第76話『一寸先』
文字数 5,502文字
手配、手配、――手配!?
「嘘、だろ……」
腰から膝から崩れ落ちれるものならば、崩れ落ちたい。身体で表せるのなら、それ以上にわかりやすい合図は無い。
「マジ、マジ、――マジかよ!?絶対あのニュアンスは、明日までによろしくね、だった!明日までによろしく!?は!?しかも、新しく選抜しろ!?」
アスティンは部屋を出る前に、友禅の急く問い掛けに応えた。
ああ、そうだよ。きみも必要なのだから、きみ以外を佐倉湊にしてね――――。
急く足音の中、その言葉だけが何度も何度も木霊した。
***
鏡子は窓ガラスの傍に配置された椅子に腰を掛け、唇をティーカップから離した。湯気香る紅茶を、美味しいと息を吐く。
窓からは満月にほど近い月が浮かぶ。その燦々たる明かりを、鏡子は瞳に返していた。
鏡子の背後には、薄いカーテンが風に揺れている。バルコニーへ続く窓を開けていたのだ。眠る泉の為に、風を取り入れる必要があった。穢れを押し込んだ身体からにじみ出る陰の気を、少しずつ鏡子が吸い上げて大気へ流す。そうして循環させ、身体の気を正しく清めるために。
「……玄武。いつまでそうして、上山さんを見つめているのですか」
「――いやあ、なになに。陰の気が、くすぶっておるのでなぁ」
「風を通しています。あまり心配は――……玄武」
上山泉が眠るベッドの傍で、その幼い頬を残した少年は目を伏せて見下ろしていた。傍にある椅子に腰かけず、ただ佇んだまま、見つめていた。
その切なる姿に、鏡子は言葉を飲んで赤い水面を見つめる。
一線を超えるなと、思考するまえに忠告する。
鏡子が、鏡子に言葉を放つ。
わかっている。――誰に言われずとも。
「鏡子」
「はい」
「……鏡子の魂は、その向こうを知っておる。この娘が進む道、その向こうを……鏡子、ぬしは潜在的に知っておる」
「安倍晴明、ですか」
鏡子は薄ら笑う。瞳を閉じれば、いくつもの羨望の眼差しがあった。
「されど、一線を超えるな。――我らは、そちら側へは行けぬ。行けぬのだ……もはや……」
目を開いて、鏡子は玄武を見た。その目が、背中が、あまりにも小さく見えて思わず立ち上がる。その髪の垂りが、風を含んだ髪の流れが、僅かに変わる肌の感覚を鏡子は見逃さなかった。
振り返る。カーテン、窓、バルコニー!
目に力が入る。拳に力が入る。左手で椅子を押し退けて、鏡子は月明り差し込む床を踏んだ。
そこには、長い猫毛を風に遊ばせた少女がいた。月明かりを身に纏い、その金色の瞳が鏡子を見つめて微笑んだ。
その少女は、バルコニーの柵に腰を掛けている。鏡子はお腹に力が籠ることを感じながら、一歩足を前に出した。
「貴様、その姿は、」
少女は滑らかな動きで右手を前に突き出した。制止の合図だった。その掌は次に形を変え、人差し指が奥を差す。奥には、上山泉が眠っている。恐らく、彼女を指して――そのまま、指を立てて己の唇に宛がった。
静かに、とでも言う様に瞳が笑う。
心拍数が上がる。鼓動が急く。危険だと、鏡子の細胞全てが戦意を持つ。
拳に力が入ると感じながら動けずにいた鏡子の傍を、黒の布が駆け抜ける。
一瞬にして少女の目の前に姿を現した玄武は、空中で拳を振り上げていた。鏡子にさえ手を伸ばし、唇を開く隙を与えぬまま、その一撃で仕留めんと瞳を空に残す。
しかし、その拳は空を切り、己を墜落させんがためにバルコニーの柵を掴まざるを得ない。
鏡子は慌てて背後を振り返った。玄武が前に出た、それは泉の傍に誰もいないことを意味する。そして少女は消えた、ということは――――。
鏡子の推測どおり、少女は上山泉を見下ろしていた。顔を覆う様に垂れた髪のせいで表情は読み取れなかったが、少女は見ていたのだ。
もはや躊躇う暇さえなかった。鏡子は足に力を入れ、素早く呪符を取り出す。駆け出す最中に、式神招来の言を――――。
「遅い」
少女が、微笑んだまま鏡子を見射て言う。そんな言葉に構わない。声を紡ぐ、願いを掛ける、命を下す。
「君は、まだまだ未熟だね」
鏡子の呪符に呪言が刻まれていく。電流の如き波形で描かれ、それが示すのは水。
「君じゃ、彼女を護れやしない――――」
「天后!鬼殺灰塵、急急――……」
ただ、笑顔があった。ただ、そこには金色の笑顔があった。そして、それを残して少女は消えた。
鏡子の呪は言霊を宿せずに、焔を灯して消える。水の天主を呼べずに、鏡子の霊力を反する者が喰らい、式神召喚は為せずに再びそこに、穏やかな夜が訪れた。
