第28話『残像』
文字数 1,882文字
「……」
小さく笑う。横に眠る少女は心地よく浅い眠りの中で、寝息を立てている。遠い昔は、わたしが起き上がるだけで目を覚ましていたのに、幾年を経て随分と腑抜けてしまったようだった。其れで良いと思ったのは果たしていつの時代だったか――――。
端に寝返りを打っていたお陰で、ベッドを揺らさずに立ち上がることが出来た。内側に入り込んだ髪を耳に掛けて、わたしは静かに部屋を出る。死んだように静かな屋敷を右へ。生者の息に耳を澄ませながら、わたしは下に降りていく。
そして、左へ曲がろうとした時に――その竜は、わたしを呼び止めた。
「泉?こんな時間に何を――――…………。…………ああ、」
わたしが振り返ると、その竜は悲し気な瞳に変わった。闇夜に緑が光って、陰っていく。わたしは近づくこともせずに、ただ微笑んで見せた。
「夜は眠るものよ。部屋に戻りなさい」
竜は、口を開けずにいた。まるで痛々しいものを見るかのように、ただわたしを見つめている。わたしは、竜が思案する理由に辿りついていた。だから、笑ったの。変わらぬ想いだと感じたから。欠片と言えど、その温度を受け継いでいると優しい痺れの中で感じたから。
「……わたしとて、望んだ結果では無い。大丈夫、すぐに戻りましょう」
「……絶対」
竜は、言葉をしぼり出したのだろう。
嗚呼、その背後に彼女が見える。溢れるばかりのその雰囲気に呑まれた少年は、その目をしてずっと……私を見つめていたのだろう。
「絶対に、元の世界へ帰します」
血を滲ませながら吐く言葉の重みが、頭痛を招く様だ。
わたしは手をはらりと振ると、背を向ける。布が擦れる音を聞きながら、わたしは一度も背後を振り返らなかった。
***
「シリウス……」
一人になって、わたしはとある扉の前で立ち尽くす。脳裏にこびり付いたあの紅の瞳が、離れない。頭を振って、額を抑えようともあの紅が残像のように滲んでいる。
「ふふふ……死者に今更、何ができると言うの?こんな小さな手で……他に誰を……」
扉の向こうに揺蕩う魔術の色は、此方と彼方を繋ぐ道。諦観を抱いたわたしは、この扉の前に足を進めることが出来てもこの扉を開けることは出来ないのだろう。
溜息が零れた。波のように襲い来る悲しみは、彼に近づくたびに大きくなる。
「スワードも……一体何を考えているの……」
揺り籠の中で眠っていたかったのに。どうして、起こすの。
「どうして……どうして……!」
幾度も問いかけたこの言葉に、答える者は終ぞいやしないの。虚空に投げて、消えていく。何度も何度もそれを繰り返す。次第に嫌になって、眠っていたのに。子守歌を聞きながら、今まで眠っていたのに。
「もうわたしは、終わったのよ……。やるべきことを、やるだけだわ」
扉から手を離して、ふらりふらりと道を行く。紅を失ったわたしは、ただ世界の流れに戻るだけだ。この目を開くことも、この足で歩くことも、考えることも、言葉を交わすことも、あってはならないことだ。これ以上軸からずれないために、少しでも早く再び眠らなければならない。
三人を、地球に返すのだ。それしか、出来ない。
それしか……。
「こんばんは。良い夜ですね」
毎夜毎夜、わたしはアスティンを訪れる。目的を共有させているとは言え、何を求めにわたしはこの部屋の扉を開くのだろう。あの扉はいつも開けないでいるのに。
嗚呼、答えはわたしが与えたんだったか……。
「いいわ。わたしはここで」
この部屋の主人たるアスティンが座る場を空けようとした。わたしは首を振って、近くの椅子に腰かける。
「……シリウスもスワードも、変わってしまったわ」
アスティンが近くに腰かける。私は己の瞳を両手で覆って、この地点を否定しようとしているのだろうか。
「変わらないものなどありません」
「ええ、ええ。……わかってる、知っている……――――身をもって、ね。早く、早く帰さないと……。アスティン、頼んだわ」
「御意に。次の新月の夜に、必ず」
もはや視界は揺れずに、確固とした歩幅でわたしはその扉を開く。鮮明な視界が、猶予の終わりを告げている。
「実花……」
私の意志はここにあり、わたしの意志もここにある。まだ隣合わせならば、まだその時では無い。ベッドに再び潜りこみ、わたしは再び目を閉じよう。
聞いているわ。見ているわ。危ない時には手を伸ばしてあげる。
だから――。
嗚呼、わたしが言うべきことではないのかしら。こればかりは。
だって、ねえ。この心は、お前のものなのだから。