第53話 終焉:人間の中の人間

文字数 3,618文字

 朗らかなはずの自分がここまで気分を切り替えられずに泣き明かすとは日奈は思っていなかった。
 沙良の言葉に迷いが生じたというよりは沙良の言葉こそが事実であるという気分になった。

 自分はまだ具体的な恋愛をしていない。男性を本当に好きになるということがまだ分かってはいない。

 萱場を好きであるということは、萱場の沈み込むような部分をも愛することができるかということだ。
 夫婦だから当たり前ということじゃない。萱場と妙子が

をしている間柄であるということをひっくるめて丸ごと愛せるのかどうかということだ。

 妙子に負け、沙良にも負けたと感じた。女としての自分はまだ何も無いに等しいと思い知らされた。

 150kmという走行距離のノルマを課してはいたが、遅くとも今日の夕方にはどこかの駅から東京へ向けた電車に乗らなくてはならない。沙良に会って以後の精神と体の変調を考慮して距離の短縮をしようと朝少し遅い時間の出発時点に決めた。

 走り始めたが視線が下がっている。
 結果、呼吸の効率が下がり、心肺面での苦しさが早いタイミングで訪れる。
 そうすると足の筋肉や膝関節などが重くなり、それを過ぎると違和感となり、最後には痛くなる。

 痛くなると心肺面でも苦しみが増し、更に視線が下がる。悪循環はランニングの場合に限らずかようなプロセスを取るのだろう。

 日奈は萱場と出会い、鹿児島から東京に転校してきて実業団の練習に加わった。

 そして全日本のミックスダブルスでオリンピックの切符を掴み、萱場と共に苦しみ抜きながら銀メダルを獲得した。

 日奈は自分がまだ10代だけれども、老成したかのような、深い人間になったのだと錯覚していたように感じた。

 萱場と妙子とゆかりとの出逢いによって。

 成長はしているはずだ。
 けれども、人間が本当に救われたいと切に願うのは成長の瞬間ではあり得ない。
 むしろ退廃の時だろうと今になって日奈は感じていた。
 そして、こんなことを考えながら足裏のプロネーションを意識しつつランしていた。

『妙子さんが娼婦でなかったと誰が言い切れるの? タイスケさんが男女の間の事柄についてもストイックだって誰が言い切れるの? ゆかりちゃんが真っ直ぐに幸せに育っていくと誰が断言できるの?』

 徐々にストライドが狭まる。
 ピッチも落ちる。

 とうとう、止まってしまった。

 そのまま、まっすぐ水平線の向こうを覗こうとした。

 日奈は自分が今立っている、内航タンカーが着岸しようとしている岸壁から太平洋を見渡した。人工の岸に徐々に近づいてくる2,000トンのタンカーが、エンジンを停止した後の慣性でゆっくりとコンクリートと、緩衝として設置されているタイヤやゴム板をギギ、と軋ませ、ぴったりとほぼ隙間なく着岸した。

 日奈がふっと右に視線を向けると、ひとりの男の子がタンカーの左舷をまっすぐ見つめて立っていた。
 多分、園児ぐらいの年齢。
 白地にやっぱり白のウミネコの絵がプリントされたTシャツとジーンズ、それと素足にデッキシューズ。

 日奈と男の子は距離を置いて視線を船に向けたまま、会話を始めた。

「ねえ。キミ、名前は?」
「タイスケ」
「へえ・・・わたしの知ってる人と同じ名前だね。ここで何してるの?」
「海を見てるんだ」
「でも、船が邪魔で見えないでしょう」
「見えるよ。タンカーのブリッジの後ろに空が見えるでしょう? 地球は丸いから空と海は繋がってるんだ。僕が空を見てるつもりでも、それは海なんだよ」
「わたしにはよく分かんない」

 日奈はタイスケと名乗る男の子が言うように視線をずらさずにタンカーのブリッジの背後にある空を見た。
 焦点をぼやかすとその左右の景色もぼんやりと目に入る。確かに水平ではなく湾曲している。

「おねえちゃん。そのまま真上を見て」

 タイスケに言われるまま顎を上げ、丸まっていた背中を反らせて顔を天空に対して水平にする。

 ちょうど雲の配置が良かった。だから分かった。

「ドームになってる!」
「ふふ。おねえちゃん、元々ドームなんだもん、地球って」

 いく筋もの雲が天空に丸い円を描くような形で漂っていて、プロ野球のドーム球場の天井の透過度を高めたような状態になっている。

 わたしたちは結局ドームの中であくせく生きてるんだ。

 日奈はそう思い至った時、不意にタイスケに質問した。

「ねえ、タイスケくん。上の名前は?」
「タカギ」
「タカギ・タイスケくんか。わたし佐倉 日奈」
「知ってるよ。銀メダルの日奈ちゃんだ」
「なーんだ。バレてたんだ」
「ねえ日奈ちゃん。悲しいことばかりじゃないよ」
「え」
「記者会見、見てたよ。『タイスケさん』が好きなんでしょ? でも、奥さんも子供もいるもんね。フリンになっちゃう」
「タイスケくんは不倫て分かるの?」

