二十八 ハバナ

文字数 2,384文字

 午後三時過ぎ。
「亮ちゃん、釣り具店に居るよ。しはらくしたら迎え、頼むよ」
 釣り具店に道具を返しながら、佐介はスマホで亮子に連絡した。
「わかった。一時間くらいしたらハバナへ行くね」
「ああ、そうだね。ハバナが開いてるか、ここで訊いてみる。ちょっと待っててね・・・」
「うん、待ってる・・・」
 亮子の声を耳にしたまま、佐介は七福神の布袋さんのような釣り具店の主に訊いた。
「ハバナは、開いてますかね?」
 そう言うと同時に麻取の二人が弾かれたように反応した。ただちに佐介は心の内で、真理と亮子と自分の、天と地と四正の六方位それぞれを、そのつど九字を唱えながら、心にある魔除けの剣で分断した。同時に、麻取から緊張が消えた。二人は穏やかな態度で色鮮やかなルアーや擬餌針、釣り竿を見ている。
「ええ、夜の十時頃まで開いてますよ。温泉客相手だから、午前十時から午後十時まで営業する店が多いんですよ」
 店主は笑顔で快く説明した。頭の先から足の先まで釣り具一式、四人分を借りれば、快く対応して当然だ。その上、真理が訛らずに店主の相手をして、お釣りは取っておいてくれ、などと料金以上の額を払うのだから、店主はなお機嫌がいい。
「ありがとう・・・」
 佐介は店主に礼を言い、亮子との通話を再開した。
「じゃあ、亮ちゃん、頼むね・・・」
「うん、わかったよ。サスケ、あいしてるよ・・・」
「俺もだよ」
「あいしてるぞ・・・」
 真理の声も、スマホから響いた。
「うん、俺もだ。じゃあ、頼みます」
「はあ~い」
 通話が切れた。

「支払い、ありがとうございます。帰ったら、精算してください」
 神崎誠が恐縮した面持ちで言った。
「姐御のおごりさ。気にすんな。さあ、ハバナへ行くべ!」
 真理が麻取たちに退店を促した。


 南北に延びる上山田温泉街の南外れ近くに『パイプと葉巻のハバナ』があり、釣り具店はハバナの二筋北の通りを東へ入った所にある。風月荘からハバナへは、上山田温泉街の南外れに至る万葉橋を渡って行ける。

「サスケの叔父が、長野のホスピスに居るんだ」
 佐介の前を神崎誠と歩きながら、真理が話している。二人の後を、下田広治と佐介が歩いている。佐介は、叔父の事を話されても気にしない。叔父が話題になれば、その事自体が叔父への思いやりだ。話題に昇れば、その分、叔父を思う者たちから元気を貰って、叔父が元気に長生きするように思える。
「叔父さん、パイプが好きでな。そいで、サスケはいいパイプタバコに目がねえんだ」
 真理はハバナへ寄り道する理由を話した。パイプに詰めるタバコは刻んだタバコに香料を加えた刻みタバコだ。佐介がいくら説明しても、関心がないから真理は記憶しない。
 神崎誠が小声で訊いた
「癌ですか?」
 ホスピスと聞けば、誰もが、終末緩和ケアを連想する。
「ああ、肺癌の末期だ。叔父さん、手術しても長生きしねえのを知ってる。
 仲間が何人も肺癌で死んでる。手術してもだめなのを、気づいてるんだ・・・」
 真理は、かつて建築資材の一つとして使われた太い鉄骨の周囲を覆う耐火用アスベストを想像した。真理の思考が神崎誠へ伝わった。
「と言うと、もしかして、あれですか?」
 神崎誠は高度経済成長期の耐火建築資材を連想した。
「そうさ、あれだ。いっしょに働いてた社員のほとんどが肺癌になった・・・。
 まあ、ここでいろいろ言ったって、何にもなんねえかんな。
 叔父さんの喜ぶパイプタバコ、あるといいな・・・」
 真理は表情を変えずに話している。歩調に変化はなく、後ろ姿にも変化は感じられない。

 釣り具店から、上山田温泉街の東側を東西に走る通りを二筋南へ歩いて、『パイプと葉巻のハバナ』に着いた。麻取たちは臆することなく、真理に従って店のドアを抜けた。
 入口から左へ折れると、温泉街の通りにそった店内が拡がっている。左手の通りに面した窓際に五人掛けのテーブル席が五組あり、右側にカウンターがある。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
 若い女性の店員に笑顔で案内されて、全員が窓際のテーブル席に着いた。
「みんな、好きなの、頼め。
 そいで、あたしのダーリンに、パイプタバコを説明しとくれ」
 注文を取りに来た若い女性の店員に、真理が微笑んだ。
「承知しました。コーヒーの注文が決りましたら、お呼びください。
 では、最愛のダーリンはこちらに・・・」
 店員は真顔で真理と麻取に会釈して、一瞬、麻取に何かを問うような感情を向け、佐介をジョークでカウンターへ導いた。
 佐介は、麻取に対する店員の変化を見逃さなかった。麻取は何度もここに来てる。この女とも顔なじみだ・・・。カウンターへ移動しながら、佐介は真理を見た。
 マスターも店員も麻取と顔見知りだ、サスケ、叔父さんの話をしてやれ・・・と真理の眼差しがメガネの奥から考えを伝えてきた。
 了解、と目配せして、佐介は、こちらにどうぞ、と言う店員に促されて、カウンターの椅子に腰掛けた。

「マスターの酒井です。コーヒーは何にしますか?」
 カウンター内から、髪が薄くなりかけたメガネの痩せた中年男性が佐介に笑顔を向けた。
 マスターは赤色を基調にしたタータンチェックのベストに身を包み、赤色の蝶ネクタイをしている。糊のきいたコットンワイシャツの二の腕にサスペンダーがあり、袖口が手首をピタリと包んでいる。かつての絵に描いたような喫茶店のマスターだ。
「では、ブルーマウンテンを・・・」
 佐介は、大学時代に通った長野の『松木珈琲』を思いだしてそう言った。
「承知しました」
 おそらく、他のコーヒー専門店なら、マスターはコーヒーについて講釈の一つも言うのだろうが、酒井マスターは何も言わない。ミルでコーヒーを挽いて、それをコーヒーサイフォンの隣のスタンドに立てられた漏斗に入れている。その横で女性店員が注文に応じて、ミルでコーヒーを弾き始めた。
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