第51話 男の中の男

文字数 5,456文字

 走ろう。

 そう日奈は純粋に計画を立てた。

 アフリカで大西洋とインド洋がぶつかり合う凄まじさを見た身となってはちょっとやそっとの旅行では以前のようなダイナミックさを感じられなくなった。
 日奈は、だから、移動手段を自分の四肢そのものとすることによって、旅というものの感覚を少しでも新鮮に保ちたいと考えた。

 とはいえ日奈の本分は高校生としての勉学であり、また直接給与という形の報酬は得ていないけれども、寮費・食費・水道光熱費といった生活の基盤を東城トランスポートから全額支給されている実業団アスリートである以上、時間というものの制約条件を受ける。

 だから、3連休を使って、走って移動する小旅行、いや、『小冒険』を計画した。

「日奈〜。帰ってすぐまたトレーニングなんて、ストイック過ぎるよー」

 久しぶりの合羽(あいば)高校でのクラスメートたちとのやりとりに日奈はきっぱりと言い切った。

「トレーニングじゃないよ。レジャーだよ」
「走るのが?」
「うん」
「信じらんなーい」

 日奈は体育祭のbye-byeリレーで死力を尽くしあった陸上部の野田にアドバイスを求めた。

「野田くん。3連休使ってちょっとランニングで遠出しようと思って。注意点とか教えてもらえたらなーって」
「いや、走ることそのものに関しては佐倉さんに俺からアドバイスなんてないよ。ただ、どんなコースを走るの?」
「漠然と海岸沿いに走ろうかな、って。悪路じゃなくって一応アスファルトの上を」
「距離は?」
「目安150km。神奈川の方に向かって南下する感じで。舗装路が途切れるエリアでは柔軟に公共交通機関を使って走れるポイントからまた走ろうかな、って」

 野田は日奈のアスリートとしての身体能力を考えれば3日間で150kmというのは比較的リラックスして走れるファン・ランニングの範囲だと判断した。ならば自分からアドバイスできるのは走ることから発生するであろう小さなトラブルに関することで事足りると考えた。

「佐倉さん。給水はこまめにね。水のボトルが重くて気にかかるんだったら小さめのものにしてその代わりコンビニの位置をスマホでちゃんと確認しながら給水ポイントを確保してね」
「うん。さすが走りのプロ!」
「いや、この辺は一般論だよ。それで、ワセリンとか持ってる?」
「ワセリン?」
「うん。あ、そもそもワセリンって分かんないか。えーと。ローションっていうか、保湿のためのワックスみたいなやつ。ドラッグストアにも売ってるよ。それをね、足指とか足裏とかマメになりそうなところにきちんと塗って走ってね」
「あ、なるほど。靴擦れ防止みたいな感じだね」
「うん。それとね・・・えーと、その、なんていうか。胸にも塗ってね」
「胸? 胸ってどっかこの辺?」

 日奈が持ち上げるほどもない大きさの自分の胸の下あたりを両手でワシっ、と掴むようにしてゆさゆさ揺らす真似をする。

「いや・・・そこじゃなくって、その。なんていうか・・・先っぽというか」
「ああ、乳首ね」
「いやその・・・フルマラソンぐらいの距離を走るとね。まあ、その胸の部分がTシャツに擦れて血が出たりとかするから・・・」
「なるほど。わたしの乳首のこのポチッとしたところにワセリンを塗りたくると」
「ごめん・・・」

 謝る必要は無い場面なのだが、野田はもごもごと日奈に詫びた。

「で、佐倉さん。宿泊は?」
「野宿、で」
「え!?」
「シュラフとか持ってけばなんとななるかなー、って」
「だ、ダメ! 絶対ダメだよ!」
「どうして」
「さ、佐倉さんは女の子だよ!?」
「? それが?」
「な、何かあったらどうするの!?」
「何か、って?」
「いや・・・その、取り返しのつかないこととか」
「事故とか、急に体調崩したりとか? それは別に男女共通でしょ?」
「う・・・とにかく、ダメだよ!合宿行った時のビジネスホテルとか知ってるからなんなら俺が予約してあげるよ」
「わ。野田くんって親切。でもどうしてそこまで心配してくれるの?」
「や・・・だってもし佐倉さんに何かあったら」
「うんうん」
「・・・次の大会、とかみんな困るでしょ」

 野田は本音を飲み込んだ。

 ・・・・・・・・・・

 野田から受けたアドバイスのポイントは押さえつつデイパックを背負いキャップにサングラス、これも野田からのアドバイスで膝下のランニング用レギンスを装着して日奈は土曜の朝に寮を出発した。

