第1話『後悔先に立たず』
文字数 3,041文字
この日を何度も何度も思い出して、有りもしない未来を夢想する。握っていよう、離さないように、離れないように。ずっとずっと……。
嗚呼、暖かい。
この温もりは、確かに此処に、あるんだね。
「泉?そろそろ起きなさい」
私は揺られている。ここらの道路は古くは無い……と自分では思っているんだけど、いや、ほんと揺れるな。むしろ先程私に起床を促したこの適当な呼びかけの母がわざと車を揺らしていると冗談でも考える程、一度大きく車が揺れた。
その反動で瞳を持ち上げる。
「家に着くよ――って、涎!」
「うわ、まじだ」
左のサイドミラーで見た自分に涎が確認でき、声が思わず出たのと同時にお目が良い母から有難い指摘を頂いた。そのお陰で母の指摘で初めて気づいた寝坊助女子高生の出来上がりである。――ある!
母の方を向いて歯を見せて笑ったみた。母はこちらをちらりとも見ないが、「寝起きの顔ねえ」と言う。……うん?運転しながら私の涎見たの?よくよく考えれば危なくない?
はわわわ、と内心大げさに慌てながら窓を開けた。車内の温度が高いから眠くなるのだ!開けちゃえ!
「きもちぃー……あー……ねっむ」
隣から呆れた声が聞こえた気がしたことにして、風に揺れる桜木を見た。
今は春だから、高台に位置する我が家からはとてもきれいに桜並木を見下ろせる。桜のピンクに添える様に生い茂る新芽たちの緑も淡い色でとても綺麗なのだ。今は車の中にいるから、春の少し寒い風を受けながら暖かな日に微睡む木々を見下ろせる――と、文学少女のように頭の中に独白をしてみる上山泉であった――。
「ん?」
ん?
「……ねえ、ママ」
「んー?」
「さ、さっきさ……ガードレールの向こうに……何かいなかった?」
「はぁ?」
いや、そんな目で今ようやく私を見ないで下さい!
「ガードレールの向こうに人がいるなんて、馬鹿じゃないのー?死ぬよそんなん」
「で、ですよねぇ……」
……あれ?じゃあ、私がさっきみたのは――何だろう。
いや、まあ、まあね。ガードレールの向こうなんて、崖……というか。落ちたら桜並木に激突だよね。いくら、絨毯のように桜が広がってるからって――!?ま、まさか!?
「ちょっと泉!!何してるの!危ないでしょ!乗り出すのをやめなさい!」
「……誰もいないや」
ほ、ほお……。
母に叩かれながら胸を撫で下ろした。少し窓を開けて身を乗り出したくらいで大袈裟だよ。子どもじゃないんだからさあ。
――ま、まあ人がいなかったのは当たり前か!こんな気持ちの良い春の日に、飛び込むようなことなんてあるわけないじゃん!
「これと……これ。はい、持ってって」
「うぇーい」
はあ、げんなり。玄関の扉の前で、私はうなだれた。
指に食い込むビニール袋、重し。されどこの玄関を封じる門、開けてくれる人、いないなり。はぁ……――母は、見ていない。ようし、OK!
足で開けよう!
思ったより――大きな音がした!やばいやばいと冷や汗が少し出る。大丈夫?壊れてないよね?きょろきょろと門をあちこち見渡して……うん、大丈夫!
ふう、と汗をぬぐう動作をして家の鍵を開ける。両手が塞がっている以上、一度荷物を置くけど……はあ。うちも早く指紋式にならないかなぁ。そうしたら随分と楽なのに。良いと思うんだよね、鍵無し。何て言うの?キーレス?言わないか。
溜息と共に靴を脱ぎ捨てリビングに荷物を置き捨てると、私は早々と自分の部屋にあがる。
門を開けた時の力より強く扉を開け放つと、流れる動作で私はベッドにダイビングした。もふぅぅぅううと身を包むベッドではないが、「ふぅぅぅぅうう」と口で言って私の身体は沈んだ。
「男の人……」
呟いた声は枕の下で反響する。
さっきの、ガードレールの向こう側に見えた影。――男の人……のような、気がしたの。
なんだろ。ちゃんとわざわざ身を乗り出した確認した時、誰もいなかったんだから……っていうか、そもそもあそこは人が立つ所じゃないんだから気にしなくていいのになぁ。
「うーん……」
気怠く疲れた体を横にしていると、先程まで私を包んでいた睡魔が再び顔を擡げた。心地よく手招くそれは抗う気力を奪うから、私は静かに眠りに落ちてしまったのだ。
「――んばっ!?駄目駄目寝ちゃだめだ……」
例えるならば、ジェットコースターが落ちる瞬間に上空に打ち上げられたような感じがする。落ちかけた意識を無理やり覚醒させた感覚は、頭痛となって私を苛んだ。枕を頭を腕に乗せてマットレスに沈み込む。うつ伏せのまま足をバタバタさせても、このままでは二度寝に真っ逆さまなのは誰から見ても明らかだった。
腕を伸ばす。地面に投げ置いていた一枚のプリントを拾って、私は仰向けに身体を動かした。
「志望校……どうしよう」
視線の先に携帯がある。携帯の先に、――二年生最後の教室の風景があった。
『春休み明けに志望校提出だってよ。泉、どこ受けるの?』
栗色のゆるゆると巻く肩下までの髪。柔らかな雰囲気と声で、その女子は私に問いかけた。
『……同志社?』
『同志社!泉ならいけるよ!』
手を合わせてどこか嬉しそうな声を出す。その横で、机に腰かけていた男子は得意げに言った。
『俺は――京都大学かなあ』
『無理だよね。あたし見たもん。判定Dだったでしょ?』
『希望はありますー!』
へえ、すごいなあ。と私は頬杖をつきながら言った。
『実花はどうすんだよ。お前こそ、京都狙えるんじゃねぇの?』
私は実花を盗み見た。男子の問い掛けに、笑顔をぎこちなく固まらせたその女子はあからさまに視線を二人が交わらない場所に投げる。
『……あたしは――――泉と、一緒がいい』
「はあ」
プリントを投げ捨てた。だらりと腕を床に降ろして、そのまま体を一回転。カーペットの上に落下した身体が、少しだけ悲鳴をあげる。
視界の先にあるカレンダー。日付は4月5日……もうすぐ、新学期。
私は――受験生になる。
携帯がメッセージの着信を知らせた。起き上がって画面を叩くと、あの二人と一緒のグループメッセージが動いたみたいだ。
宿題終わった?――男子、佐倉湊からのメッセージ。
「……終わったよ」
勉強机にプリントを置いて、私はシャーペンを握る。
この大学がいいとか、この大学じゃないと駄目だとか――そんな夢高らかな志望は、私には無い。ただ恵まれたことに私は両親に行けるとこに行け、と言われているし勉強だって人並みはこなせた。担任の先生との面談の際には、両親の県外も考えているとの発言を初めて聞いた。だから……県外に行ってもいいのなら、小さい頃から惹かれていた大学に行きたいな、と思った。国公立がどうだとか、慶応早稲田がどうだとか……言っている意味もわかるし、きっと社会に出たらそれを痛感することになるのかもしれない。それでも、とシャーペンのHBの芯は一度折れる。
同志社大学。私は、ここに行きたい。
メッセージが二通。
――佐倉湊。まじ?まだ終わってねぇ。助けて
――安藤実花。もー。春休み終わるよ?
――私こと、上山泉。手伝って、あげようか?