異 目覚め
文字数 5,463文字
「あれ? ……あら!? ちょ、―――ちょ! もーーうっ!! どういうことですかッ!!」
「あわわ、落ち着いて、落ち着いて……鏡子ちゃん」
「むき――――ッ!! およそ落ち着いていられません!! 一刻も早く脱出即解決したいのに!」
湊に会うために道を返す私達は、公園を出た後文字通りに道を返したはずだ。それなのに、道はくねくねと曲がり曲がり十字路を幾度も過ぎ目的地に辿りつけなかった。
前を歩く鏡子ちゃんの顔が次第に険しくなっていく。ついには、髪を掻き毟りながら壁に激突する一歩手前で私が止めた。えらい、私。
「う、うーん……やっぱり敵の仕業としか……」
「それ以外の何だと言いたいのですか」
むすぅ、とした顔で私を見る鏡子ちゃんに苦笑を浮かべる。鏡子ちゃんは溜息を吐きながらぶつかりそうになった壁を見ると、「あら」と声をあげた。
「この壁……色が少し、違うような……。血の、跡?」
「嗚呼―――……なるほど。そう、そうだよ。それは血の跡。湊の血なの」
鏡子ちゃんが振り返るその顔に、私はまた困り顔しか返せない。
しかし、鏡子ちゃんの着眼点は流石といったところか。お陰で今私達が街のどこにいるか一瞬で理解出来た。……ということは、湊と別れた道はあっちの方向……。
「……えっと。小さい頃ね、自転車に轢かれそうになったことがあって……その時に湊が庇ってくれたんだ。そうしたら、湊もさ勿論小さかったから……そこに吹き飛んで、頭を……ぶつけてね。もうとっくの昔に消えたはずなのに、ここにはまだあるのかぁ……」
懐かしむ様にその跡を撫でた。泣く実花を慰める血を流す小さな男の子。私は傍で震えていたっけ。そもそもが私が交差点に飛び出したからなのに、……嗚呼、そのときから私は護られていたんだね。
唇をきゅ、と噛んだ。視界が滲まない様に、僅かに上を向いて。
「行こう、鏡子ちゃん。こっちだよ」
鏡子ちゃんの手を取って、私が先導した。
まっすぐ行って、左へ。ゆるやかな坂を上って標識を右。街の造りが複雑なわけがなく、土地勘が無い人でも一度目的地まで着くことが出来たなら、二度目は案内が要らない。そういう街なのだから、ここが……。
「家? ……上山さん?」
黒い線が走る景色の中に、その家はあった。
「安藤……―――安藤実花の家ですか」
大きな門に控えめに掲げられた安藤という文字。鏡子ちゃんはすぐに合点が行ったようで、まじまじと実花の生家を見つめていた。
閉じられた木製の門の向こうに、母屋と道場がある。実花の家は面積としては大きく、道沿いに近い道場からはいつも竹刀の音と門下生達の活発的な声が溢れていた。……この世界では廃墟の様に寒々しく立ち尽くす門からは、想像が出来ない。
「……そう。実花のお家……大きいでしょ?」
「ええ。この地区にある家々に比べたら、かなり大きいのではありませんか?」
「うん、そう。中に道場があるからね」
私は先に歩を進める。遅れて気づいた鏡子ちゃんが小走りに距離を詰めたら、その足の速度は私を同一になった。
「へえ……。上山さんと安藤実花は幼馴染でしたよね。ということは、上山さんも安藤実花の道場で稽古をなされたり?」
「稽古? あー、私はしてないよ。湊はしてたけど、私はいつも道場の隅で見てたなぁ」
懐かしい思い出が蘇る。夏の青一色の空に、暑さを吹き飛ばそうとする声。一斉に、かつずれた竹刀がぶつかる音、床が裸足の足で鳴らされる音。
汗を拭う面を外した実花が、ふいに私に問いかけたことがある。
『ねえ、泉はさ……守りたいものってある?』
『ええ? ……うーん、逆に聞くけど実花はあるの?』
実花は笑うだけだったっけ。
「今にして思えば、全部繋がってたんだなって感じるよ」
ぽつりと吐き出した言葉に、鏡子ちゃんは頷いた。
「ええ。この世に存在する事象全てに、無意味なもの、無関係なものはありはしないのですわ」
ちらりと鏡子ちゃんを見ると、強い瞳が返される。そこに安心する拠り所を見出して、私は笑う。
「……この世に偶然なんてない。あるのは必然だけ?」
「あら、世に疎いくせに良い言葉をご存知ですこと」
「そりゃあね。漫画とか好きだもん」
鼻を擦れば、鏡子ちゃんが好い音で笑う。この歪んで亀裂塗れの世界に、色を差せた気がした。
……なんていうんだろう、この感覚。何処か寂しいような、悲しいような。離れ難い場所に手を振って、行かなくちゃいけないと心を急かす何かを感じている。目線を下げて歩く私に鏡子ちゃんは何も触れないまま、寄り添って歩みを合わせてくれる。そのことが、嬉しかった。
「……学校、か」
またも道は私達を誤らせる。
出たはずの学校へ辿りつくも、そこに活気は存在しなかった。部活動の声も無く、下校する生徒もまばらにも居ない。教室に人影はあるはずもなく、そもそもが学校という形だけ佇んでいる様に見える。
「思い出すね。鏡子ちゃんと出会って、学校で冒険したこと」
鏡子ちゃんは目を細めて、溜息と共に口を開く。
