第73話『離れ難き者達』
文字数 3,141文字
「ええと……上山泉、ア……貴女を取り巻く色々は……上手いこといってこう、上手いことなったってのは、うん、聞き及んでる。俺たちは今から協力関係ですから、情報は求められるだけを開示します。その代わり、と言ってはなんですが、俺たちにも必要な情報は渡して……くれます、よね?」
友禅さんはおずおずとアスティンさんを見た。アスティンさんは軽やかに頷く。
「勿論。対処すべきは情報からだからね。何事も」
「よかった……」
「あの、友禅さん」
「あ、はい。なんでしょう」
私に声を掛けられると、肩を跳ねあがらせて私を見た。額にかいても無い汗のために甲で拭って、私の言葉を待つ。
「別に敬語じゃなくても、いいですよ?使いにくそうだし、」
「いや、無理です」
「あ、はい」
即答すぎて、理解せずに大丈夫ですって答える通行人Aみたいな解答しちぁったー!?
「怖すぎんだろ……触らぬ神にたたりなし……くわばらくわばらなんだぜ、まじで」
小声でぶつぶつ独り言を言い始めたので、うわ、とか思って――いや、そんなこと思ってないけど、少しだけ距離を置いた。カタ、と窓が音を立てたので、少し後ろを振り返る。窓ガラスは風に揺れていて、窓の遮音性が良いのか、風の音は聞こえない。ただ揺れる窓ガラスを手で押さえて、また中央を見ると――、
「上山さん――どうして!!」
必死の形相で鏡子ちゃんが動き出そうとしていた。
皆、驚いたように目を見開いて私へ駆け出そうとしていることが、ゆっくり見える。
こういう時はそう、身に危険が迫る時。命の危機なんて時、人は動体視力が上がるんでしょう?
「泉、迎えに来たよ」
粉々に割られた窓ガラスに月明かりが反射して、闇夜の中で雪に降られるみたいに、綺麗に咲かせた花を真似た偽物が、そこにいた。
その女は、私を名で呼んだ。
まるで、それが当然であるのかの様な頬の緩みで。
まるで、その音に愛おしさを含ませたかのような曲線の声色で。
まるで、それは――――安藤実花であると言いたげな、雰囲気で。
私は、心が冷えていくのを感じている。
左手を掴まれても尚、心は冷静さを保っている。
「上山さん!!」
左手が引かれるならば、右手は、右半分はわたしの支配下だ。
引かれるままに左肩があげれば、右肩を後ろに引いて振り返ることも容易だ。
連れ去られようとも、私達は手を伸ばし合える。
そこに紙一重の絆を握ろう。
***
境界から遠ざかれば遠ざかるほどに、私の意識は鮮明さを取り戻していく。水晶越しに見ていた景色を、この瞳越しに見て取れるようになる。その間に滑り込んで来た声がある。その引っ掛かりを得ようと目を開けた私は、目の前を掠める緑を視界に映した。駆けて行く森に、女の跳ねる息が届く。そして、もう一つ――、背後から追ってくるその気配は、私を捕まえた。
"上山泉!聞こえるか!"
「……きこえるわ」
声に出せた気がしない。だから、目を閉じて心の中でもう一度強く言い放った。
"無茶苦茶だ!俺のプランが一気にパーになった!ああ!一から説明する暇はねぇ!約束は守って貰うぞ!――あっ、いや守ってください!もう時間が無い!アンタも見えてるだろ、安藤実花の姿が!"
目を開けて、私を抱えて無我夢中で駆ける女の顔を下から覗き見た。僅かな夢が遠ざかる。胸を巣くうじわりとした熱いものが、私の思考を再び正常へ修正する。
「泉。大丈夫だよ。もう、大丈夫だから」
私の視線に気づいたのか、女がそう言って微笑んだ。
上がる息、紅潮した頬の中で、その女は花を真似ている。
"――何を、すればいいの?"
