第9話『アルカディア』
文字数 3,704文字
その事実はたとえ世界がひっくり返っても変わらないだろう。私が学生という身分を捨てるか、もしくは除籍にでもならない限り。そして――此処においても、それは変わらないのだ。
「すみません……もう一度、お願いします」
「かしこまりました」
私がスワードさま、さん、……スワードの娘となる以上、常識を常識として頭に入れないといけないと言われた。最もであると感じる。だから、ペンを持つことに抵抗はしなかった。それでも此処の常識を書き留めて行くたびに、私は何か重要な点を見落としているのでは無いかと、不安になるのだ。
首を振って邪念を消す。今は授業に集中だ!
「では、この世界の地図を御覧ください」
歪な円……に見えなくもない世界地図。四つの支配領域に別けられているらしい。
一つ、上半分北の最大領域を占める――王が住む都、王都エスペリデス。絶対にして万物の王、シリウス=ミストレスが直接統治をしている。
二つ、西の領地トルーカ。その首都をラティアという。王専属の侍女であるリアラ=サルースが諸侯に任ぜられている。
「宰相……ではないんですか?」
「リアラ様は政に干渉致しません」
「諸侯……なのに?」
「はい。三大諸侯は、何も政治力に優れているからその地を任されているのでは無いのです。三柱以外、その地を治めることが出来ないのです」
いまいち理解出来ない。
どういう意味だ?
「その椅子に座る資格、それを持っているのがお三方だった、ということです」
「……嗚呼、なるほど!能力を持つ人を吟味して、お前に任せる!ではなくて、元々諸侯になれるかなれないか、が決まってるんだ」
「そのとおりでございます」
私は肩肘を付いた。仕組みは理解できたけど、腑に落ちないのだ。
「それで――領民はいいの?滅茶苦茶な人だったら、大変ですよね?」
「座に座りさえすれば、世界の天秤は釣り合います。後は能力のある者を、それぞれ登用なさればいいのです」
「傍若無人だったら?」
フライアさんは、尚も笑顔で言う。
「……世界の理が、崩れるでしょう」
なんか、怖いな。
この話はやめて、次に行こう。聞いてもよくわかんないし、私が深く理解したところで何だ?という話だろうし。
「南の諸侯は誰ですか?」
「……皇帝陛下、シリウス=ミストレス」
「……え?」
フライアさんは、手をお腹の位置で結ぶと厳かな口調で語り始めた。
「元々、シリウス陛下はこの南の地――ガルーダを治める諸侯の一柱で御座いました。前皇帝の剣として、円卓の騎士と騎士団を纏める……騎士団長で、ございました」
フライアさんは淡々と語り続ける。
「しかし、前皇帝がお隠れになり、王権はシリウス陛下へ下り……王都とガルーダをお治めになる、という今が生まれたのです」
「へえ……」
あちゃー……これもちょっと明るくない話だな。
フライアさんの語り口も微妙だし、表情も暗くなってしまった。話題を変えないと……王都、トルーカ、ガルーダ、と来たら最後はここだよね!確かスワードさんも諸侯の一人だって言ってたし。よし、この話題でいこう!
「じゃあ、最後の諸侯の一人はスワードさん!」
「お嬢様、どうかマスターに敬称をお付けに成らないで下さい。お嬢様と私では、身分が違うのです」
「うう……慣れないな」
「時期に慣れます」
フライアさんの表情に光が戻った。よかった、と隠れて胸を撫で下ろす。
「最後になります。この東の地――メルクリウスを治め、陛下の盾として宮廷魔導士団を率いていらっしゃるその団長、スワード=グリームニル様で御座います」
「わあ、なんかかっこいい!」
「はは……些か照れますね」
「わああ!?」
あまりの驚きに膝を持ち上げて、見事に打ち付けた。「いっつ!」私とは裏腹に、フライアさんは平然と頭を下げている。なんて……なんていうクールビューディ、見習いたい。
スワードさんは、「お邪魔します」と抜き足差し足で入室すると、堀窓に腰掛けた。フライアさんは気にせずに再び口を開く。
一領の主をそこに座らせていいの!?――とフライアさんを見ても、フライアさんには何も伝わった様子は無かった。
「あの、宮廷魔導士団……というのは、魔法使いの軍団ということ?」
スワードさんを前にして、敬語を使うことが憚られた。普通逆だろうに!