「冒険……ですか? あれが?」
「冒険だよ。鏡子ちゃんと出会って、手を取り合って死線を潜って、……ここまで来た。そしてまた、あの時の学校と同じような場所にいる」
「ここはズレた場所ではありませんよ」
「うん、わかってる。……わかってるよ」
完全に別たれた世界。
私達が立ってしまったのは、そんな地平線。
向かうべき場所も、わかっている。
行うべきことも、理解できた。……胸に募る寂寞が、私の髪を引っ張るくらいか。心残りと言えば。
踵を返す私を追った鏡子ちゃんが、小走りに近寄って私の左手を取った。少し驚いて顔をあげると、凛とした闇夜の中に穏やかに輝く月のような微笑みがある。
お互いの手と手を強く握って、私は歩を前に進める。
向かうべき場所へ。
するべき行いへ。
それは、別れの儀式。それは、……私の『家』なのだろう。
「やっぱりね」
悠然と佇む私の生家に生気は無く、陽炎の様に揺らめく景色の中にぽつりと建っているようなそんな雰囲気を醸し出している。湊の幼い犠牲を、実花の生家を、学校を、そう廻って来てここに辿りつかないわけがない。私達は帰ろうとして、あの公園から歩を前に進めたんだ。つまり、これが、この巡りがそういうことなのだろう。
「上山……。そう、ここが……上山さんのご実家なのですか」
「うん。……ただいま」
「上山さん……」
玄関へ繋がる門へ手を伸ばして、その冷たい取っ手を指で撫でた。金属のように冷たく、少し重力を掛ければ開くはずもの鍵が、今はとても重い。
瞬く間に家族の顔が浮かぶ。パパ、ママ、真理。……下界のこの家で、私の帰りを今も迎えているはずだ。他者修正機関が演出する私を、変わらない笑顔で迎えているはずだ。
「するべきことを、する。向かうべき場所へ、行く。……だから、だから私はもう、行かなくちゃいけない」
小さく小さく呟いた決意の言葉。
この家に囁いて、私は行きます。
「親不孝をする私を、どうか許して……。……さようなら」
左手の温もりが、私を辛うじて立たせている。
ありがとう、と隣に微笑んで私は濃霧が晴れている一本道へ目を向けた。
怪しいさまを隠そうともせずに、その道は其処にある。逆に言えば、そこ以外にもはや道は無い。
行こう。鏡子ちゃん。
私達は戻らなくてはならないのだ。その為の力が、この二つの手に宿っているから。
霧が裂かれる道の向こうに、桜並木がある。私がこの世界に落ちた時に覚えている最後の記憶が、この桜並木の風景だ。
その並木が導く奥に、一人が立っている。少年とは呼べない顔立ちに、男性とは呼べない体格の――――佐倉湊の姿をした何かが立っていた。
桜を見上げる横顔が私達に気付くと、目を細めてこちらを振り向く。
肩を竦めた。……危害を加えるつもりはない、と手を上にあげながら。
「来るとは思ってはいたが、来てほしくはなかったな」
「……名前を。あなたの名前を、言いなさい」
私の言葉に目を細めると、男は恭しい動作で頭を垂れる。
「七つの大罪が一人、名を……『憤怒』と申します」
見上げた目が怪しく光る。鏡子ちゃんの意識が警戒を示すのを感じた。
「ふは、何も出来ねぇから安心しろよ、鏡子」
彼もそれを感じたのだろう。気が抜ける笑い方をすると、再現の日々と同じような笑顔でそう言った。それでも睨む鏡子ちゃんに笑いながら息を吐くと、小さく彼は言う。
「やられちまったからなぁ、……本体が」
私は眉をひそめた。鏡子ちゃんには聞こえていない。
彼は手を振りながら私を見ると、穏やかな瞳で私に問いかける。
「……行くのか?」
「……うん」
そっか、と瞳を下に落としながらズボンのポケットに両手を突っ込んだ彼は、再び桜並木を見上げた。
「そりゃそうだよな。もう夏になるってのに……なんで桜が咲いてんだ、って話だよ全く」
「止めはしないのですか!」
「―――止められない。泉を留めることが許されるのなら、あんたを殺してでも此処に捕えておくぜ、俺はさ」
笑う男に、その力を感じる拠り所は無い。
ただ意志を宿す言葉だけが、強く存在する。
「たとえ許されたとしても、私がそれを許さない。私は私の責任を果たしに……何が何でもあの世界に戻る!」
風が強く吹いた。巻きあがる桜吹雪に、上空に、一線の光が差す。
男はそれを眩しそうに見つめた。暴れる風の中、男の瞳が私を見ている。
「……そう。それこそが、我らが愛した貴方。皮肉なものだ」
上空の光の中に、意志を感じる。私を引き上げようとする誰かの意志が。
それは、私が手を伸ばすと同時に形に成り私を引き上げようとするだろう。
男の言葉に私は唇を開く。
「さようなら、憤怒。どうか、良い眠りを。――――行くよ鏡子ちゃん!! 浮上する!」
鏡子ちゃんの手を強く掴み直して、私は真上に手を上げた。
力強い男の力で、ぐんっ、と引かれる感覚だ。消えていく世界に、消えていく憤怒に、血を流す憤怒を見て、私達は消える。
彼と彼女が造った楽園から。奈落から。
私は―――浮上する!!
