第3話『幸せの形』
文字数 5,542文字
朝!
けたたましい目覚ましを打っ叩いて、急いで階段を降りた。食パンを齧って、私は家を飛び出す。
なぜこんなに急いでいるかって!?あはは、予習をやっていないから!!早めに学校について予習をやってしまえ作戦なのだ!
既に実花と湊には連絡を入れた。ごめん、今日は先に行っています――――うおおおお、我が家から学校までは坂道とはいえ、これは速度が早すぎる!!うおおおおおおお―――――!!
「――――んぎゃああ!!」
急に視界が真っ黒になった。しかも痛みを感じた!ついでに口から食パンが飛んで行った!!
カリカリに焼いたベーカリー!私の愛しき朝ごはん!誰だ!私に猪の如くぶつかって来たお前、は……って、
「湊!?」
「めちゃくちゃいてぇえええ!!」
身長差が仇となったようだ。
湊の顎にクリーンヒットした私の額に、湊はのたうち回る。私だって多少は痛いのに、ここまでじたばたされたら痛いふりさえ出来ないじゃないか!
「ごめんごめん……って、なにしてんの?こんなところで」
流れてもいない涙を拭う湊は、制服の埃を払うと「はあ?」という斜めの声と共に目を細める。
「うう……朝練だよ。バスケ部の」
「ああ……今回はバスケに行くの?」
「まあね」
運動神経が抜群な佐倉湊くんは、中学の頃の先輩達の必死の吹聴のお陰か、高校入学当初からありとあらゆる運動部からラブレターを貰っていた。並大抵の運動神経を持つ男が、中途半端な助っ人になれるはずがない。勿論、教師とてそんな根無し草を許すわけもない。しかし、湊は……運動神経が本当に飛びぬけているのだ。
湊は根無し草だった。そうであるのに、助けてと乞われたら頷かずにはいられない男だ。そうして飛び込んだ一番初めの部活、サッカー部で他校との練習試合において見事な成績を収めてしまった。
「じゃあ、一緒にいこっか」
「此処で会ったも何かの縁!ってやつだな」
「ちょっと違う気もするけど……まあいいや」
サッカー部残留を熱望された湊は、快諾と取れる笑顔を張り付けて物の見事にその誘いを両断したそうだ。如何にも「勿論」と言いたげな笑顔で、その口は「悪い」を形作った。
この話は、私の学年では有名だ。湊は良くも悪くも目立つから……。
小さな溜息を吐いて、横で未だ顎を擦る湊を見た。――ぐ、目が合う。すぐに逸らすと、「ええん」と子犬のような声が聞こえた。
そうだ、話を湊の引っ張りだこに戻そう。
サッカー部がふられたらしい――その噂に、野球部、バスケ部、テニス部、ラグビー、水泳、……ありとあらゆる部活動が乗り込んで来た。中学時代の湊を知る上級生がいる部活動の熱量が凄まじくなると、湊の噂に半信半疑であった他の部活動でさえ焦りを見せる。「男にモテてもうれしくねぇええからああ!」と校内を逃げ回っていたころが懐かしい。かくして佐倉湊くんは、ローテーション且その場のノリで部活動を転々とすることを許されている。
どの世界どの環境にも例外はある、というがまさかそれが隣にいるとは……。
「あ、じゃあ今日は実花……一人で登校になっちゃうね。ちゃんと実花に連絡いれた?」
「……あ」
湊が止まる。その数歩後に私も歩みを止めて、大きく溜息を吐きながら振り返った。
「やっべえ」
はあ、しーらない!
くるりと踵を返して、私は坂道を駆けおりる。
「まだセーフ!今から連絡いれるもぉぉぉぉん!!」
湊も駆け出してくる。
「あーあ!実花に怒られるよ!」
あはは、と声を出しながら桜並木へ入った。清々しい朝。湊と笑う朝……それが少し、嬉しいと感じた。
「ひどいよ」
「……ハイ」
「……ひどいよ」
「……ごめんなさい」
「ひどいよひどいよぉぉおおお!どおおしてあたしを置いていくの!?湊くん!!もうちょっと早く教えてくれたら、あたし、朝ごはん抜いて一緒にいったのに!!」
「は、はいィィイ」
よっし、予習終わったー!
