異 虹の入江 Ⅰ
文字数 6,435文字
「エリーシア様……エリーシア様……っ」
リアラは半狂乱になりながら、エリーシアに治癒を掛けている。軋む身体と、骨のいくつかがやられたのではと感じる鋭利な痛みに耐えながら、リアラに言わねばならない。
「その名で……呼ばないで……っ! 泉、と……呼びなさい……ッ」
息を深く吸うために開けた口の中、そこから一つ這い出ようとした形があった。圧し留めるように押し上げた喉の奥に、痛みを貫かせる。
ヘレル、と呼ぼうとしてあまりの痛みに喉がなった。しかしそれを無視して身体を起き上がらせると、リアラの目が飛び込んでくる。
嗚呼、さすがは竜。治癒術は問題ない。そうだが、この身体を傷つけてばかりもいられない。
「うッ……!」
リアラの腕にしがみ付いて、心臓を貫かれる心地に抗う。ずるりと向かれる肉の感触。腕を握りしめて目を強く瞑って耐えに震える。
ずるりと抜かれる感覚が、エリーシアを襲う。
彼女を求める本来の彼女の身体。在るべき魂を在るべき器へと導く、――帰巣本能とも言うべきか。本来ならば、今此処で元の身体に戻るべきなのだ。エリーシアが、王であるならば。しかし、今やその双眸に紅は染まらない。その双眸は漆の如く黒を塗り、天が堕とす結末の如き存在に成り果てた。だから、器を変えたとてその事実は変わらない。……より混乱を招くならば、このままで良い。
いや、このままでなければならない――泉のためにも!
嗚呼、視界の端で黒が嘲笑う。……また、距離が近くなった。まあ、この惨状だ。対の像が砕けているのだから。
「アスティン様!!」
鏡子の声だ。
エリーシアは、アスティンへと目を動かした。今や、ヨハネを此方へ引き付けないためにアスティンと鏡子が身を削っている状況だ。
「泉様……泉様! お体は、如何でしょう……!」
「――いいわ。さすがリアラ……さて、どうするか」
リアラを落ち着かせるために、エリーシアはリアラの腕を軽く叩いた。リアラは緊張を緩めた目をすると、唾を一度飲んでヨハネを見据える。
「先程の行動は褒められたものではありません。お控えください」
「……はい」
「……と申しましたが、掴めたものはありましたね」
「ええ。人間以外がヨハネと拮抗出来れば、おそらく道が開けると信じているんだけど……」
鼻で嗤うしかない。リアラは僅かに声のトーンを落として言った。
「……一介兵でしたら良かったのですが――円卓は、少し分が悪いです」
「どうにか策は無いかしら。……何か――何かこの状況を……」
打開する、策は。
辺りを見回した。その最中に光を取り込んだであろう鉱石の反射がわたしの目に入る。あれは――ヘレルの像か。まるで意志を持つように点滅して、輪になった光は辺りへ散った。
エリーシアは眉を顰めた。――その手だけは、使いたくはないのだが。
ヘレルが示すは二列に並ぶ対の巨像達。一列に7体、対の雌雄の像だ。既にいくつか壊れてしまっている。ヘレルはそれらを差して、赤い唇を吊り上げているのだ。
エリーシアは一度息を大きく吸って吐いた。既に三体呼び起こされた大罪――既に三体死んだ、祝福達。シリウスと対面した時、無意識に振っていた
使ってはいけないと心が痛く拒絶する。世界を救うために、世界をこれ以上侵さない為に目覚めさせるべきなのは祝福なのに。――もう三人も、死んでいる。
目覚めさせているのはわたしだ……――他の誰でもない、わたしなの……。
「駄目よ……これ以上……大罪は……――」
「――なら、あたしがいるよ。エリーシア」
