三十五 特務官の職務

文字数 5,267文字

 午後八時。
 佐伯家の居間で、良子伯母さんは佐介を見て笑顔で頷いている。
「実を言うとね。いつ結婚するんだろうと思ってたのよ。
 でも、訊かなくって良かったわ。だって、成るようにしか成らないものね」
 佐介の傍で真理がニタニタしている。すでに、お着換え事件やキッチンの抱きつき事件を良子伯母さんに話していたのだ。

「福ちゃんだって、そうなのよ。
 事件は解決するくせに、自分たちの事は解決するのに手間どったわよ。
 後で、結婚は親戚縁者の心を読めないから難事件だって言ってたわ。
 私に一言相談すればいいのにねえ」
 良子伯母さんは、顔を赤らめた佐伯警部を見て微笑んでいる。佐伯警部の名は福太郎だ。良子伯母さんは、福ちゃん、と呼んでいる。

「あたしも結婚式は難事件だと思うよ。披露宴の席順だの何だのって、どうでもいい事に屁理屈つけてるべさ・・・」
 真理は七面倒くさいのが大嫌いだ。だから結婚も、
「籍を入れて、親戚縁者に顔見せの挨拶するだけで充分だ」
 と思っている。

 結婚の報告に関する事を真理に任せ、佐介は話を本題へ変えた。
「佐伯さんは、今回の事件をどう考えてるんですか?」
「権力側が、法律を無視して行なおうとした事が暴露されて、警察と報道の口を封じただけです。計画を中止したとは思えません」
 佐伯警部は佐介のグラスにビールを注いだ。
「計画が実行されると考えてるんですか?」
 佐介は佐伯警部のグラスにビールを注いだ。
「一度立案して実行された計画は、おいそれと中止にはならんでしょうね。人知れず行なわれるでしょう」
「佐伯さんは一個人として、今回の件をどう考えます?もちろんオフレコです」
「事実を世間に暴露したいですね。法律を犯した者を逮捕したいですね」
 佐伯警部は、『事件を事件として有りのままに扱いたい』と考えている。 

「当事者を処分すると言う事ですか?」
 佐介は座卓のビール瓶を取って、佐伯警部のグラスを見つめた。
「そうなるといいですねえ・」
 佐伯警部はグラスのビールを飲み干して、グラスを差しだしている。
「でも、何もできないのではないですか?」
 佐介は佐伯警部のグラスにビールを注いだ。
「表向きはそうです」
 佐伯警部はグラスを座卓に置いて箸を取った。刺身を摘まんで口へ運んでいる。
「人知れず行うのは可能だと?」
 佐介はビールビンを置いて、自分のグラスを取ってビールを飲んだ。
「まあ、そんなところでしょう」
「方法があるんですか?」
 佐介は自分のグラスにビールを注ぎながら訊いた。
「無い事は、ないですね」
 表情を変えずに佐伯警部はグラスを手に取った。
「どう言う事です?」

「これからの話はオフレコですよ」
「はい・・・」
「特務官の職務上の事です」
 佐伯警部は、また、くれぐれもオフレコですよ、と念を押して、ビールを飲みながら説明した。
 良子伯母さんと真理は、佐伯警部の言葉に耳を傾けようと、女同士の話を中断した。
 良子伯母さんは、佐伯警部の職務上の話を、あまり聞いた事がない。
「以前、佐介さんが、真理さんの曾祖父のアルバムの件で、内閣府に監禁された後に、ここで、特務官の職務について説明しました。真理さんの曾祖父は私の大叔父ですね。
 特務官の統括的司法権を使えば、人知れず当事者を処分するのは可能ですよ」
 佐伯警部は真理の再従伯父で、真理の曾祖父の姉の孫が佐伯警部だ。


 佐介が大学生の時。
 佐介は真理が持っていた、真理の曾祖父のアルバムの件と、戦前戦後当時の曾祖父の裏の役職について国会図書館を訪れて質問した。曾祖父のアルバムには、旧日本軍の戦艦の就航から沈没までが記録されていた。そして、戦前戦後当時の曾祖父は平の国家公務員だったが、公用車が曾祖父を役所と自宅に送迎していたという不可解な事があったと真理から聞いていた。
 佐介は国会図書館で、旧日本軍が東南アジアから運んでいた金塊のトレジャーハンターだと誤解され、不審者として内閣府に監禁されたが、監禁した内調の内閣情報官に、真理の再従伯父の佐伯警部が特務官だと話すとただちに解放された。
 その後、内閣情報官は真理の家を盗聴盗撮したが、特務官の佐伯警部が、内調に手出ししないように話をつけた。その際、佐伯警部は自宅の座敷で、真理と佐介に、
『佐伯警部自身が特務官で、真理の曾祖父も特務官だった』
 と極秘事項を話した。

