二十三 休日は麻取を誘え

文字数 4,149文字

 五月二十三日、日曜、午前八時前。
「ご気分はいかがですか?朝ご飯、食べられますか?」
 亮子の若女将が三階の麻取の部屋に入った。昨日と違って部屋はすっかり片づき、窓が開いている。麻取の二人はカジュアルな服装に着換えて御茶を飲んでいた。
「ああ、だいじょうぶです。真理さんのおかげで、すっかり良くなりました。食欲も出てきました・・・。真理さん、不思議な人ですね・・・」
 神崎誠が畏まって若女将にそう言った。
「そうですか?私にはごく普通の人ですよ」
 若女将が話す間に二人の仲居が座卓に朝食の膳を並べた。若女将は茶碗に飯をよそった。

「真理さんから伝言がありますよ。
 明日に備えて、今日は体調を整えるように、との事でした。
 魚釣りに出かけるなどして、身体を動かした方が良いでしょう、との事です。
 もし、出かけるなら、真理さん夫婦が釣りの手解きをするとの事でしたよ。
 では、後はお任せします。一時間ほどしたら、膳を下げにまいります」
 若女将は二人に頬笑んで、挨拶して仲居とともに部屋を出た。

「ウグイの産卵期ですよ、この時期。魚は釣れませんよ」
 仲居の今井は、配膳ワゴンを押しながら通路をエレベーターホールへ移動して、あの二人、釣りなんかできるのかしら、と呟いている。

 釣りをするんが目的じゃねえ。二人にへばりつくんが目的さ。口実は何でいいんさ。なんせ、なんも面白みがねえ温泉場だかんな・・・。信州の温泉場はどこもこんなもんだ。湯に浸かるだけだ・・・。田舎芸者はいるが、歓楽街はねえし、酔っぱらうしか、他にする事がねえ・・・。あれ・・・、酔っぱらうって・・・、あれ?
 若女将は歩みを止めた。
「今井さん、この辺りで、パイプとか葉巻とかを扱ってるお店があったよね」
「ええ、上山田に葉巻の専門店が・・・。店の前を通ると、葉巻の匂いがしますよ。独特の香りがあるんですねえ・・・」
「どんな香り?」
「甘ったるいような。何とも言えない焦げたような・・・」
 タバコと葉巻の香りに、素人がわかるほどの大きな違いはねえぞ・・・。若女将は、妙だ、と思った。

「あの二人、上山田へ出かけた事は?」
 若女将はエレベーターホールで、従業員専用エレベーターのドアを開けて、停止ボタンを押した。
 今井はワゴンを中へ入れながら、
「さあ、わかりません。真理さんたちが到着した時は、もうチェックインしてましたし、その後は、戸倉温泉商店街の薬局へ行ったくらいでしょう。薬局からすぐに戻ってきましたよ」
 今井は、どうしてこんな事を訊くのだろうと、小首を傾けている。
「その葉巻の専門店、なんて名前なの?」
「確か、パイプと葉巻のハバナ、とか言ったわね・・・」
 今井が答えると、若女将は今井をエレベーターに乗せた。
「真理さんに、釣りの事を話してくるわね・・・」
 従業員用エレベーターのドアが閉じると、若女将は客用エレベーターに乗って、五階のボタンを押した。


「ねえ、二人とも聞いて!」
 若女将の亮子が佐介と真理の部屋に現れた。朝食中の佐介と真理は座卓に茶碗を置いた。
「魚釣りの事は話したから、釣りに行きたいと連絡があるべさ。
 仲居が、上山田の葉巻専門店から、甘ったるい匂いが漂ってたと言ってた。
 刻みタバコや葉巻の匂いじゃねえみたいだぞ・・・・」
「高級なものは、煙に甘い香りが混じるよ」
 佐介はパイプに凝っている叔父を思いだして説明した。
「店の外へ排気された煙でも、そんなに香りがわかるんか?」と真理。
「敏感なヤツは、普通のタバコとは違うのがわかるべさ・・・」
 と亮子。
「もしかして、亮ちゃんは大麻の匂いだと思ってるんか?」と佐介。
「うん、一度、店を見といた方がいいベ」
 若女将の亮子は、仲居の嗅覚を気にしている。客商売の仲居だ。商売柄、旅館内の匂いや、出入りする宿泊客や業者の匂いに気を使っている。

「そうだな。確かめておいた方がいいべな・・・」と真理。
 真理は、『パイプと葉巻のハバナ』の取材と、麻取の監視をどうやって続けるか考えている。
「いっそのこと、麻取を同行させるべさ・・・」
 亮子が事も無げにそう言った。いつもは即断するはずの真理がどうするか迷っている。
「サスケはどう思う?」
 やはり、話を俺に振ってきた・・・。
「麻取を誘って散歩に行く。葉巻の店を見つけて、俺が葛飾の叔父にパイプ用の刻みタバコを買いたいと言う・・・」
 佐介は二人の真理の答えを待った。
「寅さん、以前、パイプ、吸ってたな」
 真理が佐介の叔父を思いだしている。末期の肺癌で今は長野県北部のホスピスに居る。『寅さん』は葛飾の叔父のあだ名だ。
「米国じゃ、大麻は肺癌の特効薬って言ってたな・・・」
 亮子も叔父の病状を知っている。

「厚労省が大麻の成分の薬品化を製薬会社に依頼して、利権がらみで遠藤院長が出てきて、麻取が出てきた・・・。
 サスケ!麻取を魚釣に同行しよう!丸一日、魚釣りするわけじゃねえさ。
 麻取は誘えば、必ず、ハバナの取材に同行するさ。心配ねえ」
 真理は座卓の茶碗を取った。ご飯をよそり、しっかり腹ごしらえしとく、と言って、朝食を食べ始めた。

