第39話 アフターケアこそ戦い
文字数 2,005文字
三回戦が終わり、インタビューも終えると夜の10時を回っていた。
翌日の準決勝開始まで24時間を切っている。
本当はこのままホテルに戻ってすぐにベッドに入りたいぐらいの疲労だったが、これからが本番だ。
「日奈、行くぞ」
「はい」
萱場と日奈が向かったのはメインアリーナの一角にあるトレーニングルームだ。
「湊さん、お願いします」
「おうおう、よくぞ勝ちなさった。後はワシに任せなさい。まずはカヤさんからだ。日奈ちゃんはその間アイシングしておいで」
このざっくばらんな話し方をする老人はこう見えても東城トランスポートと契約しているトレーナーだ。大学からスポーツ学部立ち上げの特任教授就任を要請されたが現場に立ち続けたいと断った職人肌。専門は筋肉・関節のダメージ回復。今回のオリンピックでは他の競技種目も含め、日本選手団に帯同して各選手のアフターケアにフル稼働している。
湊は萱場の体をほぐしながら感嘆の声を上げる。
「見事だ、カヤさん。いつ触ってもあんたの身体のしなやかさには恐れ入る。鍛錬と節制の賜物だ」
「ありがとうございます。ただ、今日はかなり無理をしました」
「『アレ』をやったんだろう」
「はい、やりました」
『アレ』とは、汗をかくのを我慢するという、萱場究極の心理戦の技術だ。
「カヤさん、そんなことをしていると命をすり減らすぞ」
「湊さん。できると分かっていることを出し惜しんで屍のように生きたくはありません」
「・・・あんたが戦国時代に生まれてたら、虎狼のような武将になってたろうよ」
湊の前では萱場は本音を吐く。静かに見える萱場の内面は、湊に向かって吐く言葉のままに照度の高い、燃えさかる一等星のような炎の光を放っていた。
「寝ててもいいぞ」
湊の言葉に甘え、萱場は眠りながら施術を受けた。関節をごりごりやられても目覚めないほど眠りに集中した。
湊はきっかり30分でケアを終えると、萱場を起こした。
「さ、後はアイシングだ。辛いだろうがバスタブで腰から下氷水に浸かるんだ」
「はい。今日は何分ぐらい」
「肉離れしてもおかしくないぐらいのダメージだった。30分我慢してくれ」
「きついですね・・・」
「闘う人間の宿命だ」
萱場と入れ替わりに日奈がトレーニングルームに入ってきた。
「うー、冷たかったー!」
「日奈ちゃん。今日は容赦せんからな」
「うわ。セクハラはやめてください」
「日奈ちゃんみたいなちびっ子にセクハラなぞせんわい。やるのはパワハラだ」
湊はそう言って日奈の肩の関節を、ゴキん、と鳴らす。
「いたたたた! ちょっ、タイム!」
「ラリー中にタイムなぞ通用せんよ」
そう言いながら湊は日奈に真面目に語りかける。
「日奈ちゃんよ、あんたの失速スマッシュは肩に大きな負担をかけるスウィングだ。自覚はあろう」
「はい」
「多用すると選手生命を縮めてしまうよ。あんたは若い。まだまだこれからなんだから」
「え、でも。自分の武器を使わずに負けちゃったら悔しくて生きてられません!」
「なんとまあ。日奈ちゃんもカヤさんと同じか。女武士だ」
萱場と日奈が湊のケアを受け終わったのが午後11時半。だがまだこれでも終わらない。
「ほら、しっかり食べてもらうからね」
今度はアリーナの中にある特設キッチンでやはり選手団に帯同している管理栄養士の田端が待ち構えていた。給食のお母さんというのがぴったりのベテランだ。
「田端さん、こんな夜中に食べたら却って体によくないんじゃないですか?」
「日奈ちゃん、水分も栄養分もエネルギーに変換して使い果たしたカラカラの体で眠っちゃったらどうなる?」
「うーん。ふくらはぎを痙攣したりとか」
「その通り。ちゃんと食事を摂って筋肉の回復をしておかないと、明日の準決勝で脚をつっちゃうわよ」
「日奈。田端さんの作ってくださるメニューは消化が抜群にいい。胃がもたれることはないから安心して食べるんだ」
「あらまあ。萱場さんから褒められるなんて女冥利に尽きるわね」
「えー。タイスケさんには妙子さんがいるんですよー」
「いいのいいの私だってダンナがいるしね」
「わー。やらしー」
冗談を言いながら遅い食事を終えたのが日付の変わった0時15分。
「日奈ちゃん、もしよかったらだけど、今日はわたしたちの部屋で一緒に寝ない?」
「え?」
「ものすごい疲労でしょうから体がもの憂くて眠りづらいと思うわ。わたしが眠るのを手助けしてあげるