第2話『トゥーム・ヴァンダリズム』
文字数 3,986文字
宿題をそのままに、クッションに顔を突っ込ませた私の頭を、面白そうに鷲掴みにする湊の手。その笑い声を、埋もれた視界の中で睨みつけた。むきぃ!
「逃げられねぇんだからやるしかないっしょ」
「めげないくじけない!えいえいおー!」
緊張感を失った励ましと共に、私達の春休みは終わりを告げる。部屋の窓に映る桜の花びらが、優しく告げる。
高校生活を象徴する二年間が終わってしまった。その寂しさに、私は再びクッションに頭を沈めた。
そして否応なしにやってきた、朝!
前日にきちんとセットした目覚ましを止め、朝ごはんを気合いで食べて、制服に腕を通し髪を整えて家を出ると空高くに鳥の鳴き声がする。
透き通り、真っ直ぐに放たれたその声の主を追うように空を見ても雲一つ浮かばない晴天に、目が潰されそう。太陽の煌きに反射する腕時計が示す時間に声を上げて、私は駆け出した。
坂を駆けおりて、少し進めばこの街の名所である桜並木へ入る。その並木に備え付けられているベンチを三つ数えて、一際大きな桜の木の下。空の青を見事に隠しきる桃色のカーテンの広がり。およそ一枝を間に挟んでしまえば、お互いの顔を視えなくさせる。
そんな大きな桜が、私達三人の待ち合わせ場所だ。追いつき追い越す同じ学校の生徒達を尻目に、私は駆けている。
「もう……いるな。ごめん、少し遅れ――――」
目についたのは、銀。そして、光を遮るオレンジの――瞳。
桃色の天幕が靡く向こうに佇むその男の唇が、開いた。
「泉!」
「……湊!」
肩を軽く叩かれ振り返ると、同じように汗を頬に流す湊が居た。
「わりぃわりぃ、遅れた」
肩を派手に上げ下げして、ぎりぎりと私の肩を掴んでいる。痛いからとその手を軽く叩いても、湊に意志が通らない。
久しぶりにここまで息切れをしている湊を見たな、とふと笑みが出た。
「大丈夫だよ、私も今来たところだから」
「あー?そうか、はぁー」
「って痛いからそろそろ!!」
「ご、めん!」
ひぃー、と制服の襟を崩して湊は傍のベンチに腰を降ろした。湊に捕まれていた肩を回して、私は周囲を見渡す。
あの銀の男……と思われる人物は、どこにも居なかった。
「泉ぃーっ!湊くーん!ごめんなさいーー目覚まし、鳴らなかったのーっ!!」
「おっしゃあ!!実花より先ぃ!!俺の罪は許された……!」
涙目で到着した実花に頷くと、私達は急いで登校への道を行く。未だ、まばらに生徒がいるとはいえ……我がクラスには何を隠そう、生徒会長が在籍しているのだ!ギリギリに滑り込もうものならば、きっとあの鋭い目が般若の如く襲い来るに違いない!!
「ちょっと!!湊!!実花!!二人とも、速いってぇ!!」
運動神経に優れた二人を必死に追いかけて、私達は無事に時間に余裕を持って新クラスの扉をあける。
既にほとんどが登校していて、自分の席が記された紙を確認していたようだ。既に囁き声は掻き消されてしまうほどの談笑が広がっている。
「おはようございます。実花ちゃん、湊くん、泉ちゃん」
「おはよう、会長」
「おはようございますっ!愛ちゃん!」
「おはようー、坂戸!」
教壇に立ち、私達に挨拶したのは先程述べさせていただいたその人物……我がクラスが誇る生徒会長、坂戸愛である。成績優秀、教師からの評判良し、人間関係良好という三拍子を頭上に掲げ、誰もが平伏せざるを得ない存在だ。……というのは誇張表現だけれど、間違った事は言ってないよ!
「黒板に貼っている……それ見て、席確認してね。といっても、去年のクラス替えの時と席はあまり変わらないけれど……どうせ三人とも、覚えていないでしょう」
「ごもっとも!」
湊の返事に、坂戸は苦笑した。
「あはは……。確認したら座ってね。30分にHR、9時から始業式だよ」
「ありがと、坂戸」
「どういたしまして」
退屈な始業式も終わり、皆がぞろぞろと教室に戻る。担任教師は二年生の頃からの持ち上がりだ。クラスの面子もあまり変わらないから、ついに三年生になったという実感が薄いまま私は瞳を配られたプリントに落とした。
一学期の時間割。そのほとんどが6限までびっしりと埋められていて、火曜日と木曜日にだけ7限目が存在している。……う、恐るべし受験学年。このスケジュールを毎週のようにこなすのか?凄いな……受験生……凄いな……先生達。
「さて、始業して早速だが実力テストをします。試験範囲は終業式に渡したとおりですので、結果を楽しみにしていますよ」
どよ、と皆が一斉に声を出した。私はシャーペンを出しながら、ぼうっと前方に座る湊の背を眺めていた。
英語、湊の背はまっすぐに伸びている。
数学、湊の背はややまっすぐに伸びている。
国語、撃沈。
あれ、ほとんど寝てなかった!?国語の時間、湊ほとんど死んでたよね!?
