第13話『脱兎』
文字数 2,366文字
スワードの城から西へ行くと、敷地内に馬小屋があるという。まずはそこに行かなくてはいけない。
「随分早く起きたみたいだから、皆泉さんの動きに気づくはずもないよ。だから、……まだ安心だ」
屋敷内にもそれほど多くのメイドや執事たちは見受けられなかった。息を殺して移動しているけれども、そこまで難しいことでは無いと感じている。
「案外すんなり行けそう……」
「あはは、まだ……ね」
薔薇園を抜けて、馬小屋に辿りつく。勿論馬を管理する人もいるだろうに、見つけることは出来なかった。アスティンさんに馬の乗り方を聞かれたけれど、動物園のポニーレベルしか乗ったことがないと言うと笑われた。そういうもんだから!
アスティンさんに引かれて連れ出された馬は、……普通の茶色の馬だ。白馬の王子様でもよかったんだけどー、とアスティンさんは言うが、白馬は目立つらしい。良くも悪くも……と。そんな贅沢を言うつもりはないし、目立ちたくも無い。それを告げるとアスティンさんは笑った。
「屋敷の外しばらくはグリームニルの領地であるとはいえ、愚者は目立つからね。少し細工をさせてもらってもいいかな?」
「細工……そのローブですか?」
アスティンさんが手に持つローブは、宮廷魔導士の人たちが身に纏っているものと似ている。彩色や装飾がかなり違うけれど、雰囲気はそれだった。
「ああ、これも。保険で泉さん自身にも魔術を施したいんだけど……いいかな?髪と目の色を変えたいんだ」
「ああ。大丈夫です。お願いします」
よかった、とアスティンさんが言うとローブが目の前に広がった。吃驚して目を閉じると、ローブが絹のように広がって私に掛かる。羽のように軽い――と袖を持ち上げた。
「うんうん。中々いいんじゃないかな、ほらこんな風に――――」
「おはようございます。良い朝ですね」
心臓を貫かれたかと思った。
何故、こんなところに?その言葉が不釣り合いな場所で、不釣り合いな軽い音を伴って――今一番会いたくない人は、微笑んで立っていた。
気づかなかった。足音一つしなかった。
その白銀が、風に揺れる。
「泉と何方へお出かけですか?アスティン」
「少し、遠くの街まで」
そうですか、とスワードは答えた。
「ああ、アスティンに姿を変えてもらったんですね。よく似合っている」
目を合わせられない。手が、足が、震える。
逆らってはいけない人に逆らう事実、それが私に牙を向く。
固まる私を、アスティンさんが引き寄せた。――馬が鳴く。
「……許可しかねます。行くならアスティン、君一人で行くと良い」
「いやいや、何で?泉さんのために行くんだよ、彼女が居ないと意味がない」
「僕がそう望むからです」
スワードは笑顔を崩さなかった。
あんなに安心できる笑顔が、今はただただ恐ろしい。それは己が恩を仇で返すという――人としてやってはいけないことをやる己を正当化するための、誤った認識だということはわかっていた。
「泉」
――来た。
その目が、私を捉える。
「泉。……僕を、信じられませんか?」
悲しそうに、その目が下がる。
違う、違う!私は私はあなたを――――!
「駄目だよ。スワードの言葉を聞いてはいけない!」
アスティンさんは突然馬に飛び乗った。驚く私に手を伸ばして、「さあ、早く!」と急き立てる。視界の足で星が、違う、白銀が揺れる。スワードに捕まると、二度と城から出られなくなる――――。根拠のない確信が、私の身体を動かした。
「アスティンさん!」
けれども、私は馬の乗り方なんて知らない!迫るスワードに囚われる恐怖に掌が緊張した。
「――――っ、アンス!」
「へ、へ、んっ!?」
アスティンさんの声。その声と同時に私は己の身体の支配権を失った。
知らないはずの馬の乗り方を、長年繰り返して来たかのように乗りあがる。宙に浮く、――しっかりと腰が馬の鞍に乗った。
「口を閉じて――――はいやっ!」
後ろ髪を引かれたか――わからない。必死にアスティンさんの背にしがみ付いて、早く早く消えて!と願う。
ごめんなさい、ごめんなさい!遥か後方で、私を恨んでいるであろう彼に向って届かない懺悔を乞う。
許されないのならば、もうあなたに会わない。苦しい胸を誤魔化すように、胸の中で与えられた守護石を握った。暖かい石は、私の鼓動を感じて脈打つ。
奪われた馬の踵が、耳にまだ届く。掴めなかった少女の掌を取ろうとした手を見つめて、彼は――スワードは背後を振り返った。
そこには少女が居た。年齢にしてまだ十二程の少女が、黄金の髪を風に靡かせて、赤みの強い薄桃色の瞳でスワードを見上げている。
「……お父様が悪いのよ。ゆっくりしすぎだわ」
「……返す言葉もありません」
少女はくすくすと笑う。馴染みあるその笑い方に、スワードは愚者の少女が去った方角を見た。
「新しい末妹だもの。わたしだって、心配よ。……連れ戻してあげましょうか」
「お願いできますか」
少女は、浮き上がる。青空に金色の髪を混ぜて、スワードの首元に抱き着いた。スワードはその腕に少女を座らせると、その手を取り引き寄せ、頬を撫でる。
「ええ、愛おしい…………わたしのお父様」
少女はあの日の笑顔を一寸も違えずに笑う。
視界の中で、捧げた花の丘でくるくると回って喜んだあの少女と変わらない笑み。
アザレアの中で笑った……君の笑みは、もうこんなに近い。