第4話『呼び声』
文字数 7,241文字
私、何をしていたんだっけ。私、何処にいたんだっけ……。
足と思われる部分を動かすと、乾いた音が鳴る。下と思われるところを見ると、枯れ葉が幾重にも積もっていた。
その上に、私は立っている。身じろぎに呼応して鳴る音は、秋の報せを運ぶものであるはずなのに。
今は春。
あまりにも、早い――――。
「なに、ここ」
音が、不自然に私に返る。声は私の声であるはずなのに、其れが他人の声のように聞こえて耳を塞ぐ。脳内に直接届く錯覚が、私の視界を前に向けた。
枯れた色を絨毯に、山道が上へ続く。昏い道の奥に、一点の光がある。
「…………」
嗚呼、声だ。何度も何度も聞いた、あの人の声が!
救いの心地を感じた。この並木は寒くて、心細くて、恐ろしい。聞き覚えのある声がする、そちらへ行きたい。
走る、走ると葉が悲鳴を上げる。無邪気に踏み潰す幼子の心地を置き去りにして、私は魔物に追われるかのように一心に光を目指した。
枯れ木を抜けると、日没前の射光が真っ直ぐに目に入って来た。
あまりの眩しさに腕を翳す。その隙間から揺れる長い髪に、私は目を見開いた。
「あな、たは――――」
長い髪を持つその男が、私の声に反応した。
嗚呼、嗚呼、届いた!やっと声が出せた!
枯れ葉を踏み砕いて、私は進む。彼も同じように、私へ手を伸ばす。
一瞬の閃光。奪われる視界に滲む、橙の瞳。その瞳は酷く惨めな色をしていた。
「――上山!!上山泉!!」
「……!?は、はいっ!!」
あうっ?膝が、膝が逝った!!ついでに心臓の爆音が、繁華街のバンド並!!痛い痛い心臓も膝も痛い!!
「5回だ!……何の数字がわかるか?」
「……はい。名前を呼んだ数です」
「まだ春休みの気分が抜けていないのか。この50分の小さな差が、半年後には埋められない差になってるんだぞ!!」
「はい。すみません」
「……座りなさい。人間、一度は誰にでもある。二度三度繰り返すか繰り返さないか、で愚かであるかそうでないかがわかる」
「はい。……すみませんでした」
うう、恥ずかしい。春の陽気に眠気を誘われた……そしてまんまと負けた……。
嗚呼――と机に突っ伏したい気持ちを抑えて、私は黒板を見上げた。あ、あらー……。私のノートに記述してあるのは、黒板の左半分前半だけ。先生の板書は、既に黒板右半分後半に差し掛かっていた。結構、寝てたんじゃない。嗚呼―――!!心の私が私をぽこぽこ殴りながら、刺さってもいない非難の視線に耐えるしかない!!
うう、左のお前!お前、寝るの上手じゃないか!!私のノートのこれ、涎だよね!?久しぶりに授業中爆睡したよーっ!
「泉」
掃除時間。箒を持って教室の隅で黄昏る私に、雑巾を片手に持った湊が深刻そうな面持ちで話しかけてきた。はい、皆まで言うな。数学の時間の私の滑稽な姿を笑いに来たんだろう!知ってるんだぞ!もう何人に笑われたか!知ってるんだぞ!
