第18話『緑の女』
文字数 3,201文字
森をかき分けていくと、石積みの柱が二つ姿を顕した。それらの間を通って、家が次に現れる。……お世辞にも立派な綺麗な家とは形容し難かった。その家を囲むように森は一歩下がっているけれども、雑草は遠慮を知らない。好き放題に延び、家を侵し、その佇まいを汚していた。
あばら家、と言ってもいいかもしれない。
「長らくテミスの沙汰は無かったけれど……これは、どういうこと」
「テミス様は御許しになられていなかったのですね。……なるほど」
アスティンさんの静かな問い掛けに、その男は落胆と息を吐いた。
「実のところを申しますと……
「二日前!?代わりの者は?」
「姿を消してしまった。目覚めるとこのような状態で、聖堂のものは私を除き誰もいなかった……」
アスティンさんは考え込むように周囲を見渡した。
「少し、近くを歩いてもいいかな?」
「ええ、勿論です。ちょうど――――」
「泉さん。こちらへおいで」
「……はい」
男性の口は閉じてしまった。何かを言いたそうに手を向けていたけれど、アスティンさんが歩き出したので私は傍を通り抜けなくてはいけない。その際に頭を小さく下げて、私はアスティンさんの横に並んだ。
「少し前に、この世界の領土について教えたのを覚えている?」
「はい。王様がいる王都、スワードの領土……王様が昔から治めているこの領土、そして風の……」
「そう。そして、この世界にはどこにも属さない土地がいくつかあってね。ここがその一つ――――大審判者が世界を見据える地、アレステラ。ユースティティアという審判者が直轄し、王都、グリームニル、シャンカラ、サルースを全て繋ぐ唯一の中間地点」
脳裏に世界地図を思い浮かばせる。
私たちはスワードの領、その城から逃げ出た。領地の奥に城はあるのだから、馬を走らせてきたと言っても……そんなに遠くまで行っていないはずだ。アスティンさんは何と言った?四つの領土を繋ぐ、土地?そうとするならば、今は私がいる場所は……。
「泉さんの疑問は最もだね。わたし達は、まだグリームニル領の半分も北上していなかったよ。それを左に左にそれて、中央のシャンカラ領に行こうとしていた。……諸侯が治める地は普通に入ることが出来るんだけど、アレステラは必ずしも地続きで入れる場所じゃないんだ。だから……ショーットカットも、出来る」
アスティンさんは歩みを止めない。
「一つ、ユースティティアから招かれること。そしてもう一つ……聖堂の者から導きを得られること」
私は男性を振り返った。アスティンさんは頷く。
「そう。彼がその聖堂の者なんだけど……少し様子がおかしい。あまり時間はかけないから、少し見てもいいかな?」
瞼が下に落ちるのをこらえて、私は頷いた。
「はい……」
危険は回避できた。早く……早く……実花を迎えに行かなくちゃ。
嗚呼、アンス……。
周囲を見たい、と言ったアスティンさんはまず始めにぐるりと周囲を見渡した。その後に見渡した周囲を歩き出す。足元を見つめ、森の奥を見つめ、森の木々が枝を広げることを遠慮している空を見つめる。そしてあばら家の壁に手を付けると、ため息を吐いた。
「……やっぱり応答がない。お願いなんだけど……聖堂を開くことは出来るかい?」
「あの、そのことなのですが……。あっ、いらっしゃいました!」
男性が奥を指さす。その森の闇の中に、人が木々を掻きわける音が生まれた。
「……アスティン。なぜ、ここに」
「……あれ?あの、色は――――」
薄緑の艶やかではない……けれど、綺麗なローブはあの宿屋で見たローブと酷似している。そのローブを身に纏う人は、アスティンさんを目に止めるとその姿をこちらへ露にした。
暗い赤毛と緑の瞳。髪を肩に受け渡して昏い瞳をした女性に、祭司と呼ばれていた男は深く頭を下げた。それに続くように、アスティンさんも小さく頭を下げる。
「……リアラ様、まさかお会い出来るとは……」
アスティンさんが打って変わった敬語を使っている。並大抵の人じゃない……気がする。
下手なことをして目立たないように、私もアスティンさんの背後で同じように頭を下げていた。
「質問の答えになっていません」
静かな声だ。
感情の起伏が感じられない。
「――――お察しください。水鏡に揺蕩うもの故に」
「……わかりました」
その女性は祭司を一瞥すると、小さく頷いた。そして私たちに興味を失ったと言うかのように、その足は祭司の前に行く。
「聖堂の中は粗方……見て回りました。お話をします、あの家を使っても構いませんか」
女性が示したのはあのあばら屋。祭司は驚きながら急いでそのあばら家の中に飛び込んだ。
少しして通されると、中身は辛うじて……使える程度を保っている。……ギリギリ。
雨風は凌げるだろうか。――わからないが、晴れているのなら野宿するよりはマシという感情で乗り切れるだろう。部屋の所々にある置物が、この家を手入れしていた人物を想起させるようなものばかりだった。人形に、絵画に、櫛に……女性の家だったのだろうか。
女性を上座に据えて、私たちは下座へ着く。全員が座ったのを見届けると、その女性は口を開いた。
「今や珍しいことではありませんが……聖堂の中に、他の者達はいませんでした。残された聖堂の者は貴方、一人」
「……そう、ですか」
祭司は俯きながらも、取り乱した様子はない。淡々と事実を受け入れ、項垂れていた。
「テミス様がお目覚めになられたら、大層悲しむでしょう……」
と、小さく細い声色で言った祭司は立ち上がった。
「せめて、逝ってしまった者達への墓を作ります。真似事ではありますが、どうにも心が落ち着かないので。……よろしいでしょうか」
「――ええ。そのように」
「ご足労頂き、テミス様に代わり感謝申し上げます。本当にありがとうございました……」
祭司は青白い顔で笑顔を作ると、膝を折って扉を閉めてしまった。
残された私達の間に、奇妙な沈黙が落ちてきた。……私だけが感じているのかもしれない。覆すことも空気を変えるきっかけを掴む勇気もないまま、私はわずかに視線を落としていた。
息をする。視界をクリアに保つために、大きく息を吸って吐く。
「……あの司祭は、目覚めると誰もいなかったとわたしに言いました。……言葉は正しいのでしょうが、敢えて司祭は濁したようです」
「……己の心を、守るために?」
アスティンさんと女性の冷ややかな言葉の交わり。
アンスの温度がぼやけていく。
「そのようです。一つの大きな見落としにさえ、目を背けているのですから。リアラ様、聖堂は……ユースティティアは眠っていましたか」
「彼女は…………」
地震?地面が揺れている。同時に、耳を覆う甲高い音が響きだした。不思議にアスティンさんを見上げても、彼は気にもせずに隣の女性に言葉を投げている。
あれ。視界が悪い。目を擦った、――――靄が取れない。ゴミでも入ったんだろうか。
" 泉、落ち着いて机に手を置け "
水の中でクリアに突き抜ける音のような、アンスの声。肩で息をして、視界を取り戻して、失って、手を伸ばして、前に傾いた身体は――――。
そのまま、床に落ちていった。
「泉さん!?」
薄らいでいく視界の隅に、優しい緑色がある。滲んだ赤と、淡い緑色。頬が、身体が、持ち上げられた感覚とアスティンさんの焦る温度を感じながら私は落ちていく。
深い深い海の底へ。底で光るあの色が、拒絶をするように明暗を繰り返している。