三十四 祈り

文字数 3,530文字

 五月二十五日、火曜、午前八時。
 佐介は真理と亮子に内緒で、神崎誠と下田広治の上層部の連中が神仏の修行をするように端座して祈った。

 ある人物のために祈る事も、呪う事も、相手を思う事だ。どちらも思いやりだ。恨まれるヤツほど長生きする、と世間で語られるのは、この理屈に当てはまる。

 神仏の修行を行うように祈る。こう言うと、『なんと高貴な祈りなのだろう!』と思うのは、世俗の慣習に毒された考えを鵜呑みにしている場合だろう。
 一般人が仏門に入り、雲水となって修行をする姿を報道で見た記憶がある人は、修行がいかに大変かよくわかる。何気ない日常を過ごすより修行で日々考えて悩む方が遥かに苦行だ、と佐介は思っている。

 祈りは思いを形にする事だ。思いを口に出せば大気の振動が伝わって人の耳に聞こえる。その意味で思いは形になる。文字に書けば見える。
 それに対して思うのは自由だ。思いの中で何をしようと許される。そして思いは形にならない。だから思いは祈りにはならない。黙祷は祈りにならない。
 世俗の慣習にどっぷり浸っている者たちは、思う事で祈っている事になると思っている。これは大きな間違いだ。だが、そんな事はどうでもいい。祈りの実態を説明しても、実行しようと考える者など居ないだろう。

「サスケ!祈祷してるの?」
 朝風呂に入っていた亮子が浴室から出てきた。佐介は諏訪大社がある南南西の方角に向って端座して祈っていた。真理はあいかわらず若女将をしている。なんだか若女将を気に入っているみたいだ。
「真理ちゃん、あたしとサスケがいっしょに過ごせるように、気を使って時間作ってる。
 ああ暑い・・・」
 亮子は浴衣の前をバタバタ肌けている。
 身体が丸見えだぞ。下着、着た方がいい・・・。
 佐介がそう思っていると亮子が言う。
「だって、暑いんだもん。サスケも、チラチラ見えた方が、刺激的だべさ。
 ホレホレ!」
 佐介に向って、亮子が浴衣をヒラヒラさせた。亮子の雰囲気が真理に変ってる。こうなると真理のペースだ。亮子はどこへ行った?
「あたしといっしょにフロントだべさ。
 同時に、ここに居るわ!」
 亮子は、肌けた浴衣を直して腹をポンと叩いた。完全に、亮子に真理が同居してる。

「事件の本質が、我々の手が届かない所へ行ってしまった。
 麻取の上層部が、神の修行をするように祈ったよ」
 佐介は亮子にそう伝えた。
「それでいい。こっちは、こっちのやり方でけりを付けるしかねえさ。
 奴らが自殺するとなれば、救急隊員の処理作業が増えるがな・・・」
 亮子はそう言うが麻取が事実を公表する可能性もある・・・。佐介はそう思った。
「佐伯の伯父さんから連絡は?」
 亮子が佐介に訊いた。
「まだだから、祈ってた」
 そう答えながら、佐介は端座を崩した。

 その時、亮子のスマホが着信を知らせた。亮子はスマホをスピーカーモードにした。
「真理さん、重要な証拠を、ありがとうございました・・・」
 佐伯警部の言葉が堅苦しい。佐伯警部は、捜査に圧力が掛かり、事件その物が記録から消されるのを懸念している。
 亮子は佐伯警部の思いを感じて、単刀直入に言った。
「実は昨夜の夕食の席で、麻取は、上からの指示で動いてると話したさ。会話を録音してある。詳しい事は・・・」
 亮子は、昨夜、麻取が話した麻取の任務を説明した。今、亮子に現れている人格は完璧に真理だ。

「上層部からの指示で動いている事を、麻取が話したんですね」
 佐伯警部から、厚労省の上層部に対する舌打ちが聞えそうだった。
「ああ、麻取がそう言ってたさ。麻取は二人とも上からの指示で動いてた。
 国家権力の極秘任務だから、県警も手を出せねえ、捕まらねえと言ってたさ・・・」
「真理さんの推測どおりですよ。
 本日未明に厚労省上層部から、今回の一件を無視するよう警察庁を通じて県警に指示がありました。信州信濃通信新聞社にも報道禁止の政治圧力が掛かりましたましたよ」
「あの爺さんの録音はどうしたべさ?」
「本部長が保管してます。いずれ厚労省の上部へ送られるんでしょうな・・・」
 佐伯警部は、証拠の録音は長野県警本部長の本間宗太郎本部長預かりだと言った。事件が葬られるのを口惜しく思っている。
 スマホに向かって、亮子が舌打ちした。
「事件その物が消されるんか・・・」
 事件に関する当事者と証拠物件から証人に至るまで、全ての痕跡が消される。いったいどうやって消すんだろう?その事を佐伯警部に訊きたい・・・。
 そう思う佐介を感じて、亮子が佐介を見つめて頷いている。

