第5話『堕ちるデザイア』
文字数 3,168文字
「うーっ、疲れた……」
両腕を上にぐいーっと引っ張り息を吸いこむ。ぼやける視界と聴力に、少しくらくら。
時計は裕に6時を過ぎている、と示す。外景は夜に傾きかけていた。
彼らはというと、此処に好きなことをしている。一人は後ろにそのままひっくり返って、「終わらねぇよ……無理だろ……初っ端から週末課題出すか?普通……」と虚無と語り合っている。
一人はノートに顔を減り込ませ、微動だにしない。
私は窓ガラスから外を仰ぎ見た。茜色が目に痛い。チカチカと視界を攻撃する斜陽が、私の眉間に皺を刻む。
「……」
「………」
「…………」
誰だ、今の腹鳴り音。
「やだ恥ずかしいッ!俺ってばドジッ子!!」
「あ、あたしかと思った……」
自分の腹くらい、自覚してくれ。
「よし、行くよ夜桜!」
生温い空気を吹き飛ばそうと、私はいきなり立ち上がり部屋を飛び出した。
「おおー、流石に綺麗だね。毎年のことながら、いやー風情風情」
私達がレジャーシートを敷いているこの公園は、通学路の桜並木では無い。あそこはあくまで通路だから、お花見の許可はされていない。代わりに、私の家の近くにお花見スポットとして、公園がある。神社も近くにある関係上、川が流れ桜も適切に配置されており、毎年多くの人が此処で宴会をしている。
ま、私達は未成年なのでお酒なんて持ってくるはずもない。コーラ、ジンジャエール、ソーダ、オレンジジュース、……などなど、コンビニで買い漁って来た。湊は酒受けの良さそうなおつまみを広げて、げらげらと笑っていた。
「あ、生徒会長みっけ」
湊がゲソを咥えながら指を差す。その方向には、ボードを持ち宴会気味の空気に孤立する顔をした坂戸が、目をぎらつかせながら歩いていた。
「んあ、目、あっちまった……」
ばちんっ、と火花が散る音。実花は気にもせず、お皿に用意していた夕食を盛っている。
ずんずん、と歩いてくる坂戸。悪いことをしているつもりはないが、どうしてか私の心臓も早く鳴る。
「こんばんは。お花見ですか?」
「こ、こんばんは……そうだよ」
悪いことしていないよね!?
必死の合図に、湊は何度も頷いた。
「……親御さんは?」
「う、ううん。うちはいつも、この三人で……来てるの」
湊はひたすらに頷いている。
「そう。なら、8時には撤収するようにしてね。先生たちも見回ってるからー……あ、安藤さん?」
「はあい!愛ちゃん!愛ちゃんも一緒に食べよう?」
実花、もしかしてさっきから熱心に盛っていたその新皿……坂戸の分だったの!?
「え?ええ、と私は生徒会の仕事があるから……」
「ええーっ!そんなの寂しいよぅ、折角のお花見なんだよ?一緒に食べようよ!」
実花は坂戸の腕を取ると、無理やりにでもシートの上に引き込んだ。坂戸は慌てながら靴を脱ぐと、実花の外見に添えない怪力に呆気なく敗北してしまう。
「ははは、会長も実花のハニトラには完全敗北だなあ」
「湊くん……。本当にお邪魔していいの?」
「勿論。歓迎しますよ、坂戸」
私も紙コップにコーラを注ぐと、坂戸の口に無理やり当てた。「ちょ、ま」という声も聞かずに、ぐいぐいと傾けていく。
「んんんん――――っ!!」
「ははははは!会長のそういう姿、好きだぜ俺は!」
「ぷっは……!も、もう。今回だけだから!」
「いえーい!いっぱい飲むぞ――――っ!」
実花に絡まれて、坂戸もようやく笑顔が綻んだ。鉄仮面の生徒会長は剥がれて、一年生の頃よく見せてくれた笑顔が浮かんでいる。
その様子に私と湊が感じた胸の疼き、――それが見事にシンクロした証として、二人でほくそ笑んだ。
湊はタコさんウィンナーを右手に、私は卵焼きを右手に、一気に坂戸に襲い掛かれ!!