 仲居が嗅いだ匂いが葉巻や刻みタバコでないなら、大麻が考えられる。麻取は興味を示すはずだ。麻取が『パイプと葉巻のハバナ』に関係していれば、取材で何か知られるのを気にして必ず取材に同行する。麻取が同行しないなら、ハバナは麻取と無関係だ。
 佐介がそう思ったとたん、真理がご飯を食べながら言う。
「サスケの考えるとおりだべ。朝飯を食って電話を待とう」と真理。
「麻取の連絡を待たねえで、こっちから連絡した方がいいべさ。
 こっちの考えに気づかれれば、先に手を打たれるベ」
 亮子は麻取の動向を気にしている。

「心配いらねえよ。麻取がハバナへ連絡したって、店を閉めてトンズラするわけじゃねえだろう。ヤバイ物を扱ってれば暴いてやるさ。
 こっちから動くと、こっちの考えを読まれるベ。連絡、待つ方がいいべよ」
 真理は亮子を見つめた。考えを伝えているらしい。
「なるほどな。上山田側から、河原へ出て、釣りすんだな。
 アハハッ!麻取、たまげるベ。ハバナで雑魚を漁れば・・・。
 あたしも、もう一度、朝飯食って、真理ちゃんとサスケに同行したくなったベ」
 亮子から心地良い緊張と興奮が伝わってきた。亮子は本当にそう思ってる。
 佐介は、亮子の感情と意識を真理と同じに感じた。

「じゃあ、こうしよう。電話が来たら、釣りの支度して、上山田の河原へ、亮ちゃんがあたしたちを送る。向こう岸の釣り具屋に貸し竿くらいあるベ?」
 真理が考えを伝えるように、ご飯を食べながら亮子を見つめた。
「うん、あるある。温泉客相手の釣り具屋、あるよ!」
 亮子の目がキラキラし始めた。こうなると、和服を着た亮子も、獲物に突進するイノシシのような真理に見えてくる。いや、真理そのものだ・・・。

「よっしゃ。それで解決だ・・・。
 九時くらいまでに電話が来ねえ場合は、ハバナへ直行だな」
 真理がまた茶碗にご飯をよそった。三杯目だ。それも全て大盛りだ。おまけに佐介の味噌汁とおかずにも手を伸ばしてる。佐介は慌ててご飯の茶碗と箸を手に取った。
 これだけの量を食っても、真理の身体のどこに入ったかわからない。いったいどういう身体なんだろう・・・。
「うん?身体に厚味があるから、食っても、めだたねえんだ・・・。
 平べったい身体だと、食えば、すぐお腹が膨れるけんど、あたしたちは食べ物がうまく身体に収まるんだ・・・。子どもができたって、めだたねえぞ。早く確かめねえとな・・・・」
 真理の話に、相づち打って亮子が笑った。
 なんだ、この二人・・・。もしかしたら・・・。いや、そんな事はない・・・・。
 佐介はご飯を口へ運んだ。
「今のとこ、あたしも亮ちゃんも、妊娠の兆候はないな。
 だけど、今晩は酒を飲むな。アルコールは抜こう。
 明日のために、その一さ」
 真理は妙な事を言う。休肝日を作れと言う事か。やれやれ、俺のおかずが無くなってしまった・・・。

「だいじょうぶ。あたしがサスケに、なんか見繕ってくる・・・」
 若女将が佐介の傍らによった。撫でるように両手で佐介の頬を捕えて唇を触れた。
「あたしたちのサスケに・・・」
 亮子そう言って佐介に微笑んでその場を立った。
 佐介は呆気にとられて茶碗と箸を落としそうになった。
「いいだろう、あたしが二人居ると・・・・」
「うん・・・」
 佐介は否定できなかった。嬉しいやら、先が思いやられるだ。

 真理が一人なら相手は真理一人だからなんとかなる。真理が二人して、
「オイッ!水、持ってこい!ベッドへ運べ!着換えさせろ!」
 なんて事になったら、堪らない。
 真理はウェストが六十センチくらいで体重は三十キロくらいに見える。そう言うの大げさだが驚くほど痩せて見える。しかし、その実体は違う。体重は四十キロを遥かに超えているはずだ。抱えても背負っても凄まじく重い。
 体重四十五キロをの人間を背負ったら、四十五キロだろうと言うのは、実態を知らない人の言い分だ。「死体は重い」と言うように、酔っぱらって力を抜いた人の身体ほど重いものはない。真理の場合、そこへ骨太が加わるから、重さが増して当然だ。そして、見た目は痩せて見える真理は、ヤセの大食いだ・・・。
 あれ!あれ?もしかして・・・。
「真理さん・・・。もしかして、酒飲んでる時や、ご飯食べてる時、亮ちゃんと二人で食べてたんか?二人分、食べて飲んでたんか?」
 佐介はご飯を食べる箸を止めてまじめに訊いた。いつのまにか、佐介は真理や亮子の訛りに染まっていた。
「そうだよ。二人の方がにぎやかでいいべ。亮ちゃんもそう言ってる・・・」
 真理が箸を止めて、当然だろうと言うように佐介を見ている。
 ああ・・・、なんて事だ・・。佐介は真理を見つめて、この思いを大宇宙の彼方へ放り投げるように、ひたすら無我の境地になろうとした。
「心配すんな。今までどおりにするんだから・・・。亮ちゃんもそう言ってたべ・・・」
 真理はふたたびご飯を食べだした。
 佐介は複雑な思いで、亮子が何か見繕ってくるのを待った。

 午前九時過ぎ。
 神崎誠から連絡があった。上山田の釣具店で道具を借りて釣りをする事になった。
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