「泉、今日俺も一緒に帰るわ」
「……あ!?」
「え、いやだから、俺も一緒に帰る……」
国語の時間ほとんど死んでいた男子は、子犬のような目で私と実花を見つめていた。湊、国語のテスト寝落ちしてたよね?なんて言おうかと思ったけれど、それはつまり私が湊を見ていた……という事実を明かすことに他ならないので!!言わない!!
「湊くん、部活は大丈夫なの?」
「そ、そうだよ。昼休みも何人か来てたじゃん」
「あー……いいんだよ。ほら、俺ってば天才的運動神経だからさ……今日一日の練習でどっかの試合結果が左右されるほどの人間じゃないわけよ」
「真実だから何も言えません」
「兎に角!俺は今日、一緒に帰る!!」
ぐい、と顔を前に突き出して湊が言う。そのまま後ろに上半身を流された私達は、こくこくと頷くことしか出来ない。
「じゃ、じゃあ……帰ろっか。泉、湊くん」
こくこく、私は頷いた。
「いやー、昼間に帰るって、いいですなぁ!」
「確かにー」
「そうですなぁー」
あんなに急いで駆けた道を、穏やかに帰る。桜は暖かい風に運ばれてくるくると舞い、新緑は春を歓んで揺れる。暖かい空気は私達の眠気を誘って、帰る途中に欠伸を促した。
待ち合わせた巨木を通り抜ける……その途中に、ふと思い出した朝の幻。
「そういえば、最近おかしなことが……違うな。おかしなもの?が見えるんだ」
立ち止まる私。二人が振り返る。
「おかしなもの?」
実花の問いに頷いて、私は巨木の傍に寄る。
「少しロマンチックなんだよ」
小さく笑う私に、実花の目が輝く。
「まずはー、夢!よく覚えていないけど、誰かが私を呼んでるんだ。声は男の人だった!」
「わあ!」
「そして……この前、お母さんの車に乗ってたら……あそこのガードレールあるでしょ。あの内側……外側?に、立ってたの。夢で私を呼ぶ……銀色の、男」
「銀色……」
湊が言う。私は頷いた。
「覚えているのは、銀の髪にオレンジの瞳……。私をずっと見つめてる。……で、今日の朝……見た」
私と、湊と実花の間に風が通る。僅かに強いその風に、私達の髪は揺れた。
「ここ。私が今正に立っているこの場所に……いたの。その、男が」
「……な、何だか怖いよ。本当に見たの?」
実花が不安に両手を握りしめて、私を見つめていた。
私は口を噤む。その間に、実花が唾を呑み込んだ。
「――次の瞬間には消えてるの!てへ」
「……見間違いってこと!?もお、やめてよ!ホラーにはまだ早いよぅ!」
「あはは、ごめんごめん!実花のその顔が見たくって、あはは!」
ぽかぽかと実花のあんぱんちを食らいながら、私達は足を進めた。
湊は一歩下がって、私達二人を見つめている。
私達の帰路は、実花と先に別れて、最後に湊と別れる。
実花に手を振った私達は、まだ高く太陽が昇る道を歩いていた。湊と別れる道につくと、湊が眼下に広がるあの桜並木を見下ろしながら口を開く。
「……泉。その男には……」
「ん?」
湊の瞳が向く。逸らされた目と、言い淀んだ口。湊は勢いよく此方を向くと、わざとらしい影を瞳に落として、私を脅した。
「春は露出魔が出るからな!!気を付けておけ!!」
「――――最近は男子高校生も狙われるらしいよ」
「まじで!?!?いやあああああ」
「あー……行っちゃった」
身を抱きしめながら走り去る湊の背に手を振って、私は鞄を肩に掛け直す。さて、帰るかぁ……。
目の端に捉えた桜並木。私の好きな、桜並木。
桜の絨毯をふわふわと渡れば、どんな心地がするのだろう。夢でもいいから、歩いて見たいなぁ……。
黄昏の丘。銀色の男。枯れた大地、悲痛な感情だけが胸を占める――――夢。
銀の長い髪が風に揺れている。震える肩が、寒い丘に晒されて……。
「………………」
名前を、呼んでいる。聞き取れないけれど、とても切なくって、もどかしくて。
近づきたい。貴方に、近づきたい。一声かけるだけでいいの。
どうしたの?って、誰を呼んでいるの?って聞きたい。
そうしたら、貴方の嘆きを私が止められるかもしれないから。
嗚呼、動かない私の身体。声も忘れて、視界も徐々にぼやけていく。
それでも、消えていく最中に声だけが響いている。
「………………」
誰かを呼ぶ、貴方の声。
誰を、呼んで、いるの。