十一 麻薬取締官

文字数 2,116文字

 佐介は大浴場で湯に浸かり、大窓から対岸の上山田温泉の背後に聳える山々を眺めた。対岸の上山田温泉の手前に、堤防で囲まれた広い河原を流れる水の少ない千曲川が見える。

 戸倉、坂城、上田・・・。千曲川は東西に山が迫り、堤防で仕切られた千曲川沿いの狭い土地に住居や企業が密集している。これと言った特徴も、旅情を感じる物もない。風光明媚とは言い難い退屈な風景が続く・・・。佐介の感性は島崎藤村とは大違いだ。

 佐介は、岡松製薬の岡松が話した、草野と遠藤院長の関係を考えた。だが・・・・、何も思い当たらない。遠藤院長には取り巻きがいるはずだ。俺とタヌキの関係は奨学金だった。もしかしたら、草野も長野市の給付型奨学金制度を利用したため、審査員だった遠藤院長との縁ができたのではないのか・・・。遠藤院長が自分の取り巻きにしておきたい者の一人か草野で、あの玉突き事故の当事者に草野がいれば、取材すべき相手、情報は佐伯警部が握ってる・・・。イカン、のぼせてきた・・・。佐介は湯から上がり、温めのシャワーを浴びた。

「昼間の入浴はいいですなあ・・・」
 湯に浸かっているサラリーマン風の中年の男がそう言った。
「この先の製薬会社に出張しましてね。こっちに来る時は、いつも週末に出張するんですよ。このお湯に浸かるために・・・」
 佐介の他に入浴しているのはこの男ともう一人、かなり年輩の男だ。
「新しい薬品の開発ですか?」
 佐介は何気ない振りをした。もしかしたら、情報が有るかも知れない。
「薬は毒にも成りましてね・・・」
 男は話しながら、手の平で肩に湯をかけている。
「と言うと?」
 佐介はシャワーの温水バルブを閉めた。冷水バルブは開いたままだ。温めの水が冷たくなっていく。
「オフレコですよ」
 と男が言った。
「はい・・・」
「ヘロインとモルヒネ。麻薬と麻酔薬。禁止薬物と医薬品の関係です。
 製薬業界にはこんな事が多いんですよ」
 男が湯から上がった。シャワーを浴びている。
「ヘロインとモルヒネのような関係の薬品が現れたって事か?」
 佐介は冷たいシャワーを浴びながら男の顔を見た。どこかで見覚えある顔だ。誰だろう。
「以前から存在してるんです。薬物として認められないんです。困ったものですよ」
 男は頭からシャワーを浴びている。

 あっ!思いだした。厚労省の神崎だ。なんでこんな所に居るんだ?
 以前、佐介は、たまたま出かけた新宿で、被疑者を捕える現場を収録している報道陣から、『指揮官が麻取の神崎誠だ』と聞いた事があった。
「もしかして麻か?」
 そう訊く佐介に、男が微笑んだ。
「まあ、そんなところです。
 あなたは、信州信濃通信新聞社の飛田佐介さんですね。
 私は厚生労働省麻薬取締官の神崎誠です。
 今日は湯治ですか?」
「そうです。この風月荘に結婚の挨拶に来た・・・」
 なぜ、俺の名を知ってる?初対面の俺に、なぜ自分の正体を明かす?麻取の身分は極秘じゃないのか?
「この旅館は、妻の親族が経営してる」
 佐介は真理の父親が風月荘の所有者だと説明した。

「小田真理さんは花山さんの親戚ですからね。
 私は花山さんの長男、明義と大学で同期でしてね。
 花山がこっちに戻ったと聞いて以来、こちらに来る時は、ずっとここに通ってましてね。こちらと安曇野には、麻の栽培地と製薬会社が多いですからね」
 花山支配人の息子明義は副支配人を務めている。神崎は真理の姓が小田だと思っている。
「あなた方も麻を追ってるんでしょう?佐伯警部から聞きました」
 神崎は身体を洗い始めた。
「麻か・・・」
 佐介は神崎に合わせて身体を洗った。
 自動車事故で見つかった大麻の出処を探る事は佐伯警部に話していない。俺の知らぬ間に真理が大麻について佐伯警部に話したとは考えられない。佐伯警部から聞いた大麻の事も、岡松製薬の岡松や寺田製薬の広報担当者から聞いた事も、全てオフレコだ。おそらく神崎は鎌をかけてる・・・。

「佐伯警部から、あなた方は信頼できる二人と聞きました。
 それで私の身分を明かした訳です。
 ここがあなたたちの親戚の旅館と聞いた時は驚きました」
 神崎は身体の泡をシャワーで流して湯に入った。
「俺たちに何をしろと?」
 佐介はシャワーで身体の泡を流した。麻薬取締官が直接動くような事件が起こりつつあるのか?

「我々は麻薬事件を取り締るのが仕事です。事件の防止ではありません」
 神崎がそう言っていると湯に浸かっている年輩の男がシャワーを浴びて脱衣室へ移動した。この男も見覚えがある。昨日と今日、この二人に尾行されていた可能性がある。
「あなた方が得た情報は全て我々も得ています。
 玉突き事故の当事者から、佐伯警部が何を聞き出すと思いますか?」
 神崎はそう言った。佐介は神崎を見た。
「麻の入手経路と目的か?」
「おおよその見当がついているようですね。
 我々は佐伯警部の尋問結果次第で、今後、何をするか判断します。
 くれぐれも捜査のじゃまはしないで下さい。
 それでは・・・」
 神崎は湯から上がり、風呂から脱衣室へ行った。

 佐介は湯に浸かった。
 神崎の言葉は、
『今後は佐伯警部からの情報に従って行動しろ』
 としか聞こえなかった。嫌みなヤツだ・・・。
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