十七 被疑者死亡、麻取への疑い

文字数 3,353文字

 五月二十二日、土曜、午前六時前。
 移送された赤十字病院の草野の病室で、佐伯警部は病室に現れた間霜刑事に訊いた。
「間霜君、点滴をセットしたのは誰でした?」
「担当の看護師でした。指示したのは遠藤院長でした・・・」
 間霜刑事は声を潜めて伝えると佐伯警部も声を潜めた。
「何か対策を講じないと草野が危ないですね・・・」 

「佐伯さん。草野の血圧と心拍数が安定しました。もう心配ないです」
 病室に詰めている医療班の担当官が佐伯警部にそう言った。
「草野君の様態を知っているのはここに居る我々だけですね?」
 佐伯警部は確認した。
「ええ、ここに居る四人だけです」
 医療担当官が話す四人は、担当官本人と佐伯警部、間霜刑事、そして草野本人だ。
「草野君と話せますか?」
 佐伯警部は、医療班の担当官に訊いた。
「ええ、目が覚めてます。五分くらいならいいですよ」
「充分です」
 佐伯警部は担当官に笑顔で答えて草野に質問した。
「草野君、君の他に、命を狙われるのは誰ですか?
 君の仲間を助けたいんです。答えて下さい」

「山田だ・・・」
 玉突き事故の重軽傷者は二十三名。山田は三人いる。草野と親しいのは山田友昭だ。
「山田友昭ですか?」
 佐伯警部は草野の反応を待った。
 草野が、そうだ、と目配せした。
「間霜君、山田友昭の警護を強化して下さい。
 それと、もう一度、この赤十字病院関係者に、遠藤院長と関係のある者が居ないか、調べて排除監視して下さい」
 間霜刑事を見る佐伯警部の眼差しが険しくなっている。
「了解しました」
 間霜刑事は緊張した。佐伯警部は、病室を出ようとする間霜刑事を引き止めた。
「それから、特殊捜査を実行しましょう・・・」
「わかりました」
 間霜刑事は安堵した。


 午前十時。
 長野中央署の取調室にいる佐伯警部のスマホが着信を伝えた。発信者は間霜刑事だ。彼は赤十字病院の一般病棟六階で、草野から事情聴取している。
「君、代わって下さい」
 佐伯警部は、殺人教唆と恫喝の被疑者遠藤悟郎の尋問を増田担当官に代わって、取調室を出た。

 取調室の廊下へ出た佐伯警部はスマホを耳に当て、間霜刑事の報告を聞いた
「佐伯さん。草野信平と山田友昭が死亡しました。
 死因は、点滴に異物が混入していた事が考えられます」
「病院関係者に気づかれぬよう、死亡した草野信平と山田友昭を本部へ運んで死因を特定して下さい」
「了解しました」
「それと、事故の怪我人が育善会総合病院からそちらへ転院してから、草野信平と山田友昭に近づいた者を全て洗い出して逮捕して下さい」
「警察関係者もですね?」
「そうです。では頼みましたよ」
 佐伯警部は通話を切った。廊下にいる佐伯警部は取調室のドアを見た。
 閉めたつもりのドアが僅かに開いている。尋問する増田担当官と、それに答える遠藤悟郎院長の声が聞える。
「小林君、ちょっと・・・」
 取調室のドアを開けた佐伯警部は、増田担当官の尋問を中断させ、記録係の小林担当官を廊下へ呼んだ。

 ドアを完全に閉めたのを確認し、佐伯警部は小林担当官に訊いた。
「スマホで話していた私の話、聞えましたか?」
「ええ。赤十字病院で二人が死亡したんでしょう。それが何か?」
「聞えましたか・・・」
 佐伯警部は困惑した顔になっている。小林担当官は、佐伯警部が連絡内容を遠藤悟郎に知られたのではないかと気しているのを感じた。
「遠藤に聞えても、拘留中ですから何もできないと思います・・・」
「そうですね・・・」
 そう言う問題ではないと佐伯警部は思った。


 午後一時。
 取調室での尋問が終ると、遠藤悟郎は弁護士との接見を願い出た。
 佐伯警部の指示で、拘留手続きは異例とも呼べる状況で迅速に終了している。警察側に、遠藤悟郎と弁護士の接見を拒む理由はない。
 遠藤悟郎に、長野中央署留置場面会室における、午後からの弁護士接見が許可された。

