プロローグ『ある男の残滓』
文字数 2,330文字
道の先で思案する。この足は、どちらを先に向かわせていたか。――目的か、それとも。
何が故、歩いている。
先んじて目的があり、其方に至らんが為歩んでいたのだったか。
先んじて歩むものであり、その最中に目的が生まれたのだったか。
己は、何が故に歩んでいる。
何が……何が故……己は……先を急いて、いる。
暗闇が如き夜を唯一照らす月の光に、温もりを感じたのは誰であったか。己の頬を照らす忌々しさに、頭を隠す外套を深く、深く引きずり下ろした。夜の帳の中、昏々と煌々としている双眸は、その風貌に相応しくない生気を湛えている。
「……全ては……」
己は、何が故に歩を止められない。
唇と思考の乖離。足と思考の乖離。前進と停滞を繰り返す。
流れていく景色を逃さぬ眼と、留まらぬ足の速度の、乖離。
己を照らすのは、陰の影。
――どれ程の時が過ぎた?
顔をあげた。久しくその行為を行ったような錯覚を来す程、この首が歪な音を立ててずれる心地がする。木の葉が風に揺れ立てる音が、小鳥が朝日を歓ぶ音が、子等が無邪気に笑う声が久しくこの耳に訪れていなかったような錯覚さえした。
喉を通る憎しみ。意識を取り戻して最初に感じるのは、それか。
腰を上げて、歩み出す。
誰も、気づかない。
ただ営みの大きな流れに身を隠し、唯々歩く。
探さなければ。誰よりも早く彼女を見つけなければならない。そうだ、そうだ!彼女を見つけなくては。――嗚呼、そうだ!
闇に差す一筋の光を見つけた気分だ。陽の、紛れも無く、太陽の。
過ぎ行く人の顔を誰一人逃さない様、目を左右に振りながら歩くが、
「違う……違う……違う……違う……」
誰もこの声に気付かない。
俯瞰的に見れば明らかに異様な出で立ちも、獲物を狩る様な冷え切った目も、全て喧騒の中に隠してしまう。――人であるならば、誰も気づけない。故に、全世界を練り歩く。
ただ一人を見つける為に。
「また此処に来たのか」
「……
「――たかが人間の魂一つに目を光らせる冥主が何処にいる!?何度も言わせるな!」
「人だと!?――人であるものか……!」
歩くは地上だけではない。
地の底でさえも、この身は行けるのだから行く。
何度廻ろうと、必ず見つけ出す。この身は、滅ぶことはないのだから。
何よりも、誰よりも早くその魂を掬い出してみせる。――だから、歩くは一つの世界だけではない。
一つの国だけではない。
言語の違いなど、無い。
人種の違いなど、無い。
国の違いなど、無い。
世界の違いなど、関係ない。
あると言えば、この足を突き動かす憎しみか。
時の流れが進む以上、その流れに奪われた君を見つけだす為歩いて往く。
――それが、己が存在する時の中において犯した最大の過ちへの贖罪だと信じている。
故に、歩き続ける他に術は無い。
国を替え、時代を経て、人の変わりゆく様から焦りに心を焦がし、そのたびに軽い眩暈を覚える。
それでも、と足を動かし続け今どれほどの時が経つ?
目の前を歩く、少年少女達。ふと気づけばこの木の枝に膨らんだ桃色の蕾があるではないか。そうか――春か。
胸に色彩を懐古する情さえ失ったか。いや、まだ、ある。春に湧く世界の歓びを一身に受けた笑顔が、まだ咲いているのだ。この胸に。この心に。この、瞼の裏に。
歩かなければ。探そう、見つけるのだ。意志を強く持て、足を動かせ。誰よりも早く、一番に見つけなければ意味がないのだから。
黒目、黒髪―――違う、違う、違う。
通り過ぎる傍ら、再びの喪失感に目を伏せた。風の拭く刹那、細める己が瞳が香る花に――咲いた風景を、映した。
息が詰まる――いや、息が止まる。震えも最早消え失せた。この眼に映る美しい人を見間違えるはずがない。
――どれ程の時が過ぎた?
繰り返す輪廻に触れられない我が身を呪い、地に降りてその魂の在処を求めた日々。死にいく数と生まれ来る数の天秤の秤は既に崩壊し、ただ増え行く大地の上を一つ一つ踏みしめて行った。
時に冥府へ降り、在処を問うた。愚者の色は見えぬとの言葉を遂に一度も違えず、この目を信じるしかないと歩き続けた時に振り返るあの日の醜さに、いつでも草花は荒れ果て世界を呪った。
呪い、求め、嘆き、求め、悲しみ、求め――求め、求め、求め、己が形さえも見失う程求めることでしか己を保てない。
……お許し下さい。
己が罪を必ず雪いで見せると月を恨み、幾星霜が過ぎてしまった。だが、この心が未だ乾き果てても有り続けるのは唯一つの願いの為だ。
悲劇を、二度と繰り返してはならない。
看過してしまった歪の芽を次こそは、一つ残らず摘んでいく。誓います。名に誓う。だから、お声をお聞かせください。
お許しください。
お許しください。
君を恐怖に放りだしたことを、許してくれ。次こそは、その手を包んで離さないから。
「嗚呼……――時間を……掛け過ぎて……しまった……」
いくら輪廻を巡れども、その痛みは薄まらなかっただろう。
だから、探した。泣いていないか、心配だった。
嗚呼、良かった。もし、この世界が円かでは無かったら君は笑っていられたのか?
「漸く――見つけた」
手を差し伸べよう。
君を求める声の果て、導く夢の尾を追った君が僕を間違えないように。
嗚呼、本当に長かった――――。
気が狂う時の果て、この男の贖罪は今ここで始まったのだ。