二十九 タバコをブレンド

文字数 3,090文字

「パイプは、どなたが使っているのですか?」
 マスターはアルコールランプに点火して、コーヒーサイフォンの水が入ったフラスコの下へランプを移動した。
「叔父が使ってます。ホスピスに入ってます」
 佐介の言葉に、マスターは無言だ。何か考えている。
 しばらくして、フラスコの湯が沸騰し始めた。
「それなら、パイプを使えませんね・・・」
 マスターはアルコールランプをフラスコの下から引きだして、フラスコに漏斗を差しこんだ。そして、ふたたびアルコールランプをフラスコの下へ移動し、フラスコの湯を加熱した。
「末期の肺癌です。緩和ケアして貰ってます。だから、ある程度の無理は通ります」
 佐介はフラスコの湯を見つめた。
「では、お香のように、香りを楽しむ程度ですね」
 一瞬、ハッと気にするように、マスターの表情が硬くなった。お香が仏前の線香を連想すると考えている。
 フラスコの湯がコポコポと沸騰して漏斗を昇って、コーヒーサイフォンの漏斗の中に湯が湧き、挽かれたコーヒーが、沸騰した湯とともに踊り始めた。
 気まずい雰囲気から抜けだすように、マスターはカウンターのスプーン皿から、細長い柄の竹べらを取った。漏斗の中で湯と踊っているコーヒーをゆっくり撹拌している。
 マスターの動作は、幼子の頭を撫でる祖父のようだ・・・。

「パイプの事はわかりません。煙を吸いこまないと言ってました。そうなんですか?」
「ええ、そうです」
 漏斗から竹べらを引きあげ、マスターは漏斗の湯とコーヒーを見つめている。
「叔父さんの、好みの銘柄を知ってますか」
 しばらくすると、マスターはフラスコの下からアルコールランプを引きだしてガラスのキャップをして火を消した。漏斗の中で抽出されたコーヒーがフラスコへ戻り始めた。
「いえ、知りません。叔父は、好みの刻みタバコを得る事より、俺が行くのを待ってるみたいだ。タバコは口実だと思う・・・」
「そうでしょうね。覚悟が決れば、執着は消える」
 抽出されたコーヒーがフラスコへ戻って漏斗内の水分が無くなった。
「頻繁に顔を見せに行った方が良いって事か」
「そう言う事ですね」
 マスターはフラスコから漏斗を外して、漏斗をカウンターの内側のシンクへ置いた。

「今まで、いつもタバコを持参してたんですか?」
 カウンター内の湯が入った平鍋から、温めたコーヒーカップと受け皿を引きあげて布巾で湯を拭き、カウンターに置いた。
「はい、いつも」
「急に手ぶらで行くのも変ですね」
 マスターはコーヒーサイホンのスタンドを握った。静かに持ちあげて、フラスコのコーヒーを受け皿の上のカップに注いでいる。
「どうぞ」
 サイホンを元の位置に戻して、受け皿のカップの横にスプーンを載せ、佐介の前へコーヒーを移動した。
「ありがとう」
 佐介はカップを取って口へ運んだ。口元でカップを止めて、カップから昇る湯気とともにコーヒーの香りを嗅ぎ、カップに唇を付けた。少し口に含んで、それから一口飲んだ。
 ちょっと苦みがある・・・。

「気づきましたね」
 シンクで漏斗を洗いながらマスターが呟いた。
「ええ、ちょっと苦みがある」
「これがわかる人はめったにいません」
 マスターは漏斗を洗い終えて、漏斗とフィルターを水切り駕籠に置いた。
「お代わりしてください」
 サイホンのフラスコを示している。カップに二杯分くらいのコーヒーが残っている。