 スマホを通じて亮子の思いを感じたらしく、佐伯警部が刑事らしからぬ言葉を告げた。
「事件に関する全てが消されるでしょうな。さもなければ、事件を肯定するような方針を公表して、辻褄を合わせるでしょうな。そうなれば、犠牲者が少なくて済みますよ」
「どう言う事だべ?処分者が出るんか?」
「真理さんだから話すんです。オフレコですよ」
「わかったさ!」
「長野の玉突き事故関係者は、交通違反を除けば、大麻について初犯ですから執行猶予、あるいはそれ以下の罪状でしょう。
 遠藤院長の殺人容疑は今回の大麻事件とは別件です。
 大麻を栽培していたあの山間の村人たちは大麻を処分したでしょうから、物的証拠は皆無でしょうね。
 厚労省上層部は警察庁に指示し、昨夜録音した会話も事実無根だと否定して済ませるでしょう」

「そんなら、処分者は出ねえべさ!」
「表だっては出ませんが、今回の事件を正当化するため、厚労省内部で大幅な人事が行なわれるでしょうね」
「神崎誠と下田広治が処分されるんか?二人とも指示に従っただけだべ!閑職へ移動されるくれえだべさ?」
 亮子は今にもスマホに食いつきそうだ。
「政府内の事です。その逆でしょうな」
「高い地位を与えて頭打ちにして、口止めするってか?」
「おそらく、そうでしょうな」
「汚ったねえヤツらだな!長野県警もそう言う事があるんか?」
「アッハハッ!本部長と私がいる限り、県警は鮭の腹わたみたいに綺麗なもんです」
 佐伯警部は笑っている。
「だけど、伯父さんの腹わたにゃ、黒い物が渦巻いているみてえだ。何か手を打つ気だべ。 伯父さん、何かするんか?何、考えてる?」
「いやあ~、真理さんにはかないませんなあ~」
 やっぱり、何かする気だ。まさか・・・。
「特務官として裏で何かするんか?」
「いずれにしても、今回の二人の麻取が口を封じられた場合、それらに関係した厚労省と警察庁の上層部に、何らかの動きがあるでしょうね」
 佐伯警部は言葉に含みを持たせている。
「わかったさ。楽しみにしてるべ」
 やっぱ、何かすんじゃねえか。何をするんだベ?

「ふたりとも、今日にも長野に戻るでしょうから、二人で我家にも来てください。
 結婚した二人を家内も待ってますから」
 あっ、そっか!盗聴されてんだ。家で話す気なんだ!
「わかった。伯父さんの休みはいつなん?」
「今度の日曜は休みです。いつでも、家内と家で待ってますよ」
「結婚の挨拶に、日曜に行くよ。
 いつも伯母さんの事、元気なんだろうと思ってんださ。よろしくな」
「では、また」
「はあ~い」
 通話が切れた。

「サスケ。伯父さんの家へ結婚の報告に行くべ」
 亮子が佐介にそう言った。
「ああ、いいよ。週末、佐伯さんと伯母さんの好物を買っておこう」
 二人の好物は、長野県名物の、みすず飴と栗羊羹だ。
「バア~カ。編集長から、今日中に出社しろって連絡があるはずだべ。
 そしたら、出社して、夕方、伯父さんの家へ行くんだよ」
「日曜に行くんじゃないのか?」
「スマホを盗聴されてんださ。本音を話せねえんだ。
 伯父さん、あたしらに話してえ事があるんださ。おそらくオフレコの内容だべ」

 亮子がそう言っている間に、田辺編集長から連絡が来た。
「取材をやめて、明日から出社してくれ」
「午後からじゃねえのか?」
 亮子の推測が外れた。
「ああ、明日でいい。と言うのは・・・」
 編集長は、信州信濃通信新聞社に掛かった政治圧力について説明する気だ。盗聴されてたらことだぞ。
「ちょっと待っとくれ。さっき伯父さんから連絡があったさ。
 話さなくても状況はわかってるべさ」
「伯父さんと伯母さんに、結婚の報告したのか?」
「あの事故の夜、報告しといたさ」
「そうか・・・」
 亮子の思いを知って田辺編集長は沈黙した。田辺編集長は、
『厚労省と警察庁の上層部で、何があったか訊いてこい。今回の件、なんとか記事にしたい。真理も記事にする方法を考えてくれ』
 と思っている。田辺編集長は、どんなことがあっても政治圧力になど屈したくないのだ。
 編集長はあたしと同じことを考えてる・・・。
「全て、了解したベ」
「頼むぞ」
 通話が切れた。
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