 タイスケはうん、と頷いた。

「僕のお父さんとお母さんはフリンでリコンしたんだ。だから僕はフリンが嫌いだよ」
「そうなんだ・・・」
「でも、僕も悲しいことばかりじゃないよ。だって、海を見るとさ、僕のお父さんもお母さんもバカだな、って思えるんだ。これっていけないこと?」
「いけなくない」

 日奈は今度はタイスケの方に向き直って答えた。

「だって、海を見たら本当のことがわかったんでしょ? タイスケくんの悲しむことをしたお父さんとお母さんは、キミの言う通り、バカなんだよ」
「ははっ。お父さんもお母さんもバカだ。好き同士なくせに嫌いだって言ってるもん」
「ほんとだね。好きなのに嫌いなんて、タイスケくんのお父さんとお母さんはバカだねー」

 バーカ、バーカ、お父さんのバーカ、お母さんのバーカ、とデタラメなメロディをつけて2人して歌った。

「タイスケくん、もう行くね」
「うん。ねえ、日奈ちゃん。また会える?」
「会って欲しい?」
「うん」
「どうして?」
「だって、日奈ちゃんかわいいから」
「わ。ありがとう。じゃあ、も一度会おうっていう約束しよっか」
「指切り?」
「ううん。こうするの」

 日奈はしゃがんで目線をタイスケの高さに合わせた。そのままきゅっ、と抱きしめて、タイスケの頰に口づけし、軽く、ちゅっ、と音を立ててあげた。

 ・・・・・・・・・・・

 日奈が南アフリカから帰国した萱場に再会したのはオリンピックの閉幕から3ヶ月経ってからだった。
 萱場の再就職先は横浜にある小さな船舶代理店だった。足を引きずりながらしか歩行できず、内臓のダメージから長時間の労働も困難な状態なので、変則の勤務体系を取りながらの事務作業が萱場の新しい仕事だった。

 港の一角にある狭い事務所へ、アポを取らずに日奈は訪問した。

「タイスケさん」
「日奈か・・・」

 潮風がバースの前で立ったまま見つめ合う2人の頰を乾燥させる。
 萱場らしく仕事の話で近況を報告した。

「今、通関士の資格を勉強中だ。なんだかバドミントンをしないと頭の回転も鈍ったみたいで暗記もできないな」
「ふふっ。タイスケさんにはややこしいフォーメーションをいっぱい叩き込まれましたからね」
「日奈はほんとに勉強家で努力家だよ。どうだい? バドミントンは着実に上達してるかい?」
「はい。もうタイスケさんに頼れないんだ、って思うともう必死ですから」
「すまないな。何も言わずに会社まで辞めちゃって」
「ううん、そんな。でも、やっぱり寂しいです」
「好きな男はできたかい?」
「へへ。まあ」
「ほんとか!? どんなヤツだ」
「タイスケさんよりも男前ですよ」
「ほう」
「人間もできてますし」
「そうか。じゃあ、俺も安心だ。日奈」
「はい」
「幸せになってくれ。日奈が幸せになれば今度は日奈は周りの人たちを幸せにする。キミはそういう人間だ」
「嬉しいです・・・」
「俺は仕事に戻らなくちゃならん」
「はい。タイスケさん」
「うん」
「さよなら」
「ああ。さよなら・・・」

 日奈が結婚するのは22歳の時。
 ミックスダブルスではなく、女子ダブルスで世界ランク1位になった年。
 相手はバドミントン選手ではなく、東城トランスポート、商船部門の同僚の男性。職場結婚だった。

 日奈はほどなくして第1子を出産。女の子。名前は『さゆり』

 萱場家に何度か連絡を取ろうとしたが、LINEのアドレスもいつの間にか変更となり、住所も追えなくなった。

 結婚によって家庭人としての幸せも掴んだ日奈だったが、手をつなぐ母親の横顔が時折この上ない寂しさに包まれている様子に幼いながらもさゆりは胸を痛めていた。

 日奈は萱場よりも長く現役として活躍し、選手としての引退は40歳の時。そのストイックで闘志あふれるバドミントンへの姿勢はバドミントンに賭ける多くの少女たちを鼓舞し続けた。

 30代の半ばからは既に選手兼指導者として活躍しており、後に東城トランスポート女子バド部の監督に就任する。
 厳しくも朗らかに選手たちとバドミントンと勝負と世のすべてのアスリートを愛する姿で、周囲の人たちを微笑ませ続けた。そういう人間だった。

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