五 ネギマ

文字数 4,047文字

『老齢者医療施設医療設備計画』の取材内容はこれといった変化がない。このままでは市民の意見を載せるしかない・・・。原稿を変更だ・・・。
 西の窓を背にした席で、佐介はノートパソコンから顔を上げてふりかえった。西の山麓に続く丘陵地が見える。ここは信州信濃通信新聞社の五階社会部だ。
 今頃、あのタヌキも委員会を終えて、育善会総合病院の院長室から『老齢者医療施設』が建設される、この風景を見てるだろう・・・。

 部屋の相向いで東の窓を背にした編集長のデスクに真理がいる。
 真理は、佐介が書いたもう一つのテーマ、『地域を発展させる出来事』の原稿に目を通している。出来事というのは単発的なイベントやお祭りではない。継続して行なわれている文化的出来事だ。これまで取材した現在も継続中の出来事を、今後も、どのように継続したらいいか、新たにどう変化したか、今後の地域発展に向けてどうあって欲しいかなど、それとなく関係者の意見を『地域を発展させる出来事』に掲載している。地元の出来事とあって読者は多い。
 佐介は『地域を発展させる出来事』を参考にして、『老齢者医療施設医療設備計画』の特集に、鳥羽夫人の意見を載せようと考えた。匿名の一市民の考えとして、鳥羽夫人の意見である『総合病院の医師に関する内容』をまとめた。

「サスケ、今日の原稿は仕上げた!今日も仕事が終った!」
 真理が名ばかりの編集長席からうれしそうに佐介を見ている。あとは帰って飯を食うだけだと考えてるのだろうと佐介は思った。俺が書いた原稿だ。仕上がるに決まってる。真理の感情に訴える記事と違い、俺のは事実を並べて問題点を指摘する。言わば科学的論証だ・・・。報道は事実と、その事実から導かれる可能性を伝える事だと佐介は思っている。
 真理は、以前、佐介の原稿を貶した。
「実験のレポートじゃないんだ!読者の興味を引き出せ!」
 あの時、真理は佐介のような原稿を書けない自分自身に腹を立てていたようだった。

 真理がデスクから立った。佐介に近づいてきた。嫌な予感がする・・・。
「変換してみな・・・」
 真理は佐介のデスクにメモを置いて佐介を見た。ニタニタしている。
 メモを見ると、
「ネギマの意味を示せ。わからなけりゃ、今晩のコックだ」
 と書いてある。またまた変な事を言ってきたと佐介は思った。答えられなければ晩飯を作るのは俺だ。答えられれば真理が負けで晩飯を作る。

『ネギマは葱鮪が本来の意味だ。
 江戸時代、長葱と鮪のぶつ切りを串に刺して、醤油や酒で味付けをして鍋物(葱鮪鍋)にしたのが由来だ。
 江戸時代、鮪の脂身は捨てられていた。もったいないので焼いて食べたら、思ったよりうまかったので、長ネギと交互に串に刺して焼いて食べたのがネギマの始まりとも言われてる。以来、長葱と鮪のぶつ切りを串に刺して焼いた物や、長ネギと鳥肉を交互に串に刺して焼いた物もネギマと呼ぶようになった』
 メモにそう書いて、佐介はそれとなく真理を見た。これで今晩のコックは真理だ・・・。

 真理を見て、佐介は鳥羽夫人の言葉が気になった。夫人は真理に、佐介は旦那さんか、と尋ねていた。婚約しているが、そろそろ何とかしないと真理も困るだろう・・・。
 佐介はいったん書いたメモの最後に、
『今晩のコックと結婚したい。俺のコックになってくれ!賛成してくれ!』
 と追加文を書いて真理のデスクへ持っていった。
 パソコンのディスプレイを見ている真理の目の前で、メモをヒラヒラさせてキーボードに置いた。そのまま自分のデスクに戻って、預金を計算した。指輪を買えるくらいの額は貯まっている。真理の事は実家にも伝えてある・・・。

 真理がいかつい顔で、ズカズカと大股に佐介のデスクに近づいてきた。
 バンッとデスクにメモを置くと、ニタリと笑って、
「オッケーだぞよ!」
 と言って戻っていった。メモを見ると、
「コックになるぞ!」
 と書いてある。そして、
「ただし、たまには、今までのようにコックをしてくれ。週に五回くらい」
 と書き加えてあった。

 今日、取材で市役所へ行ったのだから、婚姻届用紙を貰ってくれば良かったと佐介は思った。
 届けを提出するには、保証人二人の署名捺印が必要だ。誰にするか、それが問題だ。性格がそれなりにしっかりした人物でないと、何かにつけていろいろ言われる可能性がある。タヌキのような人物には頼めない。信州信濃通信新聞社の上司連中も頼めない。正しいと思う事を主張した場合、対立する可能性があるからだ・・・。
 とりあえず過去を整理しよう。女関係ではない。真理がタヌキの調査費を返すように言ってた。俺にとって汚点だ・・・。
 佐介はただちに、遠藤院長でなければわからない文面をメールに書いた。
「新しい探査結果はありません。
 立場上、中立を貫くことになりました。情報は返却します」
 そして、そのメールを真理に送った。真理はこの文面をわかるはずだ・・・。

