第67話『太古の獣』Ⅰ
文字数 3,694文字
そのまま腕を取られ、私達は校舎から遠ざかっていく。
「あまり周りを見ずに。ただ帰り道だけを見ていてください」
「そ、そんなにやばいの?」
「杞憂で終われば全て良し、というものです」
「ふむ……。あ、そこを右に――うぇっぶ!」
急に鏡子ちゃんが立ち止まった。勢いを殺せなかった私は鏡子ちゃんの肩口スマッシュを自ら被弾していくスタイルを取る。
鼻をさすりながら鏡子ちゃんを見ると、忌々し気な目が空を――――。
暗雲立ち込めた空を、睨んでいた。
「……上山さん」
「うん」
「神社は、どこにありますか?」
私は自らの瞳に力が入るのを感じた。頷いて、手を逆手に取る。
「こっち!」
そのまま駆け出した。暗雲立ち込めた空に、月が浮かび上がる。もうすぐ満ちる未完の月――その光は、赤く輝いていた。
そこに木霊する一線の声。
その声を、トラツグミの声という。
「ぬ、ぬえ、だっけ!?見つかったの!?」
「認めてしまうのも不吉ですわ!!神社へ急いでください!!領域に引きずり込まれる前に、有利な土地へ誘い込みます!!」
段々と陽は呑まれ、その雲の翳りが背後から手を伸ばして来る。その灰色の影から逃げる様に、私達は次第に悪くなる道にローファーの軽い音を響かせていく。
ずっと鳴いているトラツグミの音。ずっとずっと、上空から追いかけてくる。
石畳を飛ばし駆け上り、私達は鳥居の境内の内側へ転がり込んだ。手を肘をついて肩で息を吸う私とは対照的に、鏡子ちゃんは護符を右の人差し指と中指の間に挟み込んで、何かを唱えている。
自分の呼吸音がうるさくて、鏡子ちゃんの音は聞き取れなかった。ふらりふらり立ち上がって、腰に手を当てて、空を仰ぐ。
そこに、鳥の影があった。
大きな鳥の影は、神社全体を覆い尽くすかのような形だった。
それは、鳥では無かった。
それは、――――。
大地が悲鳴をあげる。大地が恐怖に震え、私達の基盤を崩す。走る亀裂は電撃の石火を飛び散らせ、私を呑み込もうとした。
その間隙に救いの手に掴み取られ、私は亀裂から下へ呑まれずに傍の砂利へ転がり込む。
痛い、と言えなかった。だって、視界の端にずっと、それがいたから。鏡子ちゃんは緊張が走る顔に汗を垂らして、それを見上げていた。
そこに、獣の影があった。
大きな獣の影は、月を覆い、暗雲を連れて、そこにある。
頭は猿で、
胴は狸、
手足は虎で、
尾は蛇。
鳴く声はトラツグミの音色にぞ、似ていると――――。
「鵺……」
「 如何にも 」
私の呟きに、それは返答をした。
返答をした。私の声を拾った。私の言葉を理解した。私を、理解した。
全身を突き抜ける衝撃だ。これを、戦慄が走るというのだ。
「 我は一にして全。我は虚空にして存在。αにしてΩ。我は悠久にして恒久。我は覚醒にして混濁。そして我は―― 」
目が奪われる。聴覚が恐怖に震えているのに、その言葉を拾う。
「 ヒトの恐怖である 」
蛇に睨まれた蛙は、動くことを許されてはいない。
それに見下ろされた
許されてはいない。そう、許されてはいないのだ。動いてはいけない。指先も、毛先も。
では、呼吸は。この胸の上下は、どう、どうなの。どうしたら、許されるの、どうしたら、この化け物は目の前から消えるの!?