不意に聞いた、酷く懐かしい声。背後から彼女に届けられた、酷く慣れ親しんだ声の掛け方。
エリーシアは後ろを振り向いた。庇うリアラの背で、その目を大きく見開いてエリーシアは声を上げた。
「……うそ、おまえは――リベカ!」
「やっほー、おひさ~! 大魔女リベカ様、ここに推参!」
「……!? 上山さん!?」
フランクにふらりと登場した上山泉と瓜二つの少女は、深く被ったフードを脱いで額にピースを押し当てながら像の影から姿を表せた。口角だけあげた笑みで、その場全てを視線を集めた。
「おや……魔女リベカ……ですか。生きてたんですねぇ、まだ」
「そういうあんたは使徒ヨハネ……なのほんとに? 随分貧相な顔つきになったもんだねー、まるで別人だわ!」
茶化す調子で笑うリベカに、ヨハネは無言のみを返す。肩でその場を流して、リベカはエリーシアをヨハネから庇うように身を前に立たせた。
「嗚呼……」
ヨハネは目を細め、頷いた。
「そこの愚者に既視感があったのは……貴女とそっくりだったから……」
「へえ。本当にそっくりだと思うワケ?」
リベカはそう言って気迫に満ちた顔を傾けると、己の周囲に黒い風を巻き起こした。その風は禍々しい要素をたっぷりと含んで、力に変わりリベカの周囲を浮遊する。気配とは相対して、実に穏やかに渦を巻く。
一方、ヨハネは笑みを消しエリーシアの遺体を一瞥した。負は王を求めるもの――この空の器に触れられたくはない。
「エリーシア」
リベカは小さな声で背後の少女に声をかけた。エリーシアは見上げると「何、」と同じ声量で返す。
「こいつのことは、あたしが何とかしてみる」
「……出来るの?」
「わかんない。……――出来ない方が強いかも。でも、少し足止めくらいは出来るから突破口、考えて」
エリーシアは唾を呑んで目を伏せようとした――が、その行為は次のリベカの一声で止まらざるを得なかった。
「ユースティ、還ってるんでしょ。……大丈夫だよ、エリーシア」
そのままリベカは、口を歪めた。大魔女と称されるが如く、その笑みは邪悪を連想させる。しかし、それはあくまで表だ。ヨハネは確かに身に力を入れた、その裏のエリーシアは思う。なんて、なんて――力強い背中なのだと。そして、エリーシアはその背に見たのだ。
そう、ユースティティアのその姿を。
「――寄るな」
「寄るよ。あんたが、この子にしたことを……500倍にして返すためにねッ!! ――――さァさ我が怨嗟を受け入れなさいな! 自らを、使徒などと謳うならッ!!」
黒霧に紛う負を含んだ霧を一度大きくまき散らし、高波のように一度うねりを上げ勢いよく床を這い前方に噴出した。エリーシア側には欠片さえ蒔かず、全てが使徒ヨハネに襲い掛かる。
ヨハネはあくまで冷静を保っていた。広範囲に広がる霧を一度剣で払うが、物質を持たない霧は斬れない。瞬く間に勢いを寄せては返す波のように再び襲い掛かる。
「あたし大魔女なんでね。こんなことも出来るのよ」
リベカが人差し指で上空をかき混ぜるかのようにくるくる回した。すると無差別に霧の中から何かが持ちあがる。
「……――寄るな!」
「あんたが寄るな!!」
ヨハネが風貌を崩し叫んだ。リアラはそれに呼応するように同じ力で言い返し、一気に手を振り上げ振りかざした。――霧に潜むは何物か? ヨハネにそれを観察する暇など与えるはずがない。持ち上がり闇から目を覗かせる何かは、その無い身体をあたかもあるように作り上げ、霧の中から何かを投げ飛ばした。
傍から見れば、それは煤けた埃の様なものなのだ。質量、物量? ――そんなふわふわしたものに、なぜそこまで危機感を募らせた目をするのか?
