第43話 美しいひとときを今しばらく

文字数 1,634文字

 中継の動画用カメラが並ぶ。

 手に静止画用の一眼レフを構えるプロ・アマのカメラマンたち、組織に属する者、フリーのジャーナリスト達。

 萱場は試合とは関係のないことを考えていた。

 今、このアリーナに集っている観客、スタッフ、報道陣、フリーのライター。

 あるいは全世界で中継を観ているオーディエンス。

 その中には無為に駆られ、オリンピックという眩い舞台を恨めしく思いながら観ている夢叶わぬひとたちも大勢いるだろう。

 自分がこれからやるのはバドミントンのミックスダブルス、オリンピックの決勝戦だ。

 だが、それが結局は何の意味があるというのか?

 確かに、激しいラリーや自分たちの気合いを観れば勇気を貰えるという人もいるだろう。
 日奈の姿は多くの若い子たちに希望と朗らかさも与えるだろう。

 だが、今、病に臥せり死を待つ人たちの命を、自分の試合で救えるというのか?

 災害で最愛の人を失った人たちの心を救えるというのか?

 人種差別のようないわれのない虐げを受けるひとたちを救えるというのか?

 つい数日前、「少しお前をいじめたい」と愛娘に銃を突きつけられた、それと同義の切迫感でもって、学校や職場でいじめに苦しむ人たちを救えるというのか?

 萱場の中で答えは出ない。

 自分たちがこれからやるのは、シャトルをラケットで打ち合う競技。

 突き詰めていけばそれでしかない。

 ならば、マイク・リーもマーメイ・チェンも、日奈も、自分も、これからのひと時は純粋にそのことに没頭しよう。

 オリンピック選手たることを誇りに思わないことにしよう。

 機能美、という言葉が自分は好きだ。

 自分が仕事で駆るタンクローリーは、安全という絶対基準と作業の効率性を追求した仕事のためのマシンだ。

 父親たちが操舵していた2千トンの内航タンカーも、航海と石油のローディング・アンローディングの絶対安全をそれこそ海の神に誓うための究極のマシンだった。
 子供の頃、京浜の埠頭に着岸したそのフォルムを観て、美しい、と感動した記憶がまざまざと蘇った。

 日奈もアスリートとしての機能美がほぼ完璧だ。

 決して恵まれた体格ではない。

 けれどもその小さな体のパーツ一つ一つのバランスが完璧で、特に華奢に見えるその骨とインナーマッスルが徹底して鍛えられている。
 これは日奈ひとりの力では完成しない。
 まず、ご両親の健康な体と日奈が赤子の頃からの食事、日常生活の歩行姿勢の指導からすべての成長過程が自然な内にアスリートとしての体を作り上げる基礎となっている
 加えてメンタルというか心の部分がないとこのマシンは稼動しない。
 日奈の性根を作り上げたのは祖父母・両親・弟・その他これまでの指導者やチームメイトたちとのポジティブ・ネガティブなやりとりすべて含めたプロセスの賜物だ。もっと言えば、祖父母の上の先祖たちの志向も影響しているだろう。

 こうして出来上がった日奈というアスリートの機能美は、彼女の所与の条件の中では最大限の仕上がりだ。

 少女としての美を褒めてやることに慣れない自分が少し日奈には悪いと思うが。

 そして、これから、おそらく世界一であろう、マイク・リーとマーメイ・チェンという究極の機能美と競り合う。

 自分たちはオリンピック選手ではあるが、それは自分たちの本質ではない。

 自分たちの本質は、必ずしも本意でない仕事に対しても誠実に取り組む勤め人たちと同義。

 病に苦しみながらも瞬間の生きる美を実現するひとたちと同義。

 虐げられながらも、美しい詩や音楽を心に抱くひとたちと同義。

 さあ、ならば自分もこれから始まるバドミントンという競技種目の実戦の中で、その機能美を実現しよう。

 オリンピック選手ではなく、ただひとりのプレーヤーとして、シャトルを最高打点で捉え、より速いフットワークを目指し、この35歳の身体を燃焼させよう。

 タンクローリーとタンカーが疾駆し、ポンプで荷役をするように。

 萱場は意識して、これまでにない柔和な笑みを浮かべた。

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