ぐるぐるぐるぐる思考が巡り、ぐるぐるぐるぐる視界が回る。
世界は緩やかに上下を変えようと動いているくせに、私は膝を付くことをも許されない。
そんな私を嘲笑って、鵺は一度大きく鳴いた。その猛りの顎の曲線が、ゆらりと揺れた蛇の怪異を想起させる――――。
「――――……」
耳を塞ぐことは、許されなかった。だから、その甲高い耳鳴りの糸の断絶の音を最後に、私は無を知る。不思議と、その無の世界で私は自由を許された。呪縛のような金縛りは解け、目の前に浮かぶ大きな獣の接近にも恐怖を覚えない。
大きく弦を描く鋭利な爪。ゆっくりと、ゆっくりと、迫り来た。
動くことを許された無の中で、私は動かなかった。
ただ、その爪を見ていた。
突如目の前に舞い降りた黒髪の一房が大きく靡く。打たれた様に我を取り戻した私は「鏡子ちゃん!」と目の前の少女の名を呼んだのに音が出ない。しかし鏡子ちゃんは手を獣の目前に突き出し、暴風に晒され歪んだ表情の中で私へと振り向いた。されどそんな彼女さえも脅かすほどの獣なのだろう。彼女の声も響かない。必死に叫んでいるであろう彼女の声が聞こえない――。
あれ?音が、聞こえない。
今気づいた。音が何も聞こえない。
嘘みたいに無音の中。私は聴覚を失っていた。
鏡子ちゃんの目が揺れた。下唇を噛んで私へと飛び出してくる。無音の――甲高い耳鳴りの――世界に取り残された私は、飛び出た鏡子ちゃんの背後へと焦点を持っていかれた。目の前を鮮血が飛び散る。動く視界の端に捉えた獣の爪に綺麗な鮮血が付いていた。
「上山さん――っ。雷獣……鵺、いいえ、似て非なるモノ!貴様たちの主の目的は、この娘の命か!」
安倍鏡子は、寸前の所で結界を張ることに成功した。境内に踏み入れた時に試行した一は失敗に終わり、次いで試行した二は成功した。
今日のMVPは間違いなく鏡子――と心を奮起させて口角を上げた。鵺の爪牙にかかる一歩手前で張った結界を、その腕の一つで意地し続けている。
「 然り 」
鵺は僅かに瞳を細めたが、鏡子の問いに返答した。
「 我は我であり、我は我に非ず。姿さえ定かに出来ず、力さえ定かに屠れず。されど、」
人の言葉を話す獣――其れを、妖と言った。
確かに目の前の雷獣は妖だ。それも、人の世に死を撒き散らす恐怖そのものだ。次々に起こる奇々怪々の連続――死を現代に立ち込めたる、その事実、それこそ、恐怖として足元に落ちていく。
「 その恐怖こそが我であり、それこそが我を我足らしめん―――― 」
それでも、鏡子は笑った。
こういう絶望の場面にこそ、笑えと言い続けてきたから。
笑うのだ、
かつて、あの人が教えてくれたから。その教えに、私は今でもいつでも准じている。
……絶体絶命の時にこそ、笑いなさい。自分は優位に立っているのだと、胸を張りなさい。たとえ状況で劣っていても、心だけは優勢でいなさい。それが――……。
当主というものの在り方、ですよね。
「 娘、引き攣る顔が笑みを偽っておるぞ 」
「――いいえ、
「 嗚呼―― 」
稲妻が走る。鵺の身体に、大空に、暗雲に。
「 もはや、永くは、ない。痺れる。我は、我に非ず。恐怖こそが、我を戻す。痺れる。一つ、其を成さんが為、引き上げられし。其の微睡みの娘、微睡みのまま、――殺す 」
結界に罅が入る。腕が震えている。――庇い続けることは、もはや出来ない!
「 目覚めは許容できぬ。殺す。繰り返し過去、許容できぬ。屠る。―――ころ、す、ころす、殺す、殺す、殺す 」
「 殺す 」
「上山さん!後ろに下がっ……!?耳が―――っ!!くッ――!!」
自分でもね、愚かなことをしていると思ったんです。
絶対に背中を見せてはいけない怪異を、躊躇うことなく背後において、鏡子駆け寄る最中に思いました。破壊の音、炸裂の音。肌を裂いて、血を咲かすでしょう。
鏡子の名を呼ぶ声の羅列が、不自然で、鏡子は確信いたしました。……ああ、全く、これだから。弱き者は、どこまでいっても弱い。
その恐怖が鵺へ力を与え、この滑落が鏡子たちの死を招く
嗚呼、なんて醜い呪詛の坩堝。
人の身に宿せない程の、この世の穢れ。
その身体を庇うために抱いた時、はっきりと感じてしまいました。
上山さん。――今の貴女は、ご両親が大切に愛して愛して育てて来た結果、咲いた綺麗な花。その色を、偽ることは出来ません。たとえ周りの僅かを騙せても、鏡子を騙すことは出来ない。
だから、認めましょう。貴方は、人間であると。そのようであれ、と願われて育った清き人であると。
「鏡子ちゃん!!」
「……仕方ない」
私は、安倍鏡子。
鏡子は、安倍家の次期当主。鏡子は、この日本を、人を護る陰陽師!
縁は縁。結果を確実に手繰るほど、強い紐ではありません。
縁は例えるなら香の匂い。それは、きっかけを誘うもの。
……ふふっ、どうやらそのきっかけは鏡子の血を誘い、さらに強い結びつきで式神を呼び寄せること、お忘れの様ですわね。
今ならば出来る。この怪異の敷く暗雲を貫き、此処に凶将を呼ぶことが。
「カラリンチョウ、カラリンソワカ……玄武っ!」
上山さん――――あなたがあまりにも弱いから、仕方がないから護ってあげますわ!この安倍鏡子が!
日本において最強の陰陽師が、あなたを守ってあげますわ!
「 黄泉に赴け、言葉なく! 」
「それはこちらの台詞ですわ――。過去は未来に及ばない!頼光は、鏡子には必要ない!!」