「寄らなければ何もしない! こっちはね、あんたが考えてるようなことこれっぽっちもする気はないの!」
黒い霧の中から飛び出した粘質的な物体は、無差別にヨハネの周りに飛び散り黒い染みを作る。ヨハネはそれを目を細めて見やるが、憎しみに染まり行く目とは裏腹にヨハネは動かない。
「――嘘をつきましたね。嗚呼、本当に悪い……魔女ですねぇ」
そして、聖人は穏やかな笑みを浮かべた。
「うっっっそでしょ!? ヤバい、リアラ!! ―――ぐッ!」
例えるなら、闇の中で突然目に光を当てられ眩むそれ、だ。リベカが放つ黒い霧、その中より出でる何かはヨハネの周囲を取り囲む様に染みを意図的に作り出し、それは目には気づけない速度で浸食していた。
魔女の力の源は憎しみである。恨みである。――負、そのものである。だからその力は確かな黒となって表れる。もはや円卓の騎士としても、聖人としても力をあの頃の様に振えないヨハネにリベカは多少ながら勝算があった。ヨハネは倒さなくていい。足止めさえ出来ればいい。エリーシア達があの遺体の傍を通り抜け丘へ至れることが大事なのだ、と。
「――っ、エリ」
「サルース卿ッ!! 叫んでいる場合ではありません!」
リアラの叫びをアスティンは上書きした。真に責める声の圧にリアラはアスティンを見つめている。
「ヨハネ……ッ!」
喉の奥、――声帯のそれに親指をかけられた苦しさをエリーシアは地に付かぬ足をぶらつかせながら感じていた。視界があければそこに、瞳に光が灯る巨像がある。その巨像は、嫉妬を表したものだ。
エリーシア及びリベカは喉元に光の輪をかけられ、宙に引き上げられていた。二人は苦し気な顔を浮かべ、輪に手を掛けている。最も、エリーシアだけは二重苦と言うべきか。
「……――主とは、光なのです。わかっていますよね? 主には、闇が全くないのです」
ヨハネが開いた眼は随分と穏やかな色をしていながら、――狂信に堕ちた者の目をしていた。
「たとえ御体が虚空に揺蕩おうとも、本意は愛にあります。愛とは光です。光は闇を退けます。……自らの心の内に問えと言っているんですよ、ぼくは。――何故あなたたちは、光の輪に声を封じられているんですかね?」
鏡子の動きをアスティンが一歩の足の動きで止めた。――鏡子はエリーシアの表情を見、歯を噛み締めている。血が床に落ちる。
「陛下はぼくにお命じになられたそうです。――我が主をお守りせよ、と。しますよ、ええ、しますとも。主よ、聖なるお方よ我らが――父よ。あなたが瞳を開けるその時まで、その安寧は妨げられてはいけない。主の眠りは赦しの眠り。陛下が犯した罪を、主が雪いでおられる。陛下の罪はあまりにも重いが、それさえも主は赦されるのです」
リベカは歯を噛み締めていた。――この聖書狂いの口を封じてやりたい、と。
主の聖なる御名の元、身を焼かれ灰を水に流された彼女にとって聖書の言葉は魂を再び焼くのだ。これだけの時間が経っても、魔女の名がそれ本来の色を失っても、彼女の心は聖書によって意図も容易く焼かれる。
魔女に与えよ鉄槌を――その思念が、彼女の心で振り返るのだ。
目下にはヨハネが敷いた光によって身を潜めた魔術の跡が微かに漂っている。――まだ、だ。まだ、勝機はある。
もはや、リベカに焼かれる心などありはしない。
「ヨハネ……はなしな、さい……」
リベカは瞼を一度動かした。思わずエリーシアを見て。
エリーシアは額に玉の様な汗を浮かべながら、懸命に使徒ヨハネに語り掛けていた。喉元を握られているに等しい苦しさを押しつぶし、引きづられる魂は懸命に上山泉にしがみ付いたまま、ただただヨハネに語り掛ける。
「……いけ、ない……おまえ、……こんなこと……! ヨハネっ……」
「――嗚呼、あなたは、主を傷つける。主よ、再び問い掛けをします。いえ、――……彼らを焼き払いましょう。ぼくは今、天にいるんですから、ね?」
その決定的な言葉に、エリーシアは目を閉じた。
リベカは思わず輪を握る手に力を込め、迅速に術式を編み上げる。