「今日から……何があっても、一人で外に出るな」
「あー、もう存分に笑って……うえ?ん?ごめん、なんて?」
「だから、一人で外に出るな」
「な、なに急に……。湊は私のパパか?」
「冗談じゃねぇ、真剣な話だ」
雑巾を片手に真剣な話って、なんだ。
「登下校も、俺か実花か……必ずどちらか一人をつけろ。絶対に。……頼んだぞ」
そう言い残して、踵を返そうとする湊。咄嗟に湊の手を掴んだ。
「どう、したの……?」
開きかけた唇が、閉じる。瞳は私を見ずに、柔らかく私の手を離した。
「大丈夫だから」
私の心に少しのわだかまりを残して、湊はいつもの湊に戻った。
視界の先で、私達を見ていた女子の囁く声がする。くるりと窓を向いて、外の景色を見た。
「……あ」
月が出てる。……銀色の、月が。
今日も会えるかなあ。銀色のあの人に。
銀の男が、誰かに向けて微笑んでいる。銀の男は、誰かと喋っている。
嬉しそうに、好意的な微笑みを感じた。瞳から零れる色が、その対象がこの男にとって掛け替えのない者であると高らかに叫んでいる。
けれど、そこには誰も居ない。
色を彩る花は、既に枯れている。
これは――…………。
次第に男は、笑みを残したまま口を閉ざし、空を見上げて笑みを消した。見える背から、彼が何を思っているのかはわからないが唯一つ、握りしめた手が微かに震えていたから、私は涙を堪えているのだと直感でそう思った。
「……失うわけには、いかなかったんだ」
この声は、彼の声だろうか。わからない。
「見てみろ、……。君という主人を喪った花は全て枯れてしまった。この丘は、君を乞う様に黄昏を離さない。……、君に、逢いたい」
彼が顔を伏せ、右腕を顔に擦りつけていた。私は感じ取ってしまうその切ない思いに胸が締め付けられて、彼の下へと一歩足を踏み出した。
踏まれ潰される枯花が、音を出す。
「……嗚呼、やっとか」
振り向いた彼の顔を、黄昏が邪魔をしている。微笑んだ様な、涙を流している様な――曖昧な認識を浮かべさせて、私を困惑させる。
「……!」
あれ、声が出ない。
喉に手を当てて、何度か発声を試みる。だけども、夢の中の穏やかな妨害が私の声を奪ってしまった。
「随分と……時間を、かけてしまった。本当に、本当に……これで……ついに……」
すぐそばで聞こえる声に、顔を上げた。彼の接近に気付かなかった。もはや顔が見える距離に、黄昏の屈折した光が強く強く邪魔をする。
彼が、私の頬に触れる。不思議と嫌な気持ちはしない。穏やかな流れに、身を置いた。
――――違う。
拒絶せよという黄昏を、私が無視をした。頭の中で誰かが言う。許すな、と。行くな、と。
でもそんなこと、どうでもいいじゃない。私は、今目の前にあるこの人に触れられて――嬉しい、のだろうか。
「帰ろう」
沈みかける太陽が、強く強く輝いている。
滲む目の前の風景。消える、橙の瞳。
「エリーシア」
爆音。心臓に悪い轟音が、部屋中に響いた。
「あ!?……――目覚まし!?今いいとこだったじゃん!!」
大悪魔目覚ましウスよ、お前のせいで私は少女漫画のような夢から強制退去させられた!あの夢、好きなのに!やっと顔が見えたのに!!あれ、見えたんだっけ……ううん、思い出せない。ま、夢ってそんなもんだし別にいいけれど!!
「ちっ……まだ7時じゃん……――――うえええええええええええええ!?7時!?やばい、やばいやばい学校ううううああああああ!」
飛び上りベッドからふらりふらりと脱出すると、蹴飛ばした布団に足が取られ盛大に素っ転んだ。
「なにしてんの泉!!晩御飯出来てるよ!!」
ひいっ。うちの大魔王から殺気が飛んできた。……って、うん?晩御飯?
腰を擦りながら携帯を探す。携帯が示す時間は、……夜の7時。
「あはは!なーんだ!あはははは!」
「はやく降りてきなさい!!」
ハイ、大魔王様!
夕食を終え、私は再びベッドに倒れた。窓越しに月が見える。今日は少し月が欠けているなあ。
そこに、風に運ばれた桜の花びらが舞っていた。幻想的だ、と少し文学的に考えてみたり。ふふふ、私ってば文学少女!
「綺麗……」
呟きながら、微睡みに落ちていく。
ゆっくり、ゆっくり…………。
「エリーシア」
声が、静寂に響く鈴の音のように脳内に響いた。急いでベッドから身体を起こして、辺りを見る。当たり前だが私の部屋だ。
そう、そうだよ、エリーシア!彼が、先程の夢の中で呼んだ名前。誰の名前かは知らないけれど、彼が求めてやまない人物だということはわかる。
私がエリーシアという人を知っているかいないかは、関係ない。ずっとずっとあの丘で泣いていた彼が、呼んでいた名前。それだけで、私の胸を打つには十分すぎる価値をもたらす。
「思い出した。この名前だ、ずっとずっと彼が呼んでいた!」
夢の内容さえ、鮮やかに。
時刻は既に二時を回っていた。ふと視界に入る、外の景色……空が真っ赤に染まっている。そんな異常の中、月が恐ろしい程の輝きを放っていた。あんなに美しかった銀では無い。黄金の輝き。
ごくりと唾を呑む。窓ガラスに手を掛け、開けた。下からの気流のせいか、桜の花びらが私を方へと舞い込んできた為に、声をあげてしまう。
「エリーシア」
切なさをはらんだ声がはっきりと聞こえた。きゅう、と胸が締め付けられる。行かなきゃ、彼の傍に。これ以上、黙って見ていることなんて出来ない!
