第48話 人生僅か50年
文字数 2,085文字
力と技。
プラス、精神力、胆力、そして、人格。
誰がこの展開を予想しただろうか。
男子シングルス世界ランク1位に君臨し続け、この南ア大会でも既に1個目の金メダルを獲得している世界最高のプレイヤー、マイク・リー。
彗星のごとく現れた同じく中国の、僅か17歳の天才少女マーメイ・チェン。
同じく17歳で凄まじい闘争心とそれを制御する術を萱場から学んだ大和撫子、佐倉日奈。
そしてもはや終わった選手であったはずの35歳、古武士のようなアスリート、萱場泰助。
4人がバドミントンミックスダブルスオリンピック決勝戦というこの上ない舞台で死闘を繰り広げている。
惜しげのないプレー。
いや。
全力を尽くさずに通過できる局面が一打もないのだ。
リー・チェン組は大げさではなく、汗ひとつかかずに決勝まできた。
が、その2人は既におびただしい汗をかき、ワンプレーごとに呼吸を整えながらでないとラリーを続けられない。
既に、というのはまだ点数的には1セット目の中盤でしかないという意味だ。
だが、この時点で試合開始から1時間以上経過している。
ワンプレーのラリーが長く、緊張の持続が強いられる展開だ。
その起因は、日奈の神がかり的な集中力とプレーの切れ味だ。
だが、萱場は理解していた。
それはもはや神がかりのこの試合だけのスーパープレーではなく、日奈自身がこれまでの修羅場で積み上げてきたものをアベレージに発揮できる域にとうとうここへ来て到達したということだ。
おそらく、日奈の人格そのものも17歳の今日の時点で完成されつつある。
熱く、けれども穏やかでしなやかで、かつ朗らか。
タイプは違うが、妙子にも似ている、と萱場は今になって思う。
会場中が静寂とどよめきを繰り返す中、日奈だけが萱場の異変を感じた。
「タイスケさん、汗一滴も出てませんね」
「ん・・・ああ」
「いつもみたいに我慢してるんじゃないですよね」
「それは・・・」
「タイスケさん」
日奈は目を疑った。
あの萱場が眼球を潤ませている。
「日奈。最初で最後の弱音を吐かせてくれ」
「・・・はい」
「さっきのプレーで、ぶちっ、ていう音がふくらはぎの辺りでした」
「・・・・」
「不自然なフェイントを使い出した序盤からずっと痛かった。寒いんだ。背中がゾクゾクして今も足がガクガクしている」
「棄権しましょう」
萱場と日奈は見つめあった。
予想はしていたが、萱場は・・・
「いやだ」
「タイスケさん・・・」
「絶対にいやだ」
常に冷静で闘志を内に秘め、合理的でしかも努力を努力と思わない。
そんな萱場の右目尻からつたった一筋の液体は、汗でない以上涙でしかあり得なかった。
「わかりました・・・」
「日奈、すまん・・・」
「弱音じゃないです」
「・・・・」
「タイスケさんのは弱音じゃないです。自分の状態をパートナーであるわたしに的確に伝え、最善を尽くすための、とても合理的な判断です」
初めて日奈の方から萱場の背中をぽんぽん、と叩いた。
「尊敬します、タイスケさん」
ほんの30秒足らずの2人の時間。
これから向かう、終焉への覚悟。
サーバーであるマーメイに、レシーバーの萱場はすうっ、と完全に脱力した姿勢で立つ。
上段の構え。
そう呼ぶべき、ラケットに厳粛な空気が漂う出で立ち。
マーメイが静かにモーションに入る。
カシュン!
マーメイの素晴らしいスピードの手首の稼働。
まったく予測不能の完璧なロングサービスに、だが、萱場も捕食の動作に入る昆虫のような反応速度を見せる。
後方へのフットワーク・ダッシュで、更に後方へ飛び退く。
「きええっ!」
後ろにジャンプする間際、剣士のような必死の気合いで右足を踏み切った。
滞空時間は刹那。
その点の時間に、萱場はすべてのアドレナリンを爆発させ、掛け声する暇すらもどかしく、電撃のようなスウィングをした。
打撃音すらなかった。
マイク・リーとマーメイ・チェンがまったくの無反応のど真ん中にシャトルが着地し、そのまま滑り抜けていった。
『初速 501km/h』
電光掲示板にスマッシュの速度が表示されるとアリーナが総立ちになった。
うおーん、という轟音のような拍手と歓声が観客全員の鼓膜をびりびり震わせ、麻痺させる。
萱場は、コートで仰向けに倒れていた。
足だけでなく、上半身もビクビクと痙攣している。一目で危険な状態だとわかった。
妙子もその様子に気づいたが観客の興奮が一向に止まず、動きが取れない。
「タイスケさん!」
日奈は駆け寄ったが、萱場は白目をむき、今になって大量の汗でコートを濡らしていた。
「担架を!」
呆然とする日奈を突き飛ばす勢いで救急隊が萱場をさらうように運んで行った。観客席もようやくどよめきからざわめきへと移る。
主審が日奈に歩み寄ってきた。
「ミス・サクラ。棄権しますね?」
日奈は微かな音量の日本語で答えた。
「・・・いやです」
「What?」
「I・do・not・stop・the・match!」
「oh・・・・」
「I・do・continue!」
・・・・・萱場・佐倉組、日本人初のミックスダブルス銀メダル獲得。