私の机の前で、朝から仲の良い湊は10分前から眉を下げて土下座する勢いで猛反省している。15分前に弾丸の如き速さで教室のドアを開けた実花は、携帯に表示される湊のメッセージを高らかに湊の目の先に押し付けながら、涙ながらに恨みを叫んでいた。
「泉も同罪なんだからね!!予習なんて、言ってくれたらあたしのをいくらでも見せてあげる!!もう明日から全部あたしが見せてあげるから、置いてかないで!!」
「いやいや、それは駄目でしょっていうか生徒会長がいるクラスでそれ、言っちゃ駄目だから……!」
実花がはっ、と口を押えて周囲を見渡した。恐らく教室内に会長の気配はない。ほ、っと息を吐く実花を見た湊は、手に持つタオルで額の汗を拭った。
「朝練後に実花に怒られると、眠気もどっか行く気がするな。こりゃ一限のスリーピングタイムは死んだなあ……」
「とにかく!湊くんも泉も、あたしを置いて先に行っちゃ駄目だからね!わかりましたか!」
「はーい」
「かしこまりー……暑ぃ」
「湊くんちゃんとわかったの!?」
きゃんきゃんと始まる湊の実花のじゃれ合いに笑って、今日も一日が始まる。
今日から早速、6限までの授業スケジュールだ。開いた窓から流れる暖かい空気に肘を付いて、目の前の真っ白いキャンパスノートに落ちる花弁を摘み上げた。可愛い……花弁。まだ白いノートに形を取って、机の端に置いた。
私を訪ねる小さな春。向かう先の大きな受験という壁の細やかな癒しになるだろう。
「ねえ、上山さん」
「……ん?」
後ろの席に座る、
「10分休み、少し相談したいことがあるの。……いいかな?」
「うん、もちろん」
「ありがとう」
先生が板書を終える。
相談って、……湊のことかな。やっぱり春は、こういうことが多い……。
授業後、私と木下さんは教室横の階段の影に居た。
木下さんはその手に手紙を持っている。嗚呼、――と私は瞬時に理解した。またも私は仲介役に見いだされたのだ。
「あの、上山さんと湊くんって付き合っているの?」
「はは、まさか。あいつとは唯の幼馴染」
繰り返した言葉と笑顔。もう脳内に浮かべなくてもするすると滑り出る。
「じゃあ、湊くんと安藤さんは……?」
期待の瞳が、下から上へ向く。
じわり、と広がる苦い味。私は笑顔を崩さずに言える。
「……まだ、付き合ってはいないと思うよ」
「!じゃ、じゃあ……この手紙、昼休みに湊くんに渡してほしいの!お願い!!」
まるで私が湊であるかのように、木下さんは頬を染めて頭を下げながら手紙を渡す。その光景に少し笑みが出て、私は承諾した。
木下さんが階段の影から出ると、「どうだった?」「よかったじゃん!」などと複数の声がする。きっと、私達を見ていたのだろう。そして、私を見ていたのだろう。
「はあ……」
「泉!」
実花が上の階段から顔を出して微笑んでいる。
少し気が抜けて、私も笑う。
「実花!」
「どうしたの?木下さんと何お話してたの?」
「いつもの、これ!」
うんざり、と私が肩を竦めながら手紙を振ると実花が駆け寄ってくる。
「モテる男は大変だねぇ」
「ほんとだよ……」
と、二人して肩を竦めた。
昼休み。仲の良い男友達と売店のお弁当を買いにいく湊を引き留めた私は、手紙が私の身体に隠れるように湊の目の前に立ち塞がった。「いつもの、お届けです」と口角を上げて手紙を差し出すと、湊は封筒の後ろにある名前を見て教室を見渡した。
「さんきゅ。――おい、ちょっと待てよ!」
横を駆けていく風に、私の横髪は揺れる。実花が私の手を取ってご飯を急かすものだから、私もそれに同調した。
5限目、後ろには冷たい空気が存在している。
いつものことだ、と私はノートに目を落とした。
嗚呼、やっと長い一日が終わる。
赤い夕陽が顔を少し覗かせている地平線に目を細めて、私は靴箱の傍に背中を預けていた。今日湊は部活。つまるところ、実花を待っている。先に靴箱で待っていてほしい、と言われたから大人しく待っている。
木下さんに、どうだった?なんて聞いていない。聞けるはずもない。今までの生徒にも同様にして、聞いていない。
私だって不思議に思う。湊に彼女がどうしていないのだろう、と。そう思える程、湊は……かっこいい男の子なのだ。嗚呼、やだなあ。こういう日は少しだけ心が荒む。鞄の取っ手を持つ手に、力が入る。
あの子達は、私よりずっとずっと真っ直ぐで――正しい、と感じる。傍にいたい男の子の為に、あんなに可愛くなれるのだから。
それに比べて私ときたら、あーあ。
顔を上げた。差し込む陽の光に頬が温まる。薄らいだ視界、徐々に、まだ、まだ薄めていけば――――銀の、糸が。
「――っ!?」
靴箱の扉の先、エントランスの木の、先に!!
