三十一 麻の産地

文字数 2,794文字

 五月二十四日、月曜、午前八時前。
 間霜刑事にタバコの包みを渡した翌日、午前八時前、佐伯警部から連絡がきた。
「真理さん、タバコを分析しました。大麻が混じってましたよ。麻取とハバナの関係を明らかにしたいですね」
「今日、安曇野の山間部へ行くんだ。昔、麻を栽培してた村だ。麻があっても、ヤツらがボロを出すかどうか、わかんねえぞ」
 真理は箸を置いて座卓の茶碗を取った。一口飲んでいる。
「安曇野市から十キロほど北ですね。確かに、昔、あの辺りは、衣料用の麻の産地でした。現在は栽培されてませんが、なんらかの状態で、麻が残っている可能性があります。
 ただし、栽培されていたのは衣料用の麻です。麻薬の作用はありませんよ」
「麻が原種に戻る可能性もあるだろさ」 
「先祖返りをよくご存じですね。麻取もそれを狙ってるんでしょう。そこからだと、高速を使えば、二時間ほどで現地に着きますよ。
 今日の午後八時に間霜刑事をそちらへ行かせます。また、状況を知らせてください」
「了解だべ」
「それでは、よろしくお願いします」
 通話が切れた。

「出発まで二時間あるぞ。どうすべ?」
 真理は箸を取った。飯の茶碗に手を伸ばして若女将の亮子を見た。どうするか決めろと目配せしている。
「あたしも行きたいなあ~、三人で・・・」
 そう言いながら若女将の亮子が真理を見ている。亮子は佐介たちとともに、この部屋で朝飯を食べている。今日で佐介たちが長野へ帰るかも知れないからと口実を作り、今日一日、休暇を貰って昨夜からこの部屋に居る。
「なら、亮ちゃんも行くべ。山ん中だから、それなりの格好がいいべさ。
 亮ちゃんも、トレッキングの道具、持ってたな。トレッキングシューズにウインドブレーカーで、弁当と水を持ってくべ・・・」
 朝飯を食べながら必要な物を話す真理に、亮子が頷いている。
 亮子はいつどこへも行けるよう、トレッキングの道具一式を車に積んである。服装に問題はないが、真理と亮子の二人が似た服装をしたら麻取が不審に思わないだろうか?佐介は不安だ。

「心配ねえぞ。あたしはこの偏光メガネ。亮ちゃんはサングラスだ。
 髪は、そうさなあ・・・」
 真理が考えこんでる。二人ともポニーテールにしたら区別がつかない。
「だいじょうぶだよ。この髪をこうしてアップにする・・・」
 亮子がポニーテールの髪を捻った。八の字を描いて絡ませると、束ねた髪を後頭部から頭頂部にくっつけてピンで留めた。
「帽子を被る時は髪を下ろすの。車とか家にいる時はこんなふうにアップにすれば、サングラスと化粧で、真理ちゃんとは別人だべ・・・」
 訛り始めた亮子が真理に頬寄せて、化粧したあたしたちを見てね、と佐介を見ている。
 そんな事したって俺は二人を区別できる・・・。化粧しようがしまいが、俺は外見に現れないものを感じて真理と亮子を認識している。
「サスケはそうでも、麻取は違うぞ。あいつら見た目で判断すっから、佐介は気にしなくっていいべ。場合によっちゃ暗示かけりゃあいい。魔除けの九字切ってもいいべさ」
 と真理。
「九字、切っか?」
 亮子が訛ってきた。
「うんだ、そうすべ!」
「うんだ、すべ!」
 二人して大声で笑ってる。

 午前十時過ぎ。
 真理が運転するランドローバーのディスカバリーは、高速道路を降りて国道を北へ走り、途中から東へ逸れて整備された観光道路を走った。
「亮ちゃん、歳とっても、この車、運転すんか?」
 真理が助手席の亮子に訊いた。佐介は後部座席にいる。麻取二人は黒塗りの車でディスカバリーの後から付いてくる。ディスカバリーは亮子の車だ。
「運転すんべさ。ランドローバーを運転するローバ。かっこいいべさ!」
「どっちが?」と真理。
「運転するローバに決ってるべ!シャレもいいべ!」
 亮子が答えた。
「老婆には、ローバーをってか?アッハハハッ!」
「そいで、みんなで泊まるお宿は、ロージン!」
「あのROSE INNか?」
「うんださ。老人夫婦のお宿、ロージン!アハハハッ!」
 亮子の自意識が変化してる。
ハンドルを握ると真理は人格が変る。今ハンドルを握っていないが亮子もそうらしい。

 人格が変った真理は怖い。横断歩道ではない箇所を人が横切ろうものなら、急停車して、窓ガラスを下げ、
「クソ婆!どこを渡っていやがる!ひき殺されてえのかっ!横断歩道を渡れっ!」
 大声で喚きだす。すると後続車も対向車も急停車して、老人に道を空けるのだ。
 そして、
「人助けで喚いたんだべ。勘違いすんなよ・・・」
 佐介を見て、任務を終えたアサシンの如くニターと笑う。
 車を運転中の真理は、心境がラリードライバーに成るのだと言う。だからタイヤが、ほんの小さな小石を踏んでもわかるし、梅雨時の雨の道路を走るのは嫌だと言う。なぜなら、信州の道路は、道路に出てきた雨蛙をタイヤで潰さねばならないからだ。
 今日は晴天。雨蛙は道路に出てこない。真理は安心して法定速度以上で観光道路の九十九折りをアウト・イン・アウトで車を走らせて、亮子とダジャレを競っている。
 こんな事なら、市内のように俺が運転するんだった、と佐介は思った。

 観光道路が急な登りになった。九十九折りが続き、カーブの先は見えないが、相変わらず真理はラリー車のように車を走らせている。
「この道路は観光道路だべ。あの先の、スキー場へ行くんさ。
 麻を栽培してた村はこっちだべ。あの先の平地だべ」
 真理が右の山麓を示した。山麓の雑木林の間に田畑が拓けているのが見える。山裾に民家が点在している。車は観光道路から右手の山麓へ行く道路へ逸れた。

 アウト・イン・アウトをくりかえして走る車が急停止した。道路の右に、猫ほどの大きさの動物がいる。二匹だ。足が短く胴長、長い尾をしている。二匹は、停止したこの車をじっと見ている。
「イタチだべさ・・・」
 真理が冷静な声で言った。
 イタチは右を見て左を見た。そしてまた、じっとこちらを見ている。
「ここに停まってるさ。麻取も後ろに停まってる。安心して渡れさ・・・」
 真理はイタチから目を逸らさない。車内からイタチに聞えるはずがないのに、真理は佐介に話すいつもの口調で、イタチに向って呟いてイタチを安心させる思いを送っている・・・。そう思う佐介の考えを肯定するように亮子がイタチを見たまま頷いた。

 鳥の鳴き声がしたように思って佐介は窓ガラスを下げた。ウグイスが鳴いている。
「静かなとこだね・・・」
 亮子がイタチを見たまま呟いた。ウグイスは、里と山を移動する渡り鳥だ。この時期、山間部に生息している。ここは山間だ・・・。
 島崎藤村の「夜明け前」の書き出し、『木曾路は すべて山の中である』のように、ここ信州北信濃は全て山の中だ・・・。
 ウグイスの声に後押しされて、イタチがトコトコ道路を渡った。渡りきると、挨拶するように一度こちらを見て、灌木の間へ消えていった。
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