回 『陰陽の男』
文字数 2,294文字
「これはこれは――……些か、私の手に余りますな。さて、どうしたものか……」
その視界のほとんどが闇であり、その声は頭上から降ってきたようだと彼女は感じた。彼女は身体を起こそうとした――そうすることで初めて、自分が伏せていたのだと気づく。
咄嗟に声の方を見、自分の身体を庇う様に腕を上げたその時に、一条の光が差し込んだ。
月明かり。あばら屋に差し込むその光は、その男を浮かび上がらせる。
「晴明!何やってんの!!頭下げなさいよ!!そんな顔すんなまじで後生だから!!」
「晴明。頭を垂れよ、――オオミカミの御前である」
「……そうしよう」
「遅いっつうの!」
少女の声、二つ男の声。衣擦れの音――辺りを照らした、月影。
「……高天原におわします至高の御身を拝謁いたしましたこと、深くお詫び致します」
三人は、土埃に上等な衣類を汚すことも厭わずに深く叩頭していた。真ん中にて地に頭を付ける男はいっとう上等な狩衣に身を包んでおり、その両端にて頭を下げる二人は唐服を混ぜたような衣に身を包んでいた。
彼女は辺りを見渡して、三人を見渡して、口を噤んだ男を見た。
「……お前、名は?」
彼女は言葉を発したけれども、どこか呆ける思考を持て余している。
「我が名は晴明、――安倍晴明と申します」
「安倍晴明……?お前たち、知っている気配……名は?」
両端に控えていた二人が顔を上げた。少女は我先にと声を上げる。
「お久しぶりにございます!大神様!!あたし、阿弥陀――……今は、太陰と呼ばれております」
少女はそのまま瞳を下げてしまった。彼女は不思議そうに首を傾げたけれども、気にするそぶりは見せず「そう」と次へ。
「お久しゅうございます、天照大神よ。在りし日は如意輪観音、今は太常と呼ばれております」
衣服に崩れは一つも無く、皺も無い。それ故に土埃が似つかわしくない男は、清廉な目をまっすぐに彼女に向けた。
「……そう」
その目に何も意味を見いだせない彼女は、安倍晴明へと視線を向ける。安倍晴明はまだ一度も顔を上げていない。
「此処は?晴明、答えなさい」
「は。此なる地は、日の下の国、」
「――ヤマトね。そう、卑弥呼の時代からそれほど経ったの……」
彼女は立ち上がる。慌てて立ち上がった太陰が、彼女の――三人の中の誰とも同じ形では無い――服に付いた汚れを祓っている。
彼女は、天照大神は晴明の前に進んだ。静かに立ち上がった太常は、衣を一度正すと、そのまま天照大神の背後へ回り、瞳を下す。
「面を上げなさい」
一人、地に伏せていた声明はようやく顔を上げた。
そこには三柱の瞳があった。そこには、力の縮図がありありと示されていた。
「下界に降りたのは久しぶりなの。何、お前達のあの反応を見るに、手繰れてしまったようね?そこは罰には値しない、安心しなさい」
月明かりを受け光り輝く黄金の髪は、天を照らすに相応しく、
「まだ時間は有るもの、良い機会だわ。天ではなく、地よりお前達を見てみましょう」
闇夜に煌く紅の瞳は、誰も彼もに畏怖の念を抱かせる。嗚呼、この御方こそが――かの。
「我が十二天に鎖を掛けた人の子よ、些か負の気配が強すぎるようだけれど、それもまた人の道。晴明、天へ道が出来るまでわたしはお前を通すことにするわ。――さあ、その覚悟があるのならば、立ち上がり膝を付きなさい。その意義無くば、――去れ」
我が国の主神たる、太陽神……天照大神!
晴明は一度も揺るがない瞳をさらに強く漲らせて立ち上がった。震えない身体は、自信に満ちた面を月明りに照らさせて力強く片膝を下げた。
「陰陽を手繰り天子を助く我が身、其を陰陽師。この安倍晴明、陰陽師の頂きに立つ者でありますれば――御身に仕え申し上げる身として、相応しいかと」
天照大神は口角を上げながら、その男の姿に少女を見ていた。
同じような自信に溢れた目をした黒髪の少女。私を妖だの鬼だのと断じて敵意を向けて来た少女。そのくせ、その手は、私を助けてくれるように伸ばされる。
薄れていく景色。離れていく光景。視界が上がっていくような感覚は、わたしと私が僅かに離れる合図。
記憶を覗いてみてしまったのは、その魂と魂が触れたから仕方のないことだ。
たとえ知らない記憶であっても、それを抱いていたのは事実なのだから。
何かのきっかけで掘り起こされてしまったら――それは、知らなかったことに、無かったことに、なり得るのだろうか。
彼女は再び訪れた闇の中で、狂気の音を聞きながらそう思っていた。
嗚呼、もう、こんなにも近くになってしまった。わたしがふと、手を伸ばせば。ふと、瞳を重ねれば、……。
泉、お前を、覆い尽くせてしまう――――。
「……御目覚めですか、エリーシア様」
「……アスティン?」
木材の心地の良い香り。夢か現か、手が動いた。ゆっくりと身体を起こすと、向こうの襖が開いていて、そこから来たであろうアスティンが片膝を付いて、わたしの背を支えた。
「夢を、見たの」
アスティンは何も言わない。
「……それとも、これが夢?」
アスティンを見たその瞳に、橙の瞳が答えを示すように痛みを隠すように僅かに細められる。わたしは笑った。大丈夫よ、と言葉には出せなかったけれど……。
「……。お休みになられますか、エリーシア様……。どうか、良い夢を。わたしには、それしか――……」
闇夜に満月が昇り続けてもう何日目だろうか。
その黄金の輝きは、闇夜を許さないとでも言うように明かり輝き下界を照らす。
安倍鏡子は、まっすぐに満月を見ていた。
妖力満ちる時、満月も満ちるという。――――解いた髪を振り払って、今は窓を閉じた。