四 鳥羽夫人

文字数 3,397文字

 午後。
 鳥羽医院は、遠藤院長が院長を務める育善会総合病院から三キロメートルほど北に離れた、城下町の雰囲気が残る閑静な街並みの市街地にある。

 鳥羽医院の駐車場に車を停めた。医院の隣りに防護ネットに囲まれた建設用の足場が見える。
「トリが、新しい医院を建てると言ってたな」
 真理は額に手を翳して防護ネットの建設用足場の頂上を見あげた。足場の高さから見て、建物は四階建て建て。現在の鳥羽医院の規模の二倍以上だ。
「繁盛してるんだ・・・」
 佐介は一般企業と同じように医院経営を考えていた。
「うん、なんか、複雑だな・・・」
 民間企業が繁栄するのはそれなりに好ましいが、研究機関ではない一般の医療機関や団体が規模拡大したり繁栄するのは患者が多い事を意味する。社会的には患者が少ない方が好ましい。真理は患者の増加と病院経営を考えて複雑な心境らしい。
 鳥羽医院に限らず開業医は、経営が赤字だ、とは言わない。赤字経営だと言うのは、遠藤院長の育善会総合病院をはじめとする総合病院だけだ。
「こういう状態だから、遠藤悟郎院長は計画に横槍を出すんだ・・・」
 どうあがいても、タヌキは泥沼から這い上がれないと佐介は思った。


 鳥羽院長の自宅で鳥羽院長の妻のアサ子夫人が二人を笑顔で迎えた。
 応接間で、真理は夫人を気づかい、
「いつものとおり、名前は出しません」
 ニュースソースを明かさない事と実名で呼ぶ事を避けて、ボイスレコーダーを音声変換して記録するよう佐介に指示した。佐介は入力音声にフィルターをかけて録音した。

「『老齢者医療施設医療設備計画』について、一市民として意見を聞かせください」
 真理は世間話するように話した。
「理想を言えば、総合病院内に老齢者医療施設があって、各地域の住民を揺り籠から墓場まで診てやれるのが最良と思います。
 でも、今の医療制度では無理でしょうね・・・」
 夫人は困ったような顔でひと呼吸入れている。理由を訊いて欲しいのだ。
 その事を察して、真理が小首を傾けて質問する。
「どうしてですか?」
 待っていたとばかりに夫人の顔がにこやかになる。
「総合病院の若い医師は安い給料で、古株の医師にいいように使われているようですね。
 定時になれば、古株は仕事を終えて病院を出ていくのに、若手は夜勤続き。
 表沙汰にはならないけど、今でも学閥があって、院長や古株の引き合いがなければ、病院内では若手の自由が利かないみたいですよ・・・・」
「今も、上下関係は軍隊のようなんですね・・・」と真理。
「大学の付属病院なんかは酷いらしいわ。
 教授の気分を損ねたら、医学部の学生の未来は無くなる・・・・」

「総合病院の医師は、病院上層部の縁故による引き合いで、それぞれの総合病院に赴任してるケースが多いんですね」と真理。
「大学の教授の紹介や、学閥が支配している病院の紹介がある方が、病院上層部は医師を使いやすいのよ。今風にいえばブラック企業よね・・・。
 だから、勤務している医者は地元の人とは限らないわ。
 総合病院では、患者が地域や家庭でどんな立場にあってどんな精神状態にあるのかを無視して、肉体的に患者を診る事が多いのよ。自動車工場の流れ作業みたいに・・・。
 そんな総合病院に老齢者医療施設ができれば、老齢者の寿命は延びるでしょうが、心は死ぬでしょうね・・・」
 夫人は老齢者医療施設建設に関してではなく、総合病院の運営状況、医療従事者の労働環境と医療倫理に批判的だ。
「・・・計画の老齢者医療施設は、現状の町医者が協力して老齢者医療を行う場です。
 馴染みの爺ちゃん婆ちゃんを、馴染みの先生が診るんですよ・・・」
 夫人は口を閉じた。何か感じるものがあるらしい・・・。
 真理も夫人の変化に気づいた。
「サスケ。レコーダーのスイッチを切れ」
「了解」
 佐介はボイスレコーダーのスイッチを切った。建前は終りだ。いよいよ本音が出る。