私が助けてあげるんだ。その人の代わりにはなれないけれど、一緒に探してあげられることは出来るはず。
――何処に行くの。
わたしが私に問いかける。わからない、でも……気持ちが急き立てるから私は行くよ。
――ねえ、行っていいの?
行くしかないでしょう。やっと、彼に会えるのに!
――どうして、彼に会いたいの。
どうしてって……、
「声も出る、身体も動く!」
玄関のドアを開けて、外に飛び出た。空は時間という指針を失い、赤に狂う。それなのに、私以外この街はその異常を無視しているかの様に静まり返っている。
――家に帰りましょう。
いまさら、どうして!
私は走った。当て等ない。ただ、この心に従っているだけ。
不思議と息は切れなかった。嗚呼、空と月が輝くこの街は、狂おしくも綺麗だ。
「こっち……!」
確信など要らない。此方だと思うなら此方だ。
私は桜の森へ入った。獣道は桜の花びらに覆われて、まるで桃色の絨毯の上を走っているよう。規則的な私の息遣いだけが、木霊する世界で走り続ける。
ふと、何の前触れも無く、視界が開けた。
強烈な光に視力を一時的に奪われる前に、私は腕で光を遮る。多少目が馴染んだ所で、私は腕を降ろした。
其処は、一面花が咲乱れる丘の園だった。夢で枯れていた花達は、その様子を一切見せずに瑞々しく咲き誇っている。
夢で彼が立っていた場所に、髪の長い人が立っていた。――彼だ!私はそう思って駆け足で近づいた。
しかし、髪の色が……違う。
「帰りましょう」
「どこ、へ!?」
地面が崩れた。がくんっ、と急に感じる重力にバランスを崩せば、私の視界から彼女が消える。
「約束を……違えては、いけない」
上に助けを求める為に、彼女を視認する為に腕を伸ばす私に見えるのは、彼女の後姿。金色の髪が、茜色を受けて風に揺れている。
宙に伸ばした私の手は、光を透かした。
爆音。心臓を脅かす、けたたましい轟音。
「はっ、……はあ、は……あ……っ!」
視界は黒一色。聞こえるのは、隣で駄々を捏ねて鳴り止まない時計と、私の荒い息遣い。乱暴に目覚ましを止めれば、右手の甲に付いている花弁に目が留まった。
桜の……。
何で、こんなところに?
一人首を傾げる私の項に、冷たい風が息を吹く。さっむ!
春の夜風は、まだまだ寒いか。
小さく息を吐いて、私は明日……ではなく今日の為に寝てしまおうと、窓を閉めた。
朝。
目覚ましは、鳴らなかった。当然だよね、私が一度起きた時に止めたきりだもん。
沈黙する時計に目をやると、針は午前11時を表していた。
……休みで、よかった。本当に良かった心から良かった今日が休みで本当によかった神様ありがとう!!
ベッドの上で両手を組み合わせて神に祈りを捧げる私。都合のよい時だけ感謝するな、とか言わないでよね!……なんて一人心で遊んでいると、机に置いていた携帯が鳴る。何だ何だ?と携帯を開けば、そこには安藤実花の文字が。
「はい。もしもし?」
「はいはーい!あたしあたし!」
「……詐欺かな?切ろうっと」
「あーーっ!?!?実花だよぉ!」
「ふふふ、なに?急に」
と、いつも変わらずに呑気な声を出す電話越しのこの少女は、安藤実花。私の幼馴染の一人。少し猫っ毛なくりくりとした髪に、同じようにくりっとした二重の目。声のトーンはこの通り、軽めで凄く可愛い女の子。こんな外見こんな調子なのに、予想は見事に裏切ってくれちゃって剣道有段者だ。実花のお家は道場をしていて、お父さんの影響で小さい時からびしばし叩きこまれている。……私と湊もまあ、巻き込まれてはいるんだけど……私は触り程度。湊は運動神経が有り得ない程良いので、もしかしたら段・・・・・・取っていても今更驚かない。
実花に長い棒さえ持たせなければ本当に可愛い天然な女の子なので、恋に落ちる男のなんと多いことか。中学時代も、現高校時代も、呼び出されているところを見たことがある。それでも、実花は相も変わらず私と湊と一緒にいるのだ。
「あのね、今日の夜……うん?夕方かな。空いてる?」
「うん。空いてるよ」
「やったあ!じゃあじゃあ……、実花と湊くんと泉の三人で夜桜を見にいかない!?」