「どこが違うんですか?」
 佐介はコーヒーを飲んで、マスターを見た。マスターは漏斗を拭いている。
「サイホンは、フラスコ内の気圧が大気圧より下がるため、漏斗内のミルされたコーヒーの粒と抽出されたコーヒーが、引力と気圧差の二つの力で強制的に濾過、分離されます。
 ドリップの場合、コーヒーの粒と抽出されたコーヒーは、引力だけで濾過、分離されます。ドリップの方が、抽出されたコーヒーにストレスが掛かりません。サイホンで抽出されたものより、ドリップの方がマイルドになります。理屈をこねれば、こう言う事ですね。
 もう一杯、いかがですか?」
 おわかりですね、と確認するように、マスターは佐介の目を見ている。
「いただきます」
 佐介はカップを受け皿に載せて、皿をマスターの前へ置いた。
「ストレスを与えなければマイルドか・・・」

「そうです。刻みタバコは、ストレスのかからないブレンドにしましょう。
 定形の封筒の半分ほどの量で二千円です。ちょっと高めですが、ストレスが掛かりませんよ」
 マスターはサイホンのフラスコからカップにコーヒーを注いで、カップを佐介の前へ戻した。このマスターは麻取以上に食わせ者だ。言葉のやりとりの裏に、何かが見え隠れしているが、思考を読めない・・・。佐介は何気なさを装って、麻取と雑談している真理を見つめた。
 うまくいったな。物を売るぞ・・・。麻取と話しながら、真理はマスターの考えを目で佐介に伝えてきた。

「少しお待ちください。あちらでタバコをブレンドします」
 カウンターにサイホンを戻して、マスターはカウンター内を店の奥へ移動した。
 突き当たりの壁に、コーヒー豆の入った木製引き出しを納めた、大きな樫材の棚がある。マスターはその横のスイッチをオンにして、その棚をカウンター内の壁方向へスライドさせた。奥に、覗き窓がある重厚なドアが現れた。同時に、店の奥の壁面で店内を映していた大きな鏡の向こうに明りが灯った。鏡はマジックミラーだった。

 マスターが佐介を見た。
「タバコの保管庫です。品質管理のため、温度と湿度を管理して光を遮断しています。
 コーヒーの引き出しや棚と同様に全て樫材の木製です。木製の方が温度と湿度が安定するんです。タバコをブレンドしますから見ていてください」
 マスターは、覗き窓がある重厚なドアを開錠して開いた。その奥の左手にもう一つ、同じようなドアがある。一つ目のドアを抜けると、マスターはそのドアを内部から施錠した。二つ目のドアを開錠することなく開き、ブレンド室へ移動してドアを閉じた。

 タバコのブレンド室の奥の壁に、コーヒー豆の引き出しがある棚のように、タバコの銘柄が書かれた引き出しが壁一面に並んでいる。マスターは何個かの引き出しを選ぶと、マジックミラーに面した作業テーブルに置いた。デジタル秤の上に計量皿を載せて、計量スプーンで刻みタバコを計量した。六つの皿にタバコを計量し終えると、それらを大きめの皿に移してブレンドし、刻みタバコ用の袋に入れた。
 真理が佐介を見た。大麻をブレンドしたぞ、と真理の思考が佐介に伝わった。

 マスターは引き出しを元に戻して使った器具を片づけ、ブレンド室から佐介に笑顔を見せた。タバコの保管庫を出てドアを施錠し、コーヒーの引き出しの棚を元へ戻して、カウンター内に戻った。
「これを叔父さんに差しあげてください。
 二千円です。コーヒーは五百円。税込みですよ」
 マスターは笑顔で、刻みタバコの包みを佐介に渡した。佐介が真理を見ると麻取と雑談しながら真理が佐介に頷いている。
「では、みんなのコーヒー代も払います。幾らになりますか?」
 佐介の問いかけに、女性店員が、
「四千円です。うちはどのコーヒーも税込みで五百円です。わかりやすいでしょう」
 笑顔でそう言った。年輩の温泉客を想像している。
「たしかに、年輩の人も、わかりやすいですね。では、領収書をください」
 佐介はジーンズのポケットから財布を取りだして代金を渡した。
「はい、少しお待ちください」
 女性店員はカウンターの入口近くのレジへ行って、領収書を書いている。
「どうも、ありがとうございました」
 佐介は女性店員から領収書を受けとった。
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