三 とんでもないこと

文字数 3,297文字

「ここの食堂で話はできない。蕎麦でも食うか?」
「遠まわりになるけど、西長野の蕎麦屋へ行くべ」
 真理が言う蕎麦屋は、地元住民も一押しの、善光寺の西側、県道399線沿いの蕎麦屋だ。
「了解」
 佐介と真理は、鳥羽院長たちが去った通路をエレベーターへ歩いた。


「何も、進展は無かったな・・・」
 善光寺の西側、県道399線沿いの蕎麦屋で、真理は山菜蕎麦をズルズルすすった。おつゆがテーブルに飛び散るがお構いなしだ。
「所詮、決定した計画にタヌキがチョッカイ出した揉め事だ。あるわけねえぞ・・・」
 真理は話しながら蕎麦をすすって山菜をシャキシャキ噛み、両手で丼を抱えておつゆを飲んでいる。
 佐介は、真理の仕草が両手で木の実を抱えてかじる、かわいいリスに似ていると思った。
「何だ。食わねえのか?そんなら食っていいか?」
 唇を蕎麦つゆで濡らしたまま、真理が佐介と佐介のカレー蕎麦を見つめている。
「いいけど、はねるぞ。俺、もう一つ注文する」
 信州信濃通信新聞社から離れれば、佐介も真理に対してぞんざいになる。
「ラッキー」
 佐介が追加注文する間に、真理はカレー蕎麦の丼を手元へ引いた。カレーが飛び散るのを気にせず、ズルズルすすっている。真理は好きな食べ物に目がない。周りを気にせず、好物を食べる。蕎麦もその一つだ。追加のカレー蕎麦がテーブルに並ぶ頃、真理はカレー蕎麦を食べつくしていた。
「まさか、まだ食いたいなんて言うのか?」
「ううん、まあな。一本頼んでいいか?」
 真理は盛りそばを注文して、人差指を上げて天井を指さした。日本酒を一本という意味だ。佐介は、やれやれ、ここに来るといつもこれだ、と思った。言いだしたら絶対曲げない真理にはこまってしまう。まだ、勤務時間だ・・・。
「一本だけだぞ。それ以上はごまかせないよ」
「はあーい」
 真理がしおらしくなった。今は食い物と飲み物が真理の脳を支配している。こんな姿、信州信濃通信新聞の社員は見たことがないだろう。


 蕎麦屋を出た。車中で真理が言う。
「総合病院は閑古鳥が鳴いてる。専門の医院はいつも患者がいっぱいだ。
 なぜだと思う?」
「医師の考えの違いが大きいと思う・・・」
 運転しながら、佐介はそう呟いた。
 真理が言う。
「総合病院はサラリーマン医師だ。会計は一箇所で時間がかかる。
 最新の医療設備はあるが、患者は、目的地へ行きつくまで、院内をウロウロする。総合病院ラビリンス・・・・」
 後半の言葉がおぼつかなくなっている。
「眠らないで・・・。まだ昼休みだけど、完全に眠ると、起きたあとが辛くなるぞ」
 蕎麦屋から信州信濃通信新聞社へは車で五分くらいだ。


 信州信濃通信新聞社に戻って駐車場の欅の下に車を停めた。
 快晴とは言えないが晴れている。窓を開けると心地良い風が入ってくる。欅の梢が陽射しを和らげ、昼寝に最適だ。こんな環境がこの駐車場にあったとは、佐介は今まで気づかなかった。
 真理は、佐介のちょっとした感激に気づくことなく、寝息を立てている。好物をたらふく食って一杯飲み、陽射しを和らげる梢の下でそよ風に吹かれれば、真理でなくても眠くなる。佐介はそう思って真理の寝顔を見ながら、遠藤院長の電話を思いだしていた。
 今日はあえて若手の委員たちと話さなかった。あの場で特定の委員に接近すれば、他の委員が警戒する。さて、どうしたものか・・・。

「クソダヌキの頼みなんか聞かなくていいべ。調査費も返すんだ。
 あたしは、知らないことにしとく」
 真理はまどろんでいただけだった。佐介は真理を見た。
「俺の考えがわかるか?」
「あたりまえだべ。何年いっしょに居ると思ってる?
 あたしたちは立場上、エンクロージャーは無理だべ。せいぜい情報を集めるだけだべさ。
 委員たちは、タヌキに知られると困るような弱みを持ってねえぞ。これまでの取材で充分わかってる事さ・・・」
 委員たちに弱みはないが、鳥羽院長が体調を崩してるのは確かだ。『老齢者医療施設医療設備計画』の変更はあり得ねえが、委員会の中心人物が変わる可能性はあり得る・・・。