いいや、そこは先程から変わらずに、穏やかな夜だった。
何も変わらずに、夜だったのだ。
鼓動が全身に伝わる。
今のは――何。
「げ、玄武……今のは……――」
鏡子は、息を呑んだ。
振り返ると、玄武が右手を震わせて、己の顔に手を宛がっていたのだ。
「今のは……剣……金色の……月の……何故、何故、何が、どうして、」
玄武は引き攣る頬を引き上げて、鏡子に願った。
「すまぬ、……傍におる故、姿を消しても、構わぬか」
「え、ええ」
いつもは、己の意志で動いていたのに。どうして今、玄武は鏡子に許可を求めたのだろうか。
どうして、玄武はあんなにも恐れているのだろうか。
『鏡子の魂は、その向こうを知っておる』
そうだろうが、鏡子は知らない。鏡子が役割を果たすために障害になるのなら、鏡子はそれを知ろうとは思わない。
しかし――――。
役目を阻害されるのならば、一線は超える。
白線にこだわるばかりに帰り路を失うような、そんな子供では無いのだから。
「……誰が、未熟……ですって?」
***
事実の扉を開けようと掴んだところで、急に脳裏に忘却した事項が飛来する。友禅は天井を見て一度、大きなため息をついた。目はぐるりと壁沿いに地をつたって正位置に戻る。表情はついていかなかったが、足はあの応接間へと向かってくれた。
「友禅様。よかった、今これを――」
「あー、ありがとう。助かるよ」
黒いスーツに身を包んだ男が、友禅にかの書物を手渡した。男が持っていた時には書物に頁は存在しなかったのに、友禅の手に渡ると何百と捲れそうな紙の束が線を刻む。
「お前……アスティン様のアレ、聞いてた?」
「アレ、ですか?……ああ、すみません。自分は、書物を友禅様に届ける為に今呼び出されまして」
「嗚呼……。悪いな。はぁー……まあ、いいわ。先にお前に言っておくわ」
随分投げやりな態度だな、と男は苦笑した。こういう場合は大抵、碌なことにならないのだが……。
そもそも、そのアスティン様とは一体どういう御仁なのだろうか。友禅様が頭を下げているのだから、あの天に関するお人?
「上山泉、安藤実花、佐倉湊の担当職員を一新することになった」
「……――ハァ!?」
抑揚無く喋る男が、声を荒げて腰をテーブルの角に打つ。その痛みに喉の奥で上げた悲鳴と、身体をくの字に曲げて、何とか言葉を吐く。
「な、なにを仰っているんですか!?成り代わりの代わりなんて、そんなものいません!」
「そ――――うなんだよ!しかも!多分明日中に!」
「明日中にィ!?!?」
もう嫌だ。帰ろう。職員はそう思って首が一度傾いた。
駄目だ。それは失礼に当たる。職員は思い直した。自分でもすごく偉いと感じた。帰りたい。
「ちなみにこれ、拒否権は無い。――お前が今、俺から逃げ出さなかったのと同じ心理が、俺にも働いてる」
「……友禅様」
友禅は先程アスティンが腰掛けていたソファに、身を投げ出して座った。肘を両側に掛けて、首を後ろに倒す。
「あ――嫌だなぁ、全く。こんな、もういつかも思い出せない程時間が経ったっつーのに、背中が痛てぇ……」
「友禅様、アスティン様とは……」
「俺さぁ――――」
男は口を噤んだ。もはや友禅には、男の声は聞こえないと判断した。
「こういうのが嫌で、つーか……次第に心の底から頷けなくなって、上から逃げ出したんだ。言われたことだけをやれ、他は聞くな、歯向かうな、やれ、やれ……あ~~!!」
友禅が書物を再び机に置き頭を掻き毟っていたので、スーツの男は再びその書物が此処に置き忘れてしまうことがないように、書物を見つめた。
そして友禅を見る。ここまで取り乱した姿を見るのは、何十年ぶりだろう。
「荒れたよ?荒れたわ。仕方がないだろう?嫌だったんだ、――嫌だったんだ!……作り物!みたいな?綺麗だね!はい!終わり!みたいな?はい畏まりましたかしこ!みたいな?……だからさ、俺、少しだけ、世界の仕組みをいじれねーかな、って思ったんだよね。自由っていうの?思考の。思想の。自分の信じるモノは俺が決める!みたいな?上手く行けば、それがお前達にも伝わって、絶対この世界も気持ち悪くなくなるって思ったんだ」
「……ええ」
「昔はさーっつってもかなり大昔。お前の母さんが生まれるよりももっと昔だ。お前も長寿の類だけど、俺よりかは短命だろ?俺が若かった時代の話しな」
「今も随分お若いです」