「夜桜かあ……いいね、行く行く!」
わあい!と電話の向こうで無邪気な声が浮く。本当に嬉しそうだな。ふふ、私も自然と口角があがる。
「あのー……ね、泉」
「うん?」
恥ずかしそうにもじもじしてそうだなあ……この声は。
「宿題しに、お昼過ぎくらいに……泉のお家、お邪魔してもいい?」
「――ぷっ、あはは!何今更遠慮してんの!いいよいいよ、おいで。何時くらいに来る?」
「わ、笑うことじゃないよう!えーっと、うんと……二時にはお家に行けるようにする!」
「はーい。わかった。じゃあ二時にね」
あはは、本当に可愛いな……実花さ。
うーん、と。私もご飯食べて……着替えて……少し部屋、片づけますか。
ぴん、ぽーん。と呑気なインターフォンの音が鳴る。
呑気なあの子に相応しい鳴らし方だ。私を除く他の家族は全員出掛けているので、ソファで寝そべっていた私はのそのそと立ち上がり出迎えた。
「いらっしゃーい。お菓子はチョコのトリュフがあったから、それでよかったよ、ね……あ"!?」
「俺も来ちゃった。てへ!」
「貴様……どこから情報を掴んだ?」
笑う。湊が、瞳を見据えて口角だけを上げて。
「笑わせるなよ。……この街で、俺に隠し事できるとでも?泉、実花、真理ちゃん、お母さん、お父さん、この街の全てに至るまで!情報は風に乗って、俺に運ばれる……。忘れたわけじゃあ、ねぇよなあ?」
一歩、二歩、近づかれて下がって私の背は我が家のドアに当たる。
湊の手が荒々しく私の左頬を掠めて私の動きを封じた。
「……真理に聞かれたら、きもいって言われるよ」
「……確かにぃ~」
いやいや、そこで泣くの。
湊は真理にキモイと言われる度泣いている。……この男の泣く基準が、わからない……真剣に……!
「んで、何しに来たの?桜を見るにはまだ早いよ?」
湊が床に崩れ落ちて女々しくハンカチを噛みながら泣いているので、しょうがなく私もしゃがんで目線を合わせてあげた。
湊はけろりと顔面を元に戻すと、にたにたと笑みを浮かべる。
「うわあ……き、」
「いやーっ?それは俺を純粋に傷つける言葉の刃ッ!!」
「もーう!話進まない!!アポ無しで来て何の用だ!!」
「えっと……俺も、一緒に課題したいなー……って」
何でそこで恥じらう。
お前は恋する乙女か?
「まじで風が運んだわけじゃねぇよ?さっきそこの交差点でさ、
自室に出した小さな机を中心に、このチョコを頬張った男は座る。彼の名前は、佐倉湊。幼馴染のもう一人だ。贔屓目……というわけではないが、運動神経良し、顔よし、人当たり良し……と実花の対照的に位置する男なので、前みたいに女の子からのアプローチが後を絶たない。お陰で私と実花は良い迷惑をこうむっている……と言っても、湊のせいじゃないからなあ。湊も、昔から変わらずに実花と私といる。二人とも、ずっと変わらない。
「ねえ、実花?俺達、偶然に会っただけだよね?」
こてん、と目をまん丸にしながら湊は首を傾げた。北向きに座る実花は、笑顔で両手を合わせながらこくんこくんっと頷いた。
「そうだよ!湊くんがお空を見ながら歩いてて、あたしは急いでいたから走っていたの。そうしたらね、ごちんって!凄いんだよ、漫画みたいに!でねでね、そうしたら……」
「そうしたら、実花が蠢きながら先を急ごうとするからさ、何でそんなに急いでんの?って聞いたわけ」
「うんっ!泉と一緒に課題するの、って答えました!」
きゃはは、うふふ。
女子会かと思えるほどに会話に花を飛ばしながらの会話を見ていると、こちらは白目をむいて寝てしまおう、という気持ちに襲われる。大体話はわかった!と、私は手を叩いて二人の世界に割り込んだ。
「わかったわかった!湊ってば、実花のストーカーなのかな?って思ったけど大体間違ってなかった!じゃ、さっさと課題終わらせよう!」
「はーいっ!」
「へーい……ん!?ちょっと待てよ、俺今凄い風評被害を受けていませんか!?」
泉と湊くんが、無邪気に笑い合う。……あたしは、胸を少し抑えて机の上にノートを広げた。
夜桜、楽しみなのに……胸の鼓動が痛い。詰まるような、苦しい様な。
……どうか、無事に今日が終わりますように。