「なんか、気になるんか?」
 考え込んでいる佐介に真理が訊いた
「うん、トリが体調を崩してるみたいだ」
「やばそうか?」
「もしかしたら、委員を辞めるかも知れない」
「やばいって事だべ!トリの代りはいないんだ。
 まとめ役がいなけりゃ、委員会は烏合の衆だ」
 真理は完全に目覚めた。
「でも、委員たちは医者だろう?」
「全ての医師が頭脳明晰とは限らないし、人格優秀なわけじゃねえぞ。専門分野に詳しくても、政治的な駆け引きができるわけじゃねえ」
 真理は金を積んで医学部に入った者もいるはずだと言いたいらしい。

「烏合の衆になったら、タヌキが委員会を牛耳るとでも?」
「サスケも委員たちを知ってるだろう。タヌキを論破できるヤツがいるか?」
「いないだろうな。カマボコさえ逃げ腰なんだから」
「役所の奴らはダメだ。ダニみてえなもんだ。自分たちの給料を自分たちで決めて、赤字財政だろうと、平気で給料を吊り上げてる。税金で食ってるくせに、自治体の財政赤字を屁とも思っちゃいねえぞ。
 その点、考えはタヌキの方が上だ。手段を選ばねえのは悪だが、総合病院の赤字を無くそうとしてるんだかんな」
 自分の言葉に真理が頷いている。

 遠藤院長の交渉術は恫喝に等しい。若手の委員は腰抜け同然だ。若い委員は遠藤院長との交渉を極力避けるため、いつも鳥羽院長が遠藤院長との交渉の矢面に立ってきた。遠藤院長はその事を見抜いて、鳥羽院長を潰せば後は思い通りなると踏んでいる。
 その状況を見ている佐介は、まさに『雑食のタヌキが、弱ってきたトリと若い腰抜けの烏を狙っている』と思った。
「タヌキは、なぜ俺に、タヌキに靡きそうな意見を持つ委員を探れと言ったんだろう?」
「念には念を入れるタヌキが、次の手を用意しようとしたんだ。
 やっぱりクソだ!クソも匂いも消えてもらいたいもんだぞ!
 戻るよ!」
 真理はシートを起こしてドアを開けて車から出ていった。

 真理がいなくなった車中で、佐介は、家のベランダに置き土産をしていったノラネコを思いだした。あの時、糞は処理したが臭いは消えず、しかたないので漂白剤をスプレーボトルに入れて水で希釈し、匂いの発生源全体に噴霧した。臭いは消えたが案の定、ベランダのコンクリートは漂白剤と反応して二酸化炭素を発生し、人の顔くらいの面積がほんの僅かに窪んだ。
 タヌキは転んでも只では起きない。おそらくタヌキを処分すれば、かなりの巻き添えが出るはずだ。それがわかっているから役所もタヌキを委員会から閉め出さずにいる。
 要するに役所側も、計画を承認した議会も、タヌキ一人に引っかきまわされているのだから腰抜けだ。その無軌道ぶりを記事にしたら、さぞかしおもしろいだろう。
 しかし、信州信濃通信新聞は週刊誌ではない。月一回の特集、『老齢者医療施設医療設備計画』シリーズの掲載は月末の最終日曜だ。今日は十八日。あと一週間以上ある。

「サスケ!行くよ」
 真理が車に戻ってきた。
「どこへ行く?午後から、総合病院の理事たちに会う予定じゃあ・・・」
「予定変更だ。鳥羽医院へ行こう」
 真理は鳥羽院長の奥方に会うつもりだ。会って鳥羽院長の様子を聞くのだろう。
「その前にトイレ」
 佐介は車から出て新聞社の一階へ走った。

 鳥羽院長の家族は奥方と娘夫婦。娘婿の鳥羽勝昭が鳥羽医院の後継者だ。
 娘夫婦は鳥羽医院の敷地内にある別棟に暮している。鳥羽和義院長夫婦と顔を合わせるのは食事時くらいだろう。トイレに入って佐介がそう思っていると、
「サスケ!ゆっくりしてていいぞ!」
 と真理の声が響いた。
 なんてことだ。真理もトイレに入ってる・・・。
 信州信濃通信新聞社の一階フロアのトイレは駐車場に近い裏手にある。一つの空間を二つに区切ってトイレにした安普請なので隣の女子トイレの音が筒抜けだ。
「食えばデルデルだな。イッヒ フンボルト デル ウンチ・・・」
 真理は鼻歌まじりに、なにやら呟いている。佐介は思わず微笑んだ。あいかわらず、真理は狭い空間に居ると元気だ・・・。
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