「あらやだぁ!……外見はなぁ。んで、昔のこの世界ってさ。俺からしたらほんと気持ち悪かったんだよ。神々が普通にこの地面に立ってて、人間は人形みてぇに働いてた。俺だってそいつらと同じさ!ただ上の世界の住人ってだけで、人間界では陛下のような事が出来ただけの!……俺だってそいつらと同じだったんだ。だから、だから!態々外れたっつーのに!また顎で使われるのか!俺は!畜生!逆らえねぇ!もう逆らえねぇ!酒だー!酒を持ってこい!」
男は酒の代わりに、カップに冷たい水を注いで友禅の前に置いた。友禅はたちまちの内に飲み干して、まるで本当に酒を煽ったかのような声を出す。
「――ってことだ。早朝に会議を行うから、皆を叩き起こせ。んじゃお前も早く寝ろ」
「え――っ、あ、友禅様!!書物!友禅様――ッ!!」
片手に重すぎる人の人生の全てを抱いて、再び友禅は自らの部屋へ続く回廊を歩いている。何度も唇から出る息――それが二桁行かない内に、その瞳にある光景が蘇ってしまった。
『お前は、
頭上に見えた光。水に濡れた身体が冷えていて、その光がとても暖かった。自分と同じ地平に立つ紫の瞳の女は、冷徹な表情を崩さずに、友禅と同じように頭上の光を浴びていた。
「地獄か、人間界か……」
『――いいえ。人間に転生させることはしない。お前は、そのまま人間界へ堕ちなさい。そうね、
友禅はその言葉に高らかに笑った――、息は吸うたびに震えていく。呼吸音は、喋るたびに増していく。そのすべてを見透かされていることを、自分に伝えないために。大きく、愚かに。
『はあ……。わかった、わかったわ愚か者!その意気良し、ならば今すぐ堕ちるがいい!そして時の流れを知るがいい!もう逃れられない、逃れることは出来ない!足枷を、手枷をくれてやろう!ユースティティア!』
「最悪だ」
もはやこの世に居ない妻の姿が見えた気がした。
思い出さず何世紀も過ぎたというのに、最悪な光景と共に最愛の姿を思い出すなんて、嫌にもほどがある。
再びドアノブを握ったところで、友禅は左手に抱えた書物を見た。そのまま扉を開け中に入る。
わざわざ手で部屋の明かりを付けて、同じように積まれていた書物の近くに上山泉の書を置いた。そのまま横に積んであった二冊の内の上の一冊を手に取り、書を開く。
一ページは勿論、出生、最終は死。
「……何だ、これ……」
で、あるはずなのに、追記の文字が刻まれている。
「追記……?」
アンナ・ハスラーの帰還を確認済。よって、これ以下よりアンナ・ハスラー本人の死までを記録する――――。
友禅は勢いよく書を閉じた。下のもう一つの書物の最後のページを見て、閉じた。
一度友禅は大きく息を吸い、吐く。心臓が落ち着いているが、頭が落ち着いていない。新鮮な空気……朝の空気さえ吸えれば、と思うが空には丸い月が燦々と目を輝かせ夜の街を見下ろしていた。
月を見て、上山泉の書を見た。唾を呑む、手を伸ばす。そしてそのまま――表紙を開いた。
人々の生涯を本という形にした機関のシステムは、誰かの手によって書かれているわけではない。書事態が一個の概念として存在し、時の流れに準じて形成されていく。時の流れは一方通行だ、書は増えることはあっても減ることは無い。稀に例外が発生するが、そんなことはもう例外として普通になっている。抜け落ちた真白のページは必ず何らかの形で埋められる。しかしながら、その例外は中間のページを指すのであって……。
初めの、誕生より前を指すなど有りえない。
「……――頭、いてぇ」
中段のページを開いた。真白のページだった。また捲る、真白、真白真白真白真白真白――――。
ほんと、有りえないんだ。人の生は連続するものであって、飛び飛びに綴られるものじゃない。これは人が記録する日記じゃない。これは、神が記録する人の一生だ!
友禅は覚束ない足で、ベッドへ飛び込んだ。まるで吹雪の中で意識が落ちていくような泥沼に身を落としている気分。――今日は考えたくはない。もはや、見えない世界の事など……どうでもよかったのに。
「エリーシア陛下……今になって、今になって……!!」
心が踏み荒らされていく感覚がする。遥か昔に殺された心なのに、まだ雨を呼ぶ雲があろうとは思わなかった。
こんな夜はあの温もりに触れたかった。
――そんな意識さえ、思い出さずにいられたのに。
最悪、最悪だ。もはや地球上に存在し得ぬものに焦がれる程……空しい苦しみは無いというのに。