「さ、乳首にワセリンも塗ったし」

 走り出した時のつぶやきを犬の散歩をする中学生男子が聞いて、目をぱっちりとさせ、何度も日奈の方を振り返っていた。

 天候はよし。
 宿泊先も確保。野田が紹介してくれたビジネスホテルをとりあえず目的地の目安としてその日の距離を走る、という行程とした。
 本当は日の明るい内に行けるところまで行って野宿、という最初のプランだったのだが、無理なく走り切ることができるように1日ごとのゴールを安全地帯に確保しておいて体のケアと休息をとるという野田の提案が合理的だと腑に落ちたのだ。

 それに、今回のランニングの本当の目的を日奈は無意識の内に自覚していた。

 内航タンカー乗りで洋上の生活者だった萱場の父親と会うために寄港に合わせて京浜地区の港へ母親と共に出向いて行った萱場の幼少期。
 そういう海に面した場所の雰囲気をなんとなく感じてみたいと日奈は漠然と思っていたのだ。

 初日は取り敢えず鎌倉まで走ることを目標にした。

「うーん。生きてる、って感じするなー」

 日奈は腕を折りたたんで胸のあたりでコンパクトに旋回させるフォームでストライドを大きめに、ピッチはゆっくり目に走った。
 これも野田のアドバイスだ。長い距離を走るならこの方が自分の体にもしっくりきた。

 景色を見ながら、大体6分/kmぐらいのペースで走った。鹿児島での聖悟女子校時代の走り込みと比べればこの程度は日奈にとってスロージョグの範囲だった。
 都内を出るまでは地下鉄やバスも併用しながら出来るだけ早く海辺近くのロードへ出るコースをたどった。走る距離は野田愛用のGPSウォッチできちんと切り分けて確認した。
 この程度の運動ならば日奈はほとんど汗をかかないけれども額やうなじに若干にじむ程度には出る。
 日奈は自分の汗や匂いが周囲の乗客に不快感を与えていないか心配したけれども、今のランニング人気もあってランナーに寛容な雰囲気を車内でも感じた。

 直接海に面した道路はなかなか選べななったけれども、海の香りが漂ってくる雰囲気の道を日奈は視線を上げ、胸を張って走る。
 呼吸は真っ直ぐに伸びた気道をすとんとスムーズに下りていき、心肺も筋肉も関節も走り初めと変わらない感触でいた。いや、むしろ体の中の細胞が目覚めて脳も精神もクリアになっていく感覚だった。

「さ、ごはんごはん、っと」

 神奈川に入り横浜も通り過ぎてこれからようやく海岸沿いをメインに走れるエリアに差し掛かったたところで日奈はコンビニに入り、おにぎりを買った。
 イートインの道路側に面した窓から外を見ながら食べていると、一台のロードバイクが駐車場を滑るように横切ってきてコンビニの前に停まった。ヘルメットにサングラスをかけている。男性にしては肩幅がやや狭く上半身はそれほどでもないけれども、サイクリストの太腿やふくらはぎは見事にビルドアップされており、まだ若いんだろうと思った。
 ペダルのビンディングをカチャっと外して降りようとしていた。

 今時はみんな鍛えてるんだなあ、と思いながら日奈は何気なく午後の天気を気にかけて空を見上げると、ブーメランのような黒い形が上空に目に付いた。

「トンビだ」

 日奈が優雅に旋回しているのがトンビだと認識した途端、その影が形を変えた。

 横に広がっていたシルエットが、急にその面積を狭め、羽の角度が鋭角になった。
 墜落する?
 日奈はそう思ったが、違うのだとすぐ気付いた。
 くるっ、とトンビは自分の意思で切り揉むような体勢をとったからだ。
 では、なんなのか、と考えると、急降下だ、と判断できた。
 トンビは猛禽類だ。鳥としては食物連鎖の上位にいる生物が自己最速のスピードでダッシュをかけるときの目的は逃げることではないはずだ。
 ならば、襲う動作なんだろう。

 そうぼんやり刹那に思考をめぐらした日奈の視界には、斜め鋭角の直線軌道に乗っかってレーザー光線をなぞるように急降下するトンビと、その直線の延長線上に、母親に手を引かれてコンビニの電子レンジで温めてもらったミートパイの小袋を両手に抱えた小さな男の子がいた。

「ああっ!!」

 突然大声を立ててガタガタっと椅子を倒して立ち上がり自動ドアへとダッシュする日奈の姿に、店員も店内の客も全員びくっ、とした。けれどもコンビニの駐車場とその上空で、人間の子供とそれ対しては明らかに弱肉強食の世で強者であろうトンビとが生命のやりとりに関わるシーンを演じようとしているなどと、誰も気づくはずがなかった。仮に獲物がミートパイだったとしても上空数十メートルから砲弾のように滑空してくる筋肉と嘴とが激突すれば子供は死ぬ。

