック・キング…」と繰り返しながら、どんどん私の方に近付いてきた。
「大丈夫?」
ぼんやりとした視界にはいってきたのは、女の人だった。どこかで見たことがある。そうだ、病院でマシタに近付くなといったあの女だった。私ははっと目をさまし、あたりをうかがった。
「あの男は…」
「男?あなたしかいなかったけど、ヒジリ」
「どうして私を?あなたはいったい誰なんですか?」
「私はケイ。マシタを追ってるの。でもまだ苔の在り処がわからないみたいね」
「キャロリーンを知ってるんだ」
「もちろんよ。彼があなたに何を言ったか知らないけど、信じてはだめ。彼は確かに苔を探してるけど、その苔はあまりに危険すぎて、我々が処分しようとした。でも苔はわずかに残っていた。彼はそれを手に入れようとしている」
「手に入れたら?」
「あの苔で、人々をコントロールできるのよ。危険すぎるの。彼が手に入れる前に阻止しなくては。彼には十分気をつけて」
私の肩に手をかけてそう言うと、ケイという女の人は立ち上がった。
「この街をおかしくしているのは、すべてキャロリーンのせい?」
「そうよ。あなたもこれまでいろいろ何かを見せられたはず。でも安心して。私がマシタを見張ってるから。だからいい?私のことは今は彼に言ってはだめよ」
そういうと、彼女は去って行った。
私は立ち上がると、ぼんやりとあの楽屋の方を見たが、自動販売機の奥には扉などなかった。ただ壁があり、そこに破れかけたポスターがあるだけだった。それは1年ほど前に急に人気がでたバンドのコンサートのポスターだった。でも人気の絶頂に突然、ヴォーカルが失踪した。でも音楽の世界のサイクルが早いのか、もうずいぶん昔のことのようだ。あれだけたくさんいたファンはどこに行ったんだろう。はっとしてポスターを見つめた。あの年取った男の顔は、このポスターのヴォーカルに似ていたんだ。
「ヒジリ、おせーよ。ロクたち始まるぜ」
コージが大きく手招きして、私を呼んだ。
会場はぎゅうぎゅう詰めで、熱気がすごかった。私はコージの後についてようやく人の間を抜けて、自分の場所を確保した。トラッシュの音楽にみんなが揺れている。ロクが客に声をかけるたびに、ものすごい歓声があがる。コージが私をつっ突いた。
「あれ、××の人だってさ」と、コージがメジャーな企業の名をだした。
コージが目線を送る方には、場違いな背広姿の男がいる。熱気のなか、ひどく醒めた目をロクたちに向けていた。
「もしかしたらメジャーと契約するかもしれないって、さっきロクが言ってたよ」
「ネットで十分人気あるし、このままやってけば」
「大手がつけばあっという間に全世界で成功だろ」
コージは客の揺れに自分も合わせた。歓声をあげる。
でも私はそこにいながら、1人だけ別の場所にいるような気分だった。さっきの男が思い出される。まさかロクは、『王になりたくないか?』というあの男の問いかけに答えたんだろうか?
再び耳元で客の女の子の嬌声があがる。ステージでロクは光り輝いて見えた。みんな誰もが熱心な信者のようにはまって浮かれている。でも私の脳裏ではあの男の言葉がいつまでも続いていた。
『みんな救済を求めているのさ。やつは歌うたびに、いくつもの自分の偶像を請け負い、どんどんふくれあがっていく。そしてやつはそのぶん年をとるのさ。どんどん、どんどんと…』
偽王 おわり
ライブハウスでは、バンドのリハが始まっていた。ロクたちのバンド、トラッシュも出るため、私はコージとやってきた。トモエの一件から日も浅く、素直に楽しめない気分のままだ。
「ヒジリ、あの男」コージが言った。「ずいぶんオッサンじゃん」
マシタのことだ。このあいだ、コージに会ったときマシタがいっしょだった。
「まさかサヨコみたいに」
サヨコは例の件で、親に謹慎させられている。もちろんカレシとは別れさせられた。
「まさか。だからちょっとした知り合い」
「ふーん、そう」
コージは何か言いたげだった。
マシタと私は、そんなふうに見えてるんだろうか。
「レイジのこと、知ってるか?」
「レイジ?」
マシタのことを思い出していたからあわてた。
「おとといから、いなくなった」
本当にショックだった。レイジまでもが、何か恐ろしいことに巻き込まれたんだろうか。
「たぶん体育の横田のとこだよ」と、コージはあっさり言った。以前、ビルの屋上でトモエが横田とレイジの噂を言ってたのが、もうずいぶん前の遠い日のことのようだ。
「ほっときゃいんじゃない?」
コージはレイジとはあまり親しくない。というか、彼はレイジのことが苦手なんだと思う。なぜかって言われるとわからないけど、好きとか嫌いとかそのニュアンスって黙っていても伝わる。