「あはは!坂戸ったら……!あんなアホな坂戸みたの、何年ぶりだろ!」
「死ぬほど笑った……腹いてぇ」
「満足満足~!」
途中から始まった教師モノマネ大会に完全優勝した坂戸に転げるほど笑わさせられて、気づけば言われていた8時になっていた。坂戸の面目もあるので早々に片づけて、公園に設置されているゴミ収集コーナーに、自分たちのゴミを預ける。
まだ話足りない。それが三人共通だったようで、帰り道のガードレ―ルの曲がり角、下に広がる桜並木を見下ろすように設置されたベンチに座って帰宅をやんわりと拒んだ。
「はあ~、夜風が気持ちいいね」
熱に浮かされた頬が、桜のように色づいている実花は、風に弄ばれるその髪を耳に掛けて笑っている。
「こりゃ今日の風呂上りも最高だな」
その横で、木で作られた柵に腰かける湊が言う。二人を中心にこの景色を写真に収めたら、きっと綺麗しか言えない一面が切り取れるだろう。
嗚呼、駄目だ。折角楽しいのに、私だけの愚かな感情で気を落しちゃいけない。首を振って、実花の隣を立つ。そのまま木の柵に手を掛けて、夜に両手を広げる一面の桜を見下ろした。
二人は笑い合っている。その正反対に私は、桜を瞳に取り入れるかのように見下ろし続ける。
闇を覆い隠したかった桜達、……その下から仰げばこの闇をものの見事に隠しおおせたか。でも、空から見下ろせばこんなにも桜は小さなベールで、闇夜はそれを遥かに凌ぐ深いベールだ。隠し通すことは出来ない。……出来ない、私のこの思いは……。
実花と湊を盗み見る。お似合いの二人の未来から目を逸らすように、再び眼下を見た。
あの木は……待ち合わせの木。その下に、動く影がある。人がいる。街灯が照らす夜桜は綺麗だろうから、それを撮りにわざわざ県外から来る人もいる。珍しくはない。
「――え」
胸を一度、強く叩く様な視線の交わり。
確かにそれを、感じた。
ま、まさか。
上と下、かなりの距離がある。地の利を得た私は見えるだろうけれど、まさかあの人が私を見ることなんて出来ない。桜のベールは、確かにその人を覆っているはずだ。
いいえ、いや、見ている!
違う違う、あの人は桜を見ているんだ。私を見ているはずが無い、そうよ、見えるはずが無い!
「泉?」
「おい、どうした?腹でも痛いのか?」
それでも、この這寄る恐怖が空気を伝う。
捕捉された、逃げたいと湧き上がる感情、逃げられないと鳴る警鐘。それでも、と全てを否定して駆け出せと頭痛が言う。
「な、なんでもない。もう帰ろう?寒い、寒いし。ね、ねえ!」
「泉、ねえどうしたの?」
「……下に、いるんだな」
「――見ないで!」
得体のしれない恐怖。そこを覗こうとしてはいけないと、湊の手を取るために再び近づく境界線。
再び、視線が交じり合う。鎖のように、凹凸が嵌る音がする。
『開かれた』
「ひいっ!」
実花の手を振り払う。湊の手を振り払う。
耳に、耳に声が!
『心配は要らない。全て、全て……さあ、おいで』
視界が明るくなり、暗くなり、金が、赤が。
纏わりつく手を撥ね退けて、私は逃げたいと這う。
『おいで、エリーシア』
「……あ、ああ」
ふいに、何も感じなくなった。
ふらりと傾く景色、聴覚の遥か彼方で誰かの叫び声、怒号、ふらりと、ふらりと――急落下。
『嗚呼、……ついに、終に』
耳元で、囁きが聞こえた。抱えきれない想いを滴らせた、最期の声のようにも聞こえた。
『取り戻せた……』
視界が一瞬だけ捉えた、夜桜を遥かに奪い去って――私が、意識を失う寸前に眼の中に入れたものは。
視界全てを覆う、コンクリート。
――――ああ、死ぬ。