 日奈の視界ではようやく日常の中に現れた異常事態に気付いた母親がとっさに男の子に覆いかぶさるように抱きかかえようとしていた。
 だが、自分自身も生きるために戦っているトンビはそんなことに構わず母子の上に自身の全力のアタックをかける体勢を崩しはしない。

「コラあっ!!」

 日奈が自分の体はもう届かないと判断し、声だけでも最大の音量でトンビを威嚇しようと叫んだ時、ぶん、と母子の上に腕が繰り出された。

 サイクリストの右腕だった。

 トンビはその右腕を狙う、というよりは避けきれずに脚から激突した。

 日奈はそのよく日焼けした褐色の腱鞘のあたりが爪でえぐれるのをスローモーションのように目撃した。

 日奈は転びそうになりながら自分のデイパックを引っ剥がしてサイクリストをかばうようにトンビの前に躍り出た。

「この、このっ!!」

 トンビはまだ日奈たちの頭上低空にホバリングするように浮かんでいたので、攻撃の危険を感じながらもデイパックをブンブン振り回して威嚇した。
 躍り掛かってくるところを何発か羽に当たったところでようやくトンビは羽ばたきを交えながら上空高くに撤退していった。

 ふう、と一息する間もなくサイクリストを見遣る。

 えぐられた部分から血がドボドボと出ていた。日奈は泣きじゃくる男の子を抱え込んで呆然としている母親に大声をかけた。

「すみません、救急車を!」

 母親はまだブルブルと震えて気がつかない。日奈はもう一度、今度ははっきりと怒鳴った。

「救急車! 早くっ!」

 母親が電撃に打たれたようにスマホの画面をタップしている隣で日奈はデイパックからタオルを取り出した。

 しゃがみこんで左手で自分の腕をぐっと掴んでいるサイクリストのその左手にそっと触れてずらすよう促し、代わりに日奈はタオルで腕をしばり止血を試みた。

 おそらく自転車に必要な筋肉なのだろう。タオルできつく締めるその右腕も下半身と同様に引き締まっていることが分かった。萱場の節制も思い起こしながら、日奈が思わずつぶやく。

「やっぱり男の人は凄いですね・・・」
「? ワタシ、女デスけど?」

 そう言ってサイクリストが左手でヘルメットを脱ぐと、ブロンドの髪がぶわっ、と日の光にキラキラと輝いた。
 サングラスも外すと瞳はグリーンで、とても美しい、まぎれもない女性だった。

 ・・・・・・・・・・・

 彼女の名前はリサ。オーストラリアからの留学生で大学の自転車部に所属し、日本の女子競輪への参戦を目指しているという。
 なんと今日は早朝から既に100kmを超えるロードの練習をこなし、小休止しようとこのコンビニにピットイン・するところだったのだという。

 日奈は南アフリカで鍛えたカタコトの英語力を存分に発揮(?)し、救急車が来るまでの短い時間、リサとコミュニケーションした。
 日奈が衝撃だったのはリサが野生動物、しかも猛禽類相手にむき出しの右ストレートを繰り出したことだった。

「アア。ヘルメットで殴ロウかとも思ったケド、間に合わないカラ。キュウソネコカミ? はは、それはバンドか。咄嗟咄嗟!」
「すごい・・・brave!」
「Thank you! でもアナタも勇者ね。それに、アナタもいい筋肉シテル。もしかして、athlete?」
「はい。バドミントン・プレイヤーです」
「ん? Oh! I know you ! サクラじゃナイ!? 銀メダル、おめでとう! カヤバは大丈夫?」
「はい。一命を取り止めました」
「What イチメイ?」
「あ。彼は死にませんでした」
「Oh・・・それほど頑張ったノネ。彼はサムライね。サクラ、アナタもサムライ・ガールね」
「Great honor. You too!」

 救急車が到着して彼女は一応ストレッチャーに乗せられて搬送された。大学の自転車部の監督に連絡がついて、彼女の自転車は後で回収しに来るという。

「See you サクラ!」
「See you リサ!」

 2人は笑顔で手を振りあって別れた。

 日奈は午後のランを再開しながら考え込んでいた。

「ああ・・・タイスケさんみたいな『男の中の男』に出会ったと思ったらまさか女の人だったなんて・・・でも、すっごいいい気分。走ろうって決めてよかった!」

 無意識に視線が上がり、胸を張り、骨盤からハムストリングス、ふくらはぎ、足指まで快感なぐらいの素晴らしいフォームで日奈は走り続けた。
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