 後日、佐伯警部は自宅居間の座卓の食卓を囲んで、真理と佐介に特務官について説明した。
「警察庁には、監察官が置かれています。
 監察官制度は、各省庁に置かれていますが・・・」
 監察官は、官吏等の監督査察を行なう。強制力を行使する権力的公務など、特に職務の性質上、内部の監察を要する官庁その他に、監察官が置かれている。
 しかし、警察組織で、監察官に成れるのが警視以上であるように、監察官より職務上の地位が上の者が監察官を監督査察するため、監察官は、監察官より上層部を監督査察できない。
「戦前の政府には企画院がありました。日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関です。
 企画院の前身の一つは戦前政府の内閣調査局です。現在の内閣情報調査室とは異なります。当然のように、内閣調査局は、政策に反抗する勢力の排除も行ないました。この事は表沙汰になっていません。
 現在の監察官は、好き勝手を行なう上層部を監督査察する権限がありません。しかしながら、そのような上層部を野放しにできません。
 そこで 政府は、各省庁の上層部を監督査察する権限を有する官吏を置きました。『特務を授けられた監察官、つまり特務官(・・・・・)』です。
 建前上。特務官は内閣官房に席を置いていますが、内閣からも政府組織からも独立した存在で、どの部署からも制約を受けません。全ての公務員を監督査察する権限を有します。
 この事は、戦前からの政府の極秘事項で、公表されていません」
 そこまで説明した佐伯警部は笑顔でグラスのビールを飲み干した。
「質問を受付けますよ」

「どこまでの権限が与えられているんですか?」
 そう訊いて、佐介はグラスを座卓に置いた。佐伯警部のグラスにビールを注ぎながら、佐介の左に座っている真理の思いを探った。真理は、もっと質問しろと思っている。
「戦前の特務官には諜報、逮捕監禁、人事処罰など、全ての権限が与えられました。
 いわば、内閣による全公務員の監督査察と人事処罰の行使です」
 ビールを一口飲むと、佐伯警部は箸を取って刺身を口へ運び箸を置いた。

「内閣が、官僚たちを監察したんですか?」
 佐介も箸をとって刺身を口へ運んだ。真理と良子伯母さんも、同じ仕草をしている。意識が完全にシンクロしている。皆、質問したい内容が同じなのだ。
「戦前は、特務官を通じて、内閣が全公務員を管理したんです。
 現在も、公表されていませんが、その制度は存在します。
 特務官がは自己判断で全ての公務員を処罰できます」
 佐伯警部はグラスを手に取った。何かを踏ん切るようにビールを飲み干している。

 真理と良子伯母さんが箸を置いた。二人ともグラスを手にしている。
 真理が訊いた。
「人事も?」
「はい」
 佐伯警部が答えた。
 佐介が質問した。
「逮捕監禁と尋問も?」
「はい」
 真理が訊いた。
「処罰も?」
「はい」
「もしかして・・・」
 真理と良子伯母さんの顔色が変った。特務官の職務に気づいたらしい。
「全ての司法権、統括的司法権が与えられています」
 佐伯警部は空いたグラスを持ったままだ。佐介は佐伯警部のグラスにビールを注いだ。
「マア、なんて恐ろしいんでしょう!
 福ちゃんは、統括的司法権なんて、使った事は無いわよね?」
 良子伯母さんが佐伯警部を見つめた。佐伯警部の名は佐伯福太郎だ。
「私は、まだありませんよ」
 佐伯警部は笑っている。
 佐介と真理は、曾祖父の隠れた役職を理解した。同時に、佐伯警部が統括的司法権を行使した事があるのを確信した。


 佐介は、内閣府に監禁された当時思いだした。
 あの時は、佐伯警部が内閣官房に話をつけた・・・。
「今回の件も、政府内で特務官がそれなりの結論を下すでしょう。その結果は公表されないはずです」
 佐伯警部はビールを飲んでグラスを置いた。
「・・・・」
 全員、沈黙した。考える事は一つだ。関係者の口が封じられる。

