第92話『希望』
文字数 1,868文字
「僕がちょちょいと回路を濁したから、眠っちゃった。主様、おてて、貸して?」
軽やかに司祭の横に降りたったバアルは、その短い手を……手招きのつもりで振っている。私は膝を付いて覗き込むと、どうやら司祭の額に手を当てろ、と言っているようだ。
しかし、何も変わらないが……?
「うんにゃあ、目を閉じて」
言われたとおりに従った。
「捜して。糸を、微弱だけど見えるはず、にゃあ。……辿って、先に回路を塞ぐもじゃもじゃがあるはずにゃ」
「……あった。……毛玉、みたいな」
「ふふ!そうとも言えるね。じゃ、それに触れるイメージを持って。……想像の中で端を掴んで、一気に引き抜く!」
「――ッ!福音の子!は、おや、あれ?……
声に目を開けると、当たりは黒と紅の粒子が舞っていた。司祭は驚きに目を丸め、当たりを見渡し身を引いた。私は手をゆっくりと降ろして、怖がらせないように笑ってみた。
「……大丈夫、ですか?」
「な、何をしているのですか!?貴女は、福音を孕んだ子のはずなのに、なぜ、咎色を纏っているのです……!!」
突然倒れたから、混乱しているのだろうか?首を傾げて笑顔を深めても、その怯えを取り払ってあげることは出来そうにない。
「――主様。食べて、いい?」
「……記憶だけなら、いいよ。上手く食べてあげてね」
「はぁい」
怯え、後ずさる男を指差した。
その先から漏れた黒い雫は、赤い血と混ざり合えずに床を伝う。ずるり、ずるりと猫は這い出て、にんまりと牙を剥いた。
「大丈夫だよ。……何も、怖いことは無い」
さあ、私の手を引いて。
さあ、戻ろう。何も起こらず、何も見ず、切り取られた回路の結合は無傷だから……。
「これが魔術だよ。こちら側にいるんだから、……それくらい使えるんだよ、ね?主様」
***
「あ、戻った?司祭から色々話聞けた?」
司祭が扉を開けると、席を立ったところのリアラさんが此方を向いた。グラスを煽っていたリベカが私に言うので、頷いて答える。
「うん。色々聞けた」
「ふんふん。んじゃ問題。ここはどこ?」
「アレステラ!」
「凄いじゃん……」
若干馬鹿にされているような気がするけど、この姿だとその対応も正解に見えるから困る。司祭さんが一礼して下がるのを見送って、私も奥へ進んだ。
「では、私は紅影殿へ行ってみます」
「……話だけでは、信じられないか?」
ええ、とリアラさんは言う。
ユースティティアさんが重い溜息をついて、私を見た。
「完成に至らぬ器に己が主を仕舞うほど、イカレてはいないのだが……」
「わかっています。しかし……見える、魂が……」
私を見下ろして目を褒めた緑の瞳。
辛い、と目を細めて逸らした残像に、ほの悲しさが漂っていた。
「しょうがないよ。それが竜ってもんじゃん。……ま、リアラも賛同してくれたからあたし達は安心したよ。これからも、どうぞよろしく」
歯を見せて笑うリベカに、リアラさんは表情を変えずに頷いた。そのまま扉の前で一礼をすると、音を立てずに部屋を出ていった。窓の外から彼女の後姿が見えるかと思って近づいたが、一度大きな風揺れに窓が軋んだだけで、どこにも姿が見当たらない。
「今の音は、リアラが飛び立った音だ。……紅影殿は、此処と同じように普通では行けない所だから」
遠くを見据える
「ああ、――それにしても素晴らしい!陛下にこんなにも近しい魂が器に適合する、こんな成功例を一番初めに生み出せるとは!」
「ほーんと、運が良すぎて逆に怖いわぁ」
くるりくるりと回って、そのまま椅子に座らされた。ユースティティアさんの白い手が、この金の髪を撫でて頬を撫でる。
「君が、救うんだ。この世で唯一である天空神を。……エリーシア様の、器となって」
「うんう……――あー!忘れてた!やばい!今何時!?時間の概念!どこだっけ!?やばいやばい!!リアラが変に来てたから忘れちゃってた!ユースティ!!グリームニル卿いつ来るんだっけ!?」
紫水の瞳が細められている。私の頬から指先をつい、と離して、ユースティティアさんは溜息を吐いた。
「……明日、だ」
「明日か―!!……なんだ、明日か」
どかっ、と音を立ててリベカが座り溶けるので、私はくすくすと笑った。それにつられるように二人もくすくすと笑う。
細める目の端に、傾いた陽が浮かぶ。嗚呼、もうすぐ夜の時間だ。
……一度目の夜。過去なのだから、これが一度目の夜になる。