「騎士ヨハネッ!! 彼女たちから手を離しなさい!」
声をあげたのはリアラだ。牙を剥く獣のようにヨハネの前に出で立つが、その足はリベカの陣を踏んでいない。
「サルース殿……あなた方はこちら側で主をお守りくださると嬉しいのですが、どうでしょう?」
「……お断りします」
ヨハネの眉が一瞬だけ、動いた。
「……主の嘆きが、聞こえます」
「――ァ、ああっ!!」
「ヨハネ、――ヨハネェエエ!!」
リアラは喉を抑え苦しみ喘ぐエリーシアの姿を頭上に見て、抑えきれずにヨハネに飛び込んだ。ヨハネはダンスのワンステップの様にくるりと翻ると、そのままリアラを後方へ弾き返した。
その顔は、俄然穏やかであった。
「やばいやばいやばい! 生身の人間には熱すぎる!! あたしの事はどうだっていい、エリーシアを降ろしてッ!!」
「――は? ……はあ?」
騎士ヨハネは頭上にて喘ぐ女を見上げた。――そして、首を傾げた。
大魔女が何を言ったのか、――はあ、理解する間でもない。
殺してしまおう。その一言に尽きるのだから。
さて。少し昔を思い出そうか。
人が人を焼く時、まず足元から焼いたという。
じわじわと、封じられた身が炙られていく感覚と己の身の臭いで肺が溺れていく感覚――。
例えば、ある者は『聖なる身は清らかなる水に受け入れられ沈むであろうから』と。
またある者は『悪魔たる印、痛みを防ぐ』と。
またある者は『清らかなる人は、聖なる焔に守られる』と。
全ての問いは全ての罪を築き上げる為。築き上げた死体の城に、彼らの杯は血で満たされていった。そして、やがてある者は十字架にて群衆を見下ろすのだ。
涙さえも、もはや身体には残っていないはずなのに。
「使徒、ヨハネッ!! 間違えるな! その子は人なの、あんたが愛さなきゃなんない人間なのッ! 焼くな、人を焼くな!!」
魔女が叫ぶ。
鏡子の頭の中で、急げと叫ぶ己の声が迷うなと言っていた。
エリーシアは、苦しみに喘いでいる。
アスティンはヨハネの背後に眠る遺体を見て、エリーシアを見た。やるべきことは、わかっているんだがそれがどうも難しい。
だから、この状況を少しでも変えられたら違う突破口が見出せるはずだとも考えた。
アスティンが一歩足を進めただけで、獰猛な牙がこちらを一瞥する。……動けない、が――――。
ヨハネを越したその向う。旧き神が眠る祭壇に、黒い霧がひっそりと佇んでいた。
魔女が打った布石は見事使徒の目を潜り抜け、使徒が守るその玉に手を伸ばしていた。恍惚なる笑みと、優越なる瞳を見て居られるのは、使徒であり騎士に対峙している者達のみである。
「――――上山さんッ! 後悔は、したくありません!」
鏡子の声が、水面に石を投じる。
鏡子は瞳を強く輝きで漲らせると、その手を片方天へ掲げた。その手が一つの盃で、それを満たす血に受けるは、少女一人である。
「……使徒ヨハネ、――陰陽に連なる鏡子ですがその名は知っています。なので、鏡子はお礼を言いましょう。ご協力に感謝を、そして……――――使徒よ、鏡子を怒らせましたわね!!」
幾数枚の真言を記した札が、龍の如く舞い上がりヨハネを襲った。
ヨハネは目でその動きを確かに多い、一度防いだ後その剣で切り捨てる。しかしその龍は二つに砕かれても粉々に成りはしない。黒い霧を巻き起こして、次第にその色を塗り替えていく。
「――我が神将に告ぐ。取り囲み、取り囲め。その声のまま、
エリーシアは、頭上に光の輪を見た。
嗚呼、あれが……わたしを焼いていた炎だ。
「――――……十二天将」
霞んだ視界を開けた時、エリーシアの身は白く清らかな空間に在った。
十二の人に囲まれ見下ろされ、床に敷かれた真白の陣に横たわるエリーシアは先程まで己が浮いていたことを思い出して小さく笑う。その声に誰一人動かずに、十二人皆一様にエリーシアを見下ろしていた。
エリーシアの身体は動かせない。
十二の剣に穿たれたまま、エリーシアは十二天を見ていた。
十二の剣を穿つ儘、十二天はエリーシアを見下ろしていた。
かつての己の主を――見下ろしていた。