「ところで、伸子さんは元気ですか?」
 佐伯警部が話題を変えた。これ以上、特務官について語りたくないらしい。
「ええ、とっても元気ですよ。なんだか若返ったみたいですよ」
 佐介は佐伯警部のグラスにビールを注ぎながら、ノブチンの変化を思いだした。将来Jewelry Pandoraを継ぐと話した真理の配慮の結果だ。
「同じ市内に住みながら、私たち夫婦はこれと言って訪れる機会がありませんからねえ」
 良子伯母さんが箸を取った。刺身を口へ運んでいる。
 良子伯母さんは装飾品を身につける気はないらしい。こういう面は真理と共通する。
 佐伯警部の自宅があるここ竹富地区から長野駅周辺の繁華街まで、およそ二駅の距離がある。用がなければ、遠縁と言えど、良子伯母さんの足はノブチンのJewelry Pandoraから遠のいて当然だろう・・・。
「あたしだって、用がなけりゃ行かないさ。気にしなくっていいよ。
 ああ、ノブチンたちの店、いずれあたしが継ぐ事になったさ」
 真理が刺身を口へ入れた。話を報告程度に留めて七面倒くさい説明をしたくないらしい。
「あらっ!それはおめでとう!これで伸子さんも安心ね!
 伸子さん、ずっと気にしてたのよ。なにせ、子どもがねえ・・・」
 良子伯母さんは、これまでJewelry Pandoraから足が遠のいていた原因の一つを話し始めた。

 佐伯警部は良子伯母さんの話を無視するように、
「こんな時に済みません。ニュースを見たいので、少しだけ時間をください」
「ええ、どうぞ」
 佐介は佐伯警部が何か気にしているのを感じたが、その事に触れなかった。

 午後十時のTVニュースの音声が居間に流れた。
「次は事故のニュースです。
 先ほど午後九時過ぎ、関越自動車道下り線、藤岡ジャンクションで事故がありました。
 上信越自動車道との分岐点で乗用車が分岐点用点滅灯(ブリンカーライト)に激突炎上しました。
 この事故処理のため、関越自動車道下り線と・・・・から通行止めになっています。
 なお、乗車していた人の身元が判明しました。
 下田広治、神崎誠、木村浩三、峰岸亘の四名です。
 なお、事故車両は時速百六十キロ以上の高速で走行していたため、ハンドル操作を誤ったと・・・」

 居間から話し声が消えた。
「あら、嫌ねえ。スピードの出し過ぎよねえ。真理さんも、気をつけるのよ。
 あなた、運転するの、好きだったわよねえ」
「はい、気をつけます・・・」
 真理は言葉を失っているが、良子伯母さんは状況を知る由もない。
「特務官が手を下すと、あんな事も有りですか?」
 佐介はビールを取って佐伯警部にグラスを空けるように促した。
「大いにありえますね。不可能な事はないはずですよ・・・」
 佐伯警部がグラスを飲み干して、佐介の前に差しだした。謎めいた笑みが佐伯警部の頬に浮かんでいる。佐介は、差しだされた佐伯警部のグラスにビールを注いだ。
「ええっ、福ちゃんも、そんな事もするの?」
 佐伯警部の言葉に、良子伯母さんは驚いている。
「今のところ、私はしていませんよ。特務官の立場なら、そのような事も可能かも知れないと言う事です」
 佐伯警部は良子伯母さんにそう答えたが、ニュースで放送されている事故に、特務官が関係しているのは明かだった。そして、その事実を佐伯警部は知っていた。

 わかったからもういい。良子伯母さんが気づく前に、話を逸らせ!麻取たちの事を話すな!この際、事件と関係なけりゃあ、何だっていい・・・。
 真理から、良子伯母さんを気づかう思いが佐介に伝わった。すでに、真理は良子伯母さんと、アクセサリーについて話している。

「さあ、久しぶりに来たんですから、私に注いでばかりいないで、どんどん飲んでください」
 佐伯警部がビールを取って、佐介にグラスを空けるよう促している。
 佐介はグラスを飲み干して、佐伯警部の前へ差しだした。
 佐伯警部はすぐさま佐介のグラスにビールを注いだ。
「佐伯さんは釣りをしますか?」
 佐介はビールを飲みながら、戸倉温泉での釣りを思いだした。真理が教えてくれた、重りも浮きも付けない、エサの付いた釣り針と目印を付けた釣り糸だけの脈釣りだ。
「ええ、しますよ。最近はしてませんが、以前はよく釣りをしましてね。
 十四年前、休暇で奥山温泉へ行きましてね。温泉も入れるし、釣りもできる。期待して行ったんですが、近くの村で事件がありましてね。それ以来、釣りをしてませんね。
 それ以前は、自分で擬餌鉤を作りましてね。玉虫色に光る鳥の羽が、なかなか手に入らなくて、探しましたよ」
 思った以上に、佐伯警部は渓流釣りに詳しかった。
 その後、佐伯警部の釣り談義は二時間ほど続いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み