プラス、精神力、胆力、そして、人格。
誰がこの展開を予想しただろうか。
男子シングルス世界ランク1位に君臨し続け、この南ア大会でも既に1個目の金メダルを獲得している世界最高のプレイヤー、マイク・リー。
彗星のごとく現れた同じく中国の、僅か17歳の天才少女マーメイ・チェン。
同じく17歳で凄まじい闘争心とそれを制御する術を萱場から学んだ大和撫子、佐倉日奈。
そしてもはや終わった選手であったはずの35歳、古武士のようなアスリート、萱場泰助。
4人がバドミントンミックスダブルスオリンピック決勝戦というこの上ない舞台で死闘を繰り広げている。
惜しげのないプレー。
いや。
全力を尽くさずに通過できる局面が一打もないのだ。
リー・チェン組は大げさではなく、汗ひとつかかずに決勝まできた。
が、その2人は既におびただしい汗をかき、ワンプレーごとに呼吸を整えながらでないとラリーを続けられない。
既に、というのはまだ点数的には1セット目の中盤でしかないという意味だ。
だが、この時点で試合開始から1時間以上経過している。
ワンプレーのラリーが長く、緊張の持続が強いられる展開だ。
その起因は、日奈の神がかり的な集中力とプレーの切れ味だ。
だが、萱場は理解していた。
それはもはや神がかりのこの試合だけのスーパープレーではなく、日奈自身がこれまでの修羅場で積み上げてきたものをアベレージに発揮できる域にとうとうここへ来て到達したということだ。
おそらく、日奈の人格そのものも17歳の今日の時点で完成されつつある。
熱く、けれども穏やかでしなやかで、かつ朗らか。
タイプは違うが、妙子にも似ている、と萱場は今になって思う。
会場中が静寂とどよめきを繰り返す中、日奈だけが萱場の異変を感じた。
「タイスケさん、汗一滴も出てませんね」
「ん・・・ああ」
「いつもみたいに我慢してるんじゃないですよね」
「それは・・・」
「タイスケさん」
日奈は目を疑った。
あの萱場が眼球を潤ませている。
「日奈。最初で最後の弱音を吐かせてくれ」
「・・・はい」
「さっきのプレーで、ぶちっ、ていう音がふくらはぎの辺りでした」
「・・・・」
「不自然なフェイントを使い出した序盤からずっと痛かった。寒いんだ。背中がゾクゾクして今も足がガクガクしている」
「棄権しましょう」
萱場と日奈は見つめあった。
予想はしていたが、萱場は・・・
「いやだ」
「タイスケさん・・・」
「絶対にいやだ」
常に冷静で闘志を内に秘め、合理的でしかも努力を努力と思わない。
そんな萱場の右目尻からつたった一筋の液体は、汗でない以上涙でしかあり得なかった。
「わかりました・・・」
「日奈、すまん・・・」
「弱音じゃないです」
「・・・・」
「タイスケさんのは弱音じゃないです。自分の状態をパートナーであるわたしに的確に伝え、最善を尽くすための、とても合理的な判断です」
初めて日奈の方から萱場の背中をぽんぽん、と叩いた。
「尊敬します、タイスケさん」
ほんの30秒足らずの2人の時間。
これから向かう、終焉への覚悟。
サーバーであるマーメイに、レシーバーの萱場はすうっ、と完全に脱力した姿勢で立つ。
上段の構え。
そう呼ぶべき、ラケットに厳粛な空気が漂う出で立ち。
マーメイが静かにモーションに入る。
カシュン!
マーメイの素晴らしいスピードの手首の稼働。
まったく予測不能の完璧なロングサービスに、だが、萱場も捕食の動作に入る昆虫のような反応速度を見せる。
後方へのフットワーク・ダッシュで、更に後方へ飛び退く。
「きええっ!」
後ろにジャンプする間際、剣士のような必死の気合いで右足を踏み切った。
滞空時間は刹那。
その点の時間に、萱場はすべてのアドレナリンを爆発させ、掛け声する暇すらもどかしく、電撃のようなスウィングをした。
打撃音すらなかった。
マイク・リーとマーメイ・チェンがまったくの無反応のど真ん中にシャトルが着地し、そのまま滑り抜けていった。
『初速 501km/h』
電光掲示板にスマッシュの速度が表示されるとアリーナが総立ちになった。
うおーん、という轟音のような拍手と歓声が観客全員の鼓膜をびりびり震わせ、麻痺させる。
萱場は、コートで仰向けに倒れていた。
足だけでなく、上半身もビクビクと痙攣している。一目で危険な状態だとわかった。
妙子もその様子に気づいたが観客の興奮が一向に止まず、動きが取れない。
「タイスケさん!」
日奈は駆け寄ったが、萱場は白目をむき、今になって大量の汗でコートを濡らしていた。
「担架を!」
呆然とする日奈を突き飛ばす勢いで救急隊が萱場をさらうように運んで行った。観客席もようやくどよめきからざわめきへと移る。
主審が日奈に歩み寄ってきた。
「ミス・サクラ。棄権しますね?」
日奈は微かな音量の日本語で答えた。
「・・・いやです」
「What?」
「I・do・not・stop・the・match!」
「oh・・・・」
「I・do・continue!」
・・・・・萱場・佐倉組、日本人初のミックスダブルス銀メダル獲得。