でもレイジはこのところ変だった。トモエの件より少し前だった。本屋で偶然あったとき、何だかそわそわしてて、落ち着かない感じだった。何かに気をとられていた。それも怯えている、という感じで。
妹のミチルも、小島ユウキが死んでから何かに怯えている様子だけど、それは仲間が殺されたというショックだと思っていた。でも、そのミチルとレイジの同じような怯え方に、私はキャロリーンのせいじゃないかという嫌な思いがしていた。
だって私のまわりでは、このところ不吉なことばかり起きてる。ただの偶然にしては、あまりにも不幸だらけだ。不吉なことが私に向かって、どんどん近付いてくるみたいで怖かった。
「あ、ロク」
アンプに囲まれた狭いステージに現れたロクに、コージが手を振った。リハの途中で楽屋に行っていたロクが、上機嫌で戻ってきたところだった。ロクはヴォーカルだ。彼らはインディーズではけっこう有名で、メジャーを目指してる。
私は楽屋の前にある販売機へ、飲み物を買いに行った。今まで気付かなかったんだけど、もうひとつ奥にも楽屋があるのが見えた。ちょっと扉が開いている。買ったお茶を持って、中をのぞくが、椅子の前に鏡が並んでるよくある楽屋は、しんとしていた。
戻ろうと思ったとき、鏡の隅に人が映ってるのが見えた。
「モックキング、モックキング、モックキング…」
男が同じ言葉を繰り返している。
死ぬほど驚いて振り向くと、白いものが混じったぼさぼさ頭の男が、うつむいて部屋の隅に座っていた。
「彼はきっと有名になるよ」
男が言った。
「それ、ロクのこと?」
「おれもかつてはそうだった」
男は勝手にしゃべりだした。その男の、ずいぶん昔のことのような話を聞く気にはなれなかった。
「運命に抗うことはできない。どんなにもがこうとな」と、私が出て行こうとしたとき、その男が言った。
あの夢を思い出す。何度か繰り返される私が殺される夢。
「運命なんて変えられるよ。自分の行動しだいで」
私がそう言うと、男は頬にしわを集めて笑った。弾力のない、かさかさの肌をしている。
「さっきのやつはさ。最初は音楽やってるだけで楽しかったんだ」
「誰のこと?」
私の質問を無視して、男はそのまましゃべる。
「それがそのうち、すごく有名になって、音楽が売れまくって、金もうけしたいと思い出したんだ。目的が音楽から金と名声に変わったやつは、今からみんなに崇拝される偉大なアーティストになった自分を思い描き、インタビューへの答え方まで夢想し始める。
確かにやつは、もうすぐメジャーデビューする。そしてわずか1年ほどの間に人気がでて、有名になる。そのときインタビューで、彼はこう答えるだろう。かつて考えた答え方で、“今でも昔の友だちとは変わらず、同じようにつきあっています”とね」
そう言うと、ばかばかしそうに笑った。男の目は落ち窪み、影をつくっている。それは、頭蓋骨の目のところは丸く穴が開いていることを想像させた。
「はっ。変わらないわけがないだろう?同じわけがないだろう?同級生が初任給手取り十何万かもらってる頃に、やつは彼らの年収以上をひと月に稼いでいるのにさ。昔クラスがいっしょだったというだけで金の無心に来る『友だち』や、会わせてやるといって大勢連れて強引に面会にくる『友だち』もいるっていうのに。でもやつはのうのうとそう答えるんだ。だからって別に、やつに悪意があるわけじゃあないよ。やつは人々を救済する運命を担ったのさ」
男は話を続けた。
「やつがマイクを持って歌いながら、意識的に計算されたポーズをきめるたびに、やつのファンはどんどん増えるだろう。そしてファンはひとりひとり違う、やつの偶像をあがめ奉るんだ。『あなたのおかげで私もがんばろうって気になりました』とか、『どんな夢もがんばればかなえられると教えられました』『あなたは誰よりも一生懸命生きてる』『あなたが本当はとても繊細でやさしいことは、歌を聞いているとわかります』『私のことを歌ってくれて、救われる思いがしました』『いつもどうってことないよって、私をはげましてくれてありがとう』『がんばって!私もがんばります』『コンサート、2階の真ん中にいますから、あなたと同じオーラの私をみつけてください』とかね。みんな違う『あなた』を過剰に求める。やつにがんばってと言いながら、本当は彼らの方が救済を求めているのさ。
やつは歌うたびに、いくつもの自分の偶像を請け負い、どんどんふくれあがっていく。そしてやつはそのぶん年をとるのさ。どんどん、どんどんと…」
男は顔を上げた。しわだらけで、笑うと歯が欠けているのがわかる。