心臓がどくどくと高鳴っている。いる、銀の人、――夢の中で切なく嘆く、あの人が?
衝動のまま駆け出した。夕焼けが乱反射する校舎の隅に、あと少しで。
「――泉!」
「っ!」
実花が私の手を取る。引かれた力に抗えずに、私は実花の身体へと背中から倒れ込んだ。
「あ、あれ……実花?」
「どう、したの……?急に走って……」
実花は私の姿勢を立て直すと、きょろきょろと周りを見ている。先程見えたあの木の後ろ……人の気配は、既に無い。
「ここに……誰か……いた気が、したんだけど」
私が木の後ろに回ると、実花は首を傾げた。
「誰のこと?そんなに大事な用があるなら、呼んできてあげようか?」
私は首を振った。
私が追いかけたのは、追いかけてしまったのは……ここの生徒では無い人だ。そして、恐らく……幻想、なのだろう。
「春、だからかなあ」
溜息を吐いた。
思い出してしまった、胸の感傷。こんな気分、味わった事なんて……無かったのに。
***
痛い、痛いほどの赤が、目に入り込む。強い光は強い赤となって、視界を覆う。
けれども響く悲しみの声。痛いと叫ぶ音色が、私の籠を強く揺らす。
「……………。どこに」
――どこに?
やっぱり、貴方は誰かを探しているんだ。ねえ、誰を探しているの?
嗚呼、深い深い悲しみが私の頬に伝う。深い後悔が、怨嗟が、悲しみがこの丘の色を決めていく。
銀の髪が、揺れている。
悲しみの揺り籠が、揺れている。
「そこに」
耳元で、声がした。
「いたのか」
「――――っ?」
飛び起きた。時計は深夜2時を示す。
「はあっ……はあ……!」
恐ろしい程に酸素を求めている。寒い、汗が身体を伝う。
額の汗を拭って、ベッドに潜りなおそうと蹴り飛ばした布団に手を伸ばした。きらりと目に入り込む、銀色の光。そちらを向くと、カーテンを閉め忘れた小窓から満月が私を覗いていた。
月は黄金に輝くものとばかり思っていたが、ぞっとするほどに銀色の光を湛えていた。
「明日も学校だ……早く寝ないと」
自分に言い聞かせるように小さく言って、カーテンを閉める。その最中に、橙の瞳が闇夜に浮かんでいるように見えて私は急いでカーテンを開いて家の下を覗き込んだ。
勿論そこに、誰も居ない。むしろ、誰か居たほうが怖いだろう。
「……はあ」
早く寝ないと。明日の授業に支障がある。
早く……早く眠ったら、もう一度、貴方に――――。
「……よっ。今日は俺が一番ノリだな」
「おはよう、泉。今日は泉が最後だね」
なんと。な、ん、と。なんと!?
時間通りのはずですけど!腕時計見ても、待ち合わせの時間通りですけれど!!
「あ、あれ?湊、朝練は?」
「寝坊した」
「あー、悪いんだー」
「あ、あれ?実花、は、たまにあるもんね」
「うん!」
二人とも、清々しいほどにこやかに桜並木とマッチしている。
実花が私より早く来て、ぽけーと桜を見ていることは偶にあるから不思議に思わないけれど……湊が。あの湊が寝坊したくせに待ち合わせ時間に間に合うことなんて……生まれてからはや十数年、一度もあっただろうか……!?
今日は不思議な日だ、と談笑する二人の一歩後ろを付いていきながら、そう頷いた。
「泉?」
「……おいおい、泉さん」
実花と湊が振り返る。顔を覆い隠せそうな桜の枝を湊が払って、無邪気に微笑んだ。
実花と湊の間に出来る隙間。二人の笑顔の合図に、心に春が来る。
「もーお、ほんと、二人は私がいなきゃ駄目なんだから!」
お互いの腕と腕を絡ませて、難くなる歩行を強制する。
「ねえ、今日はゆっくり行こうよ」
「うん!」
「はは、これじゃあ早くは行けねぇ、って歩き難い身長考えて!」
次に巡りくる春は、三人一緒じゃないかもしれない。もしかしたら、違う空の下で違う桜を見上げているのかもしれない。
それでも、今は未だ三人一緒だ。幼い頃から変わらない歩幅で、今の大切な時間を過ごしていきたい。
視界の端に過ぎる銀の髪に、
それを逃さない、緑を食んでいない瞳が、
その移り変わりに気付く、未だ無邪気な瞳は、
大丈夫。きちんと幸せの形をして、私の傍にある。