「剣の代わりに魔法術を用いて、陛下のみをお守りする禁軍の一つです。円卓の騎士も同じく禁軍です」
禁軍、……それは、中国王朝での王の私兵だったような。
「え!?スワードって、めちゃくちゃ強いの!?」
「……一応?」
自信なさげに頬を書くその姿に、団長として威厳は微塵も感じ取れない。しかし、フライアさんが鼻を鳴らして胸を張るものだから、真実……真実なのだろう。
「じゃあ、アスティンさんも!?」
「いえ、アスティンを戦場にだそうものなら物の二秒でやられるでしょう」
「わあ……」
こ、ここに本人がいなくてよかったー。
「ふふ。……で、この東西南北全ての地をまとめて一つの世界としています。……人々が、ここを何と呼んだか思いつきますか?」
スワードが立ち上がり、フライアが開けた位置に立ち止まる。地図を物差しでぐるりとなぞると、私を見た。
「……わかりません」
「――
「アルカディア……」
私には、引っかかりはするけれど思い出しは出来なかった。
アルカディア――ギリシャのペロポネソス半島にあるという地域の名。やがて、楽園として羨望された何処にもない島の代名詞となった。またの名を、ユートピア。さらに、見上げる方角を変えればその名は、桃源郷となる。
「何が理想郷だ、という気はしますが……。泉、この世界は理想郷などではありません。君を陛下に差し出す為に禁軍が飛んでくる世の中が、人々の理想だとしたら恐ろしいことだと思いませんか?」
ペンを握る力が強くなる。
死を……死を、人にもたらす王。私の中のシリウスという像が、恐怖として形作られていく。
「恐ろしいこと……だと思います。でも、スワードは平気なの?いくら宮廷魔導士……だとしても、王様に逆らっちゃったら」
「問題ありません。世が、世なのですから……」
「お嬢様。先程お伝えしましたね。この世界には、三人の諸侯がいる、と」
「は、はい」
地図を見て、口を閉ざしたスワードさんの代わりにフライアさんが口を開く。
「四つに分けられた内の三つ――それを治める者が諸侯であり、この全土を治められるのは王だと、されていました。……全皇帝が、斃れられるまでは」
スワードさんが、目を閉じる。
「三柱が一人、シリウス陛下に王権は渡ることが出来た。……つまりは、我がマスター、スワード様も然り、と……領民全てが認識したのです」
「……そう。僕が望んだわけでは無いんですが、皆が勝手に盛り上がってしまいまして」
「そうそう。あの子達みーんな、スワードに喜んで欲しくって血気盛んなんだよね。お陰で各地域の大司教は大泣きだよ。『負担が大きい』って」
「アスティンさん……いつから、そこに」
「んー?最初からずっとここにいたよ」
くるりと、書が積まれた椅子が回る。膝に本を乗せて、その上に本を開くアスティンさんが、片手をひらひらとさせて登場……姿を顕にした。
「……スワードは、皆から次期皇帝にって?」
「そうだよ。そうじゃないと有り得ない。だって、今上陛下は王位を簒奪し――――」
「アスティン様!」
フライアさんが、焦る表情と共に声を荒げる。スワードさんは、悲し気に瞳を伏せた。
「そのまま玉座に座っちゃったんだから」
アスティンさんは、愉快そうに口角を上げた。私は息を呑む。動く気配がしてスワードさんを伺い見ると、此方に背を向け窓の外を見ていた。
「理想郷なんて呼べるほど、この世界は安全じゃないんだよ泉さん。だからわたし達は徒党を組んで、理不尽と戦っているのさ。その証が、この瞳だ」
アスティンさんが己の瞳を指差す。――オレンジの、瞳。フライアさんを見る。――同じ、オレンジの。
スワードさんを見る。一つ間を開けて、スワードさんは私を見てくれた。
オレンジの、瞳。……橙色、私、どこかで……。
「瞳の違いは、仕える主人の違いを示しています。橙は、魔法術のグリームニル、まあ、僕ですね。緑は、風のサルース。そして、金色は……力の、シャンカラ。泉、僕の娘と言う隠れ蓑と、その石を授けたのは他でも無い君の安全の為なんです。……わかりましたね」
私は、強く頷いた。
この世界は、何なのだろうと。この世界はどこなのだろう、と。その疑惑は、この違和感は、掬い上げられて、捨てられてしまう。……何度も、何度も。