「モック・キングを知ってるか?」
私は首を振った。
「太古の昔、国を治める王は決まった時期、災害や飢饉が起きたり、儀式をやるときとかに、自分の身代わりに偽物の王をたてた。それがモック・キングだ。モック・キングは一定の期間、王のようにふるまえる。わがままもし放題だ。しかしモック・キングの運命は、選ばれたとき決まってる」
「どうなるの?」どきどきしてきた。
「生け贄として殺されるのさ。そうして王は穢れを払い生まれ変わることで、民たちの王であることを示し、民の住む世界もまた浄化される…」
男はため息をついた。
「1年前、今のおれのように年とった男が、おれに『王になりたくないか?』といった。おれは軽い気持ちだったんだ。ほんの軽く『なりたいね。みんながひれふすほどに』と、笑って言っただけなのに…」
背筋が冷えてくるのがわかった。男はふいに私の方を向き、笑ってこう言った。
「ねえ、王になりたくないか?」
私はあわてて部屋を出ようとした。
そのとき、ドアが勝手に勢い良く閉まった。ドアのノブをまわそうとするが動かない。そして男が「モック・キング、モック・キング、モック・キング…」と繰り返しながら、どんどん私の方に近付いてきた。
「大丈夫?」
ぼんやりとした視界にはいってきたのは、女の人だった。どこかで見たことがある。そうだ、病院でマシタに近付くなといったあの女だった。私ははっと目をさまし、あたりをうかがった。
「あの男は…」
「男?あなたしかいなかったけど、ヒジリ」
「どうして私を?あなたはいったい誰なんですか?」
「私はケイ。マシタを追ってるの。でもまだ苔の在り処がわからないみたいね」
「キャロリーンを知ってるんだ」
「もちろんよ。彼があなたに何を言ったか知らないけど、信じてはだめ。彼は確かに苔を探してるけど、その苔はあまりに危険すぎて、我々が処分しようとした。でも苔はわずかに残っていた。彼はそれを手に入れようとしている」
「手に入れたら?」
「あの苔で、人々をコントロールできるのよ。危険すぎるの。彼が手に入れる前に阻止しなくては。彼には十分気をつけて」
私の肩に手をかけてそう言うと、ケイという女の人は立ち上がった。
「この街をおかしくしているのは、すべてキャロリーンのせい?」
「そうよ。あなたもこれまでいろいろ何かを見せられたはず。でも安心して。私がマシタを見張ってるから。だからいい?私のことは今は彼に言ってはだめよ」
そういうと、彼女は去って行った。
私は立ち上がると、ぼんやりとあの楽屋の方を見たが、自動販売機の奥には扉などなかった。ただ壁があり、そこに破れかけたポスターがあるだけだった。それは1年ほど前に急に人気がでたバンドのコンサートのポスターだった。でも人気の絶頂に突然、ヴォーカルが失踪した。でも音楽の世界のサイクルが早いのか、もうずいぶん昔のことのようだ。あれだけたくさんいたファンはどこに行ったんだろう。はっとしてポスターを見つめた。あの年取った男の顔は、このポスターのヴォーカルに似ていたんだ。
「ヒジリ、おせーよ。ロクたち始まるぜ」
コージが大きく手招きして、私を呼んだ。
会場はぎゅうぎゅう詰めで、熱気がすごかった。私はコージの後についてようやく人の間を抜けて、自分の場所を確保した。トラッシュの音楽にみんなが揺れている。ロクが客に声をかけるたびに、ものすごい歓声があがる。コージが私をつっ突いた。
「あれ、××の人だってさ」と、コージがメジャーな企業の名をだした。
コージが目線を送る方には、場違いな背広姿の男がいる。熱気のなか、ひどく醒めた目をロクたちに向けていた。
「もしかしたらメジャーと契約するかもしれないって、さっきロクが言ってたよ」
「ネットで十分人気あるし、このままやってけば」
「大手がつけばあっという間に全世界で成功だろ」
コージは客の揺れに自分も合わせた。歓声をあげる。
でも私はそこにいながら、1人だけ別の場所にいるような気分だった。さっきの男が思い出される。まさかロクは、『王になりたくないか?』というあの男の問いかけに答えたんだろうか?
再び耳元で客の女の子の嬌声があがる。ステージでロクは光り輝いて見えた。みんな誰もが熱心な信者のようにはまって浮かれている。でも私の脳裏ではあの男の言葉がいつまでも続いていた。
『みんな救済を求めているのさ。やつは歌うたびに、いくつもの自分の偶像を請け負い、どんどんふくれあがっていく。そしてやつはそのぶん年をとるのさ。どんどん、どんどんと…』
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