 録音していないのを確認し、真理が訊く。
「何か、気になる事がありますか?」
「小田さんは、飛田さんに何かあれば、どうします?
 健康診断するよう、説得しますか?」
 婦人の問いに、一瞬、真理の顔が呆けた顔になった。
「どう言う事ですか?」
「旦那さんの健康状態がいつもと違うなら、どうします?」
 夫人は目を逸らさない。
「旦那さんって・・・」
 真理が顔を赤らめた。
「あら?飛田さん、小田さんの旦那さんでしょ。いっしょに暮してるんでしょ。そしたら、旦那さんよね~」
 夫人が微笑んでいる。
「いいわね、若いって!あら、いけない!話が逸れたわね。ほほほっ」
 夫人は口に手を当てて笑っている。
「わかりますか?」
 真理は真剣な表情で夫人を見ている。
「わかるわよお~。おちつきが違うわ。無理がないもの。
 飛田さんのこと、大好きでしょう?」
 微笑みながら夫人が真理を見つめている。
「えっ?まあ・・・。わかります?」
 真理が顔を赤くしている。
「ええ、わかるわ!うん!」
 夫人は一人で納得して話を続けた。
「それで、飛田さんの健康状態が気になったら、どうなさる?」
 夫人は鳥羽院長の健康に異変を感じているらしい。
「あたしなら、すぐ医者へ行かせる」

 真理の返答に佐介は連想した。真理は蹴っ飛ばしてでも俺を医院や病院へ行かせるだろう。理由は真理自身が人の世話をするのが不得意なためだ。重症になる前に対処すれば、世話する時間が短くなる。それが一番の理由だろう。要するに合理主義より自己中心的なのだ・・・。

「うちのがね。良くないのよ。疲れてて。血圧も高そうだから、気にしてるんだけど、娘の旦那でも、知り合いの医者でも良いから、診てもらえばいいと言うのだけど、
『自分は医者だから、自分の事はわかっている!』
 と言うのよ。何かあった時、開業医じゃ設備の面で対応できないでしょう。
 総合病院の世話になるような事があれば、どうなるか心配なのよ。
 取材してて、うちのに違和感がなかった?」
 夫人は途方にくれると同時に、医師の妻として覚悟し、妻の忠告を聞き入れない医師に諦めを感じている。そして、老齢者医療施設建設に対して対立する医師たちが、患者と医師の立場に変った場合、何が起こるか懸念しているのだ。

「・・・」
 佐介と真理は言葉を無くした。
「やっぱり、何かあるのね・・・。
 あっ?それもあって、今日ここに来たのね」
 夫人の勘は冴えている。
「ええ・・・」
 真理は返答に困った。迂闊な事は言えない。立場上、真理と佐介は中立だ。

 佐介たちの立場を汲んで、婦人が切り出した。
「最寄りの総合病院は育善会総合病院なのよ。うちのとは対立してるから、気をつけないといけないわね。どうしたらいいかしら・・・」
「育善会総合病院の遠藤院長と、距離を置いている総合病院はどこですか?」
 真理は誘い水を流すように訊いた。
「協力的なのは赤十字病院かしら。あそこは今回の計画の委員になってないわ。
 そうだわ!うちのに、緊急入院先を書いたカードを携帯させるわね!」
 夫人は安堵した様子でケラケラ笑っている。一般家庭の主婦と違い、婦人は医師の妻として多くの死を見てきたのだろう。佐介は、鳥羽院長が死に直面しても動じないという態度を婦人に感じた。鳥羽医院には後継者、娘婿の鳥羽勝昭医師がいる。鳥羽院長に何かあっても、鳥羽医院の体制は維持できる。鳥羽医院を経営する立場上、婦人は妻として個人的な感情を捨てているらしかった。医師の妻はこんなに割り切った考えができるのか、と佐介は思った。

「それでは、これで・・・」
 真理は佐介に、取材完了を促した。
「ありがとう、小田さん、飛田さん。うちの人の異変を教えてくれて・・・」
 夫人は真理に帰って欲しくなさそうだった。

 夫人が真理をひきとめる理由はもう無い、と佐介は思った。夫人が他人に意見を求めても参考に過ぎない。決断するのは本人自身だ。これから夫の立場と妻の立場と、地域医療従事者の医師の妻として一人で考えなければならないのだ・・・。
 真理が夫人に答えた。
「いいえ、気にしないでください。何かあれば、それなりに、意見を訊きに伺います」
 本当は、取材で知り得た情報をそれなりに伝えると言いたいが、立場上、直接その事を伝えられない真理だ。
「立場はわかってますよ」
 夫人は真理の思いを理解していた。
「では、これで失礼します」
 真理と佐介は礼を述べて鳥羽院長の自宅を出た。
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