「―――――っ、はぁ、はぁ!!」
「……さん、泉さん! ああ、よかった、泉さん、泉さんだぁあ!!」
「ぶふふへっ!! あ、あれ、アスティンさん!?」
視界に突然現れた弱そうな白い男に押しつぶされる背を、柔らかい何かが受け止めた。くらりとする視界に、鮮明に映る色彩達。頭を振って呼吸を繰り返すと、懐かしい空気の感覚にほっと胸を撫で下ろす。
「リアラ……さん。ありがとうございます」
私を受け止めたのはリアラさんだった。アスティンさんを睨みながら、私を見ると頷いて微笑んでくれる。そして少しの制止の後、私の瞳を覗き込んで―――その中に映る紅を見て、私は力強く頷いた。
「返してもらいました。暗い海の底で、……シリウスから」
「……それは、シリウスはぁぁっ!!」
「上山さん!? ご無事ですか!!!!」
鏡子ちゃんに突き飛ばされ草むらに突っ伏したアスティンさんを気にもかけず、鏡子ちゃんが私の肩を揺さぶる。おうおうおうおうおうおうおう落ち着けよ鏡子ちゃん!
「良かった……良かった……!!」
私に触れる鏡子ちゃんの手が、震えていた。
リアラさんが穏やかな声色で私に教えてくれる。
「……危険な賭けで御座いました。貴女を連れ戻す為に、彼女が潜ったその海というものは……一歩間違えれば、貴女を失うものでもありましたから」
「ふ、ふん。別に? この鏡子ならば出来ると確信していたからこそ、わざわざ貴様の為に出向いて差し上げたのです」
「鏡子ちゃん……! ありがとう」
頬を僅かに朱に染める鏡子ちゃんは、逸らした視線の向こうで床に突き刺さるアスティンさんを見て声をあげた。
あれ、と思う。今気づいたけれど、少し離れた場所にいるのは……アレウス?
そう声を掛けようとしたら、切れた息と荒い声が上がる。
「――ねえ! あんたならこの猫から向こう側に道を拓けるでしょ! 時間がないのよ、早く行くわよ!!」
「……リベカ」
飛び込んで来た黒い少女。
私によく似た人間だった少女。
彼女は私の言葉に耳を貸すわけでもなく、ただ先を急かしている。
そうだ。やるべきことを、やらなくちゃ。
私は頷いて、その猫というものを受け取った。
「……暴食」
私の猫。私を慰める、優しい罪。
息を吸う。――――そして、肺を酸素で満たして、私は聖堂へ向いた。
「道を拓く。此方と彼方を繋ぐ鍵、――門は応答しない。だから、開く」
宙に浮かせた猫に指を食い込ませた。ぶち、ぶち、と奥へ食い込ませて、溢れ出る負を滴らせて私はその門を開く。
暴食が目を開けて、私を見た。
私は――――……。
「暴食、開けてくれる?」
猫は、大きな叫びを―――断末魔を引き換えに、その門となる。
血肉で出来た門をくぐることが出来るならば、道を繋げるとでも言うように。
振り返ると、私に続く者達全てが頷いた。
リベカが横に来て、私は頷く。
共に駆け出した膜の向こうで、争う声がする。
私が開いてしまったものだ。
私が終わらせなくちゃいけない。
私が追い詰めた世界だ。
私が救わなくてはいけない!
「うっ、へれる、ヘレルうううう!!」
「うふふふふふふっ!! さあ、これで、終わり―――――」
「そう、終わりさ」
同じ声を響かせながら、
「終わるのは、あなただよ」
同じ顔を覗かせながら。
私は、この瞳を持って全てを終わらそう。
――ミストレス。
その名を、抱きしめて。