 真理がディスプレイからデスクに視線を移して、スマホを取った。すぐさま、
「いいんじゃねえの。すぐ送れ。そしてこのメールは、即、消去だぞ」
 と佐介のスマホにメールしてきた。
 佐介は「了解」と返信して、真理との送受信メールを消去し、遠藤院長宛にメールを発信して記録を消去した。さらにノートパソコンで銀行の入金明細を確認し、現在までの調査費合計額、と言っても、給料分にも満たない額を全額、送金元の口座へ返金した。

「全部でどんだけだ?内訳は?」
 退社時間が近づくと真理が佐介のデスクに来た。佐介が受け取った調査費と調査内容を確認している。
 佐介が信州信濃通信新聞社に入社する前の大学時代に、遠藤院長に個人的な調査を頼まれて調査した事があった。その時、
「何かと費用がかかるだろう」
 と言われて調査費を渡されたのがきっかけだった。
 佐介が信州信濃通信新聞社に入社してからは、遠藤院長は佐介の立場を気にしたらしく、調査を依頼してこなかった。しかし、『老齢者医療施設医療設備計画』が表面化すると、今回も含め、タヌキは二度、調査を依頼してきた。前回も今回と同じに伝える情報は何もなかった。

 佐介は真理に、ノートパソコンに現れている遠藤院長からの入金明細を見せた。
「なんだ。入社してからは二度だけじゃねえの。
 最初のこの頃は、何もねえべさ。どうってことねえべ。ドンマイだべ」
 真理はエキゾチックな容姿に不釣り合いな訛りでそう言った。
「だけんど、上には説明しておかねえと、何かとうるせえベ。
 パソコンを持って、ついて来な・・・」
 妙な訛りで話しながら、真理は佐介を別室へ連れていった。社会部の編集長紛いではない、本物の編集長が居る編集長室、つまり部長室だ。

 編集長室で、真理は編集長に一連の経緯を説明して、佐介のノートパソコンの銀行入金明細を見せた。
 佐介は、ヤバイと思う反面、悪どい事はしていないと居直りたい気持ちが湧くと同時に、立場上、非常にマズイ事をしていたと痛感し、胸の鼓動が激しくなった。
 しだいに顔が熱くなり、脇の下に冷や汗が流れた。妙に冷たい。背中にもびっしょり汗が噴き出して背筋を流れるのを感じた。額からも汗が噴始めた始めた。
 そんな佐介の気持ちを感じ、真理が佐介を見てニタニタ笑っている。佐介と真理は以心伝心。真理は佐介の気持を充分理解していた。

 田辺安文編集長は佐介をチラチラ見ながら、
「アッハッハッ、嵌まったな!」
 と笑い、ノートパソコンの入金明細を見て、
「遠藤院長は、これぞと思う若手を自分の取り巻きにしておきたいのさ・・・。
 君だけじゃなく、ずいぶん被害者が出てるよ。
 なあに気にする事はない。我々が得る情報で極秘扱いなんてのは知れてる。
 それに、『老齢者医療施設』は決定事項だ。『老齢者医療施設医療設備計画』の定例委員会で遠藤院長がどうあがいても、変更にはならんさ・・・」
 そう言ってノートパソコンを閉じた。

「それより、おめでとう!
 小田君から、さっき連絡もらったよ。君たちの保証人になるよ!
 もう一人は吉本編集長に頼んだからね!」
 吉本武編集長は、もう一人の社会部の編集長だ。
「では、これにお願いします・・・」
 真理は署名捺印された婚姻届を田辺安文編集長に渡している。
 なんだ?俺の署名があるじゃないか!それも俺の筆跡だぞ!印鑑も俺のだ!
 佐介は婚姻届に署名した記憶がまったく無かった。いったい、いつ書いたのだろう・・・。佐介は何がどうなっているか、さっぱりわからなかった。
「ほら、こないだ、署名してもらったベさ・・・」
 真理は訛ったままそう言い、穏やかに田辺安文編集長が署名するのを見ている。

 署名捺印した田辺安文編集長が、電話で別室の吉本武編集長を呼んだ。
「吉本!印鑑持って、こっちに来てくれ・・・。
 来ればわかるよ・・・。ああ、すぐ終る」
 すぐさま吉本武編集長が現れて、事情を聞いて署名捺印し、
「おめでとう!また後ほど!」
 帰っていった。だいぶ忙しいようだ。

「さあこれで、夫婦だぞ!だからといって我が社は人事移動はしない!
 理由はこれまでの君たちの仕事ぶりを判断してだ!
 サスケ!報道は中立だ!だが家庭では、常に女房側に立て!」
「はい・・・」
 佐介はなんだか照れた。
「もう、女房側に立ってたな・・・」
 田辺編集長は、日頃の真理の態度を思いだして大笑いした。
「それから、何かあったら遠藤院長に、
『これまでの調査依頼の件は、編集長の田辺安文に伝えた』
 と話せ。それでけりがつくよ。
 さあ、婚姻届を出してこい!二十四時間受付けてるぞ!すぐ行け!」
 田辺編集長は笑顔で佐介たちを追い出した。

「いろいろ、ありがとう」
 市役所へ行く車中、佐介は運転しながら真理に礼を言った。
「うん。今までと同じ生活さ・・・」
 真理はそう言うが、窓の外を見て鼻歌を歌っている。すごく機嫌が良い。
「日曜に、Pandoraで結婚指輪を作ろう」
「うん」
 真理が外を見たまま答えた。鼻歌が聞こえる。
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