第105話『修羅』
文字数 2,768文字
「上山さん」
声を上げた。予想していた低さでは無かった。不意をつかれた私は、そのまま黒曜の瞳に閉じ込められて傍に自ら引き寄せられて行った。
鏡子ちゃんは私の手を取ると、アルピリさんと頷き合って、私を部屋の中へ引き入れた。
閉じていく扉に狭められて行く緑の瞳を、私は見ることが出来ない。
「上山さん……ですよね?」
唇を一度強く噛んで、顔を上げた。そうなの!と笑っても鏡子ちゃんは笑みを返してくれない。
そう、そうだった。彼女はこういう子だ。
離れていたのはどれくらいなんだろう。頭が高速で掻き混ざっているから、思考力が上手く働かない。
「鏡子ちゃんも無事でよかった!だけど、ごめんね。どうやら巻き込んで」
ぐらりと身体が傾いたかと思って力を入れれば、どうやらそれは抱きしめられたせいだと気づくのに少し間を置かなければなからなかった。
子どもの身体は視線が低く、高校生といえど大人に近い身体が目の前に迫ればその全てが奪われてしまう。
まして、今の私に感覚はない。温度を知ることもなければ、痛みを知ることも無い。
「良かった……!無事で、良かった……!どれほど心配したとお思いですか!?あなた弱いんですから、勝手に何処かに行かないでください!」
「弱い……?」
「脆弱でしょうこのお馬鹿!目を離したら何処かに行ってしまう子供ですか!?そういうのは小学生までが限度というものでしょう!」
「小学生……。はは、ははは……あはは……!」
けたけたと笑いだした私を放って、鏡子ちゃんは強く抱きしめ続けていた。
「鏡子ちゃんは強いね……」
「……当り前ですわ。鏡子は、安倍家の次期当主ですのよ」
「私も、……そうなりたいよ」
密着を解いて、鏡子ちゃんは私の両肩に手を置いた。二人見つめ合いながら、小さく微笑み合っている。
「いいえ。鏡子はこの世界で、一人だけしか存在し得ません。上山さんは上山さんらしく、地に足を付けて歩かなければ」
鏡子ちゃんは立ち上がって、部屋の中を右手で示す。天蓋に覆われた二つのベッド――。私にとって重大な何かがあるという空気が、見なくても伝わってくる。
「……実花は?」
「こちらです」
鏡子ちゃんが先導して、深い青で染め上げた重たい天蓋を僅かに開けた。
「……え?」
思わず鏡子ちゃんを顧みた。彼女はそのとおりだ、と静かに頷く。
……ということは。私は隣の天蓋を勢いよく開いた。
「……魂が、入れ替わってる?」
「そのようですわ。……上山さんがそうですから、鏡子もすんなり受け入れられましたが……」
「そうか……」
シリウスの――――いや、実花のベッドに腰を掛けて、頬に触れた。きっと暖かいのだろう。胸は上下を繰り返し、鼻先に翳した手の平に……ああ、これはわからないね。
天幕を閉じて、私は思い切り椅子に腰かけた。大きく溜息を吐いて、ずるずるとお尻に体重を預けて滑る。
このまま自分の命さえも滑り落ちそうだった。
「上山さん。一つ……聞きたいのですが」
胸が軋むかと思った。
何を聞きたいのだろう。湊のこと――――、
「陰の気が、濃くなっているような……」
「ああ、これは――――」
大したこと無い、と言おうとして腰を持ち上げたところで、扉が乱暴に一度揺れた。数人の慌ただしい足音が扉の向こうで響いており、「リアラ!」「走るな!傷が――」といった声と共に、この部屋の扉は荒々しく開け放たれた。
私は立ちあがった。鏡子ちゃんは静かにそちらに振り向く。
「エリーシア様!!……いいえ、貴女が、泉……」
そこには、血濡れた緑色の侍女服を身に纏う女性……リアラさんが立っていた。頬にも、髪にも、手にも……あらゆる場所が傷ついていながら、その緑眼は私を見るとまるで水面の様に光を反射した。
喉が渇く。私の肩を、鏡子ちゃんの手がそっと触れた。
リアラさんの後ろにはエリーシアが居た。アスティンさんが居た。アルピリさんが居た。
湊は……いなかった。
胸を締め付ける激痛。一歩足を引けば、鏡子ちゃんにぶつかる。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!!」
リアラさんが、腕を伸ばしながら私へ駆けてくる。私は、捕まりたくなかった。その手に捕まれば、私と湊は――……。
だけど、退路は無かった。
リアラさんの腕に包まれて、リアラさんは膝を崩して、ただ私を抱きしめて泣いた。
ぼろぼろの身体で、暖かい身体で、湊と同じ目をした彼女は大粒の涙を私に注ぐ。
ごめんなさい、ごめんなさいと、謝りながら私の頬に雫を注ぐ。
たった一つの事実をその謝罪に混ぜて、一なる竜は私を抱いていた。
私は何をして、対峙する彼らに顔を晒せばいい。
眉を顰めても、私に涙など無く。
顔をくしゃりと崩しても、涙など出なくて。
声をあげて――も、泣くなんて行為はもうできない。
けれど、頭上で絶え間なく流れてくる雫は、私の頬を伝って地に思いを流していく。
皆、泣いていた。
空さえも泣いていた。
さめざめと降りしきり、全てが僅かな消失を嘆いていた。
私一人を除いて。
何を言おうにも何も言えまい。その身体に彼の存在は無い。
その真実だけが黒く空に打ちあがっている。
胸に脈打つ違和感がないだけマシだろうか。それとも、生命の雫を湛えていない時点で資格すらも喪失しているのだろうか。――いいや、それは違う。涙を流せるから人であるわけではないはずだ。
ああ、泣いてる。映すあなたの緑の瞳で、私が泣いている。
「 いいえ――― 」
アナタ、泣いていませんわ。
よく見て。よく聞いて。よく感じてみては?
ほらほらぁ、アナタ、一体どこをどうみて、自分が泣いていると感じたのです?
「やめ――――」
「 忘れないで。目を逸らさないで、ワタクシ達はアナタの為に生まれた―――― 」
「リアラ!窓の外に……巨大な陣が……!!」
「グリームニルの紋章!?スワードよ!」
皆が窓に張り付いて、空に視線を吸い寄せられていた。
肩を押されて、誰に、私は、距離を離していく。
蝶が舞う。銀の鱗粉に私の穢れを混ぜて、黒く解けてもまた生まれて、目の前を舞う。
蝶を追うと、背後に誰かが居た。
兵士だろうか、メイドだろうか、それとも――――。
「準備は終えた。さあ帰ろう、エリーシア」
黒を持つ少女が振り向くと、そこには誰もいなかった。
少女は震えて、その金の少女が立っていた場所にふらりふらり。
その様子に気付いた複数も、同じようにそちらを見た。
「か……上山さん……上山さん――――!!」
鱗粉は埃と交じり、絨毯と混ざって屑になった。
消えたのは二人。息づく呼吸は空蝉か。