「佐伯さん、谷村弁護士と顔見知りですか?」
 刑事課の課長席で、コピーされた接見者名簿の弁護士名を見つめる佐伯警部に、間霜刑事が訊いた。
「国会議員を務めた弁護士だからね・・・」
 佐伯は名簿を見つめたままそう呟いた。佐伯警部は谷村弁護士と直接面識はない。
 谷村弁護士は、二〇〇七年の奥山事件で警察と裁判所と自治体に働きかけて被害者保護プログラムを実行させた敏腕弁護士だ。プログラムの実行は、おそらく、国内では初めてだっただろう・・・。その後、谷村弁護士は、奥山事件加害者を含めた犯罪者社会復帰と犯罪被害者保護を掲げて二〇〇八年から参院議員を二期務め、二〇二〇年から弁護士活動を再開している。

 かなり手強い弁護士が付いた・・・。遠藤の自白がどこまで有効か・・・。鳥羽和義院長の件もある。どちらも遠藤が話した事は録音されている。自白を強制した記録はない・・・。しかし、何でも素直に答える遠藤の余裕は、何か理由があるのだろうか・・・。
 佐伯警部は、取り調べに応じる遠藤悟郎を思い出しながら間霜刑事に指示した
「間霜君。遠藤との接見後に、谷村弁護士が誰に会うか、確認して下さい」
「わかりました。山本刑事に頼みましょう。
 山本さん、谷村弁護士を尾行して、誰に会うか調べて下さい」
「了解した。ところで、佐伯さん。麻取の連絡はどうしますか?」
 山本刑事が佐伯警部に目配せしている。山本刑事と佐伯警部との付き合いは、二〇〇七年の奥山事件の以前からだ。間霜刑事より長い。

「麻取は放っておきましょう。厚労省上層部から本部長に連絡があっただけで、正式依頼ではないです。先方は、厚労省が特別認可した研究が存在すると話しただけです。
 こちらからは、小田記者たちに教えた事しか話していません・・・」
 と佐伯警部。
 厚労省の特別認可した研究の説明だけで、連絡してきた本人が麻薬取締官である保証はない。本物の麻薬取締官なら堂々と県警本部に現われて、本間宗太郎本部長に直談判するはずだ。その方が隠密裏に確実な行動が可能だ。そうしないのは理由があるからだ・・・。

「正式な捜査じゃないですよ・・・」
 そう言って正式捜査ではない事例を間霜刑事は考えている。
「どう言う事だ?」と山本刑事。
「本部長に来た連絡が、厚労省の上部ではない、個人が騙った成りすましとすれば、考えられる理由は、麻取内の押収物横流しですよ。表向きは捜査、裏で大麻の売買・・・」
 そう話す間霜刑事の目が、佐伯警部の視線と鉢合せした。
「済みません!ふざけたわけじゃないんです!」
「君の考えに一理ありそうですね・・・」
 佐伯警部は、妙に間霜刑事の考えに共感した。
「やっぱり、そう思いますよね。これまでの出来事を考えると・・・」
 一安心した間霜刑事は、佐伯警部を目の前にして恐縮するように説明した。

 木曜未明。
 自動車の多重玉突き事故があって、事故に大麻が絡んでいた。
 育善会総合病院の遠藤院長は、玉突き事故の重軽傷者二十三名全員を育善会総合病院に収容するよう指示した。

 金曜正午過ぎ。
 麻薬取締官から大麻に関する問い合せがあった。

 金曜午後。
 麻薬取締官の連絡で、遠藤院長と岡松製薬は、厚生労働省の特別認可を受けたテトラヒドロカンナビノールの新薬臨床試験を、育善会総合病院で行うよう申請していた。
 麻薬取締官によれば、草野は昨年、岡松製薬から大麻の種を持ち去ったが物証はない。遠藤院長が草野に大麻の種の入手と栽培を指示していらしい。院長は給付型奨学金制度の審査委員をしていた関係で草野と面識があり、二人の関係は現在も続いていた。

 金曜午後。
 遠藤院長は、鳥羽和義院長の主治医である鳥羽勝昭医師と救急隊員を恫喝して、急患の鳥羽和義院長を強制的に育善会総合病院へ入院させようとしたが、佐伯警部に現場を押さえられ、恫喝と強要で現行犯逮捕された。

 金曜午後。
 自動車事故関係者の草野が点滴に異物を混入され死亡しそうになった。
 育善会総合病院の看護師が、遠藤院長から点滴に異物を混入するよう指示された、と証言し、遠藤院長は看護師の証言を認めた。

 金曜夕刻。
 事故関係者を育善会総合病院から赤十字赤十字病院へ転院させた。

 土曜朝。
 草野信平と山田友昭が赤十字病院で死亡した。


「これらから判断すると、麻取は情報提供だけで捜査はしてません」
 間霜刑事がそう話した。
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