"ああ、ああ!言う、今から言う!あああちくしょう……本当はもっと前準備に時間を掛けたかった!いくぞ、言うからな!聞き逃すな!泉、アンタには今から俺達と逆の事をしてもらう。至って簡単だ、椿に成りすませ――おっと安心しろ。椿の情報は追って渡す。いいか、お前は椿になりすまして菫を安藤実花から引き剥してお願い!"
"泉さん。大丈夫、わたしが遠方から支援するから心配しなくて大丈夫だ。ほら、続きを"
"よし、順序を説明するぞ。いいか、物事には成り行きがあるんだ。泉は徐々に上山泉から椿へと成り代わる必要がある。始めに、実花との本物の思い出話をして欲しい。今、すげー速度で逃げてるだろうけど多分……目的地があるはずだ。いくら人間の身体じゃないからってその速さはくそ疲れるしな。止まったら、切り出せ!衝撃的な思い出話がいいな。何か、……ほら!心をガツンガツン行くような!"
"――そして?"
"飲み込みはええ!……んで、雰囲気が和んだ時点で、菫と呼びかけて欲しい。緊張している時は駄目だ、あいつが心の底から笑ったら言え。この際笑わなくていい、安藤実花から菫の意識が離れた時、ぶっこんでほしい。その時、アスティン様がお前に術を掛けてくれる……絶対に動揺するなよ。わかったな!じゃ、じゃあ……椿の情報を渡すぞ――"
振動が止んだ。私が再び薄ら目をあけると、息を上げた女が私を膝に抱いて「よかった……!」と言った。零れた雫は相変わらず私の頬を濡らした。それに反応した様にまつげを揺らしたら、雫の中に明かりが反射する。
「ここ、は……」
知っている。――ああ、覚えている。
何度時代が変わり、何度目を覚ましても、何度見飽きたと言っても……好きだったこの景色。
私が零した言葉に息を切らした実花も顔を上げた。
「……わかんない。誰にも邪魔されない場所……怖い人たちから遠ざかれる場所、探して」
思わず乾いた笑いが出てしまった。私は女の膝から降りて、力が入らず立ち上がれないまま月明りに目を細めて、女を見る。
「ねえ、実花。覚えているでしょう?ここは、わたし達の丘だわ」
女は丘を見渡した。
「約束をしたでしょう。絶対に忘れてはいけない、約束をしたでしょう」
あれは、角度を変えれば形を変える一つの真実。
固い契りを交わした。幼い契りを交わした。
泣き崩れたわたしの前に、同じように瞳に涙を浮かべたお前が立っている。この誓いは、あの子から私に迫ったものだ。勢いよく、私にお前が迫ったものだ。
「ずっと、一緒に居ようね。けれど、もし、迷子になっちゃったら――」
指を指し示す。月では無く、それが沈んだ方へ。
この夜の中で、地に落ちたものへ。
「太陽の下で待ち合わせをしましょう。すぐに走っていく。すぐに飛んでいく。私達が、永遠に巡り逢うための、約束」
目の前の女の手が動いた。その手には、一冊の書物が握られている。本人はこの行為に気づいていないだろう。私の言葉に、ただ戸惑う様に首を振るだけだったのだから。
私は一瞬の瞬きの間に、友禅さんの言葉を反芻した。……遠くで、ピアノの音がする。
「実花は、その約束を守ってくれようとしたんだよね?私達の、約束。私達が、私達であるための、――――」
女は、とある頁で手を止めて、私を見上げた。
私は近づいた。前髪と前髪が触れ合う距離で、最後の詰めを仕掛けるため。
「合言葉。ねえ、実花。約束を、果たして」
その瞳に、黄金の光が差し込んでいる。
「い、ずみ……――あたし、わたし……」
「実花。誓いを、破らないで」
「……知らない、知らない!何を言っているの!?」
女は自分が零した言葉にぞっとしたのか、勢いよく手に持つ本を捲り始めた。それを後押しする様に加速するメロディー。森に響くページを捲る音。始めのページから始まった、途中から真っ白になる書物。
爪を掛けることは出来た。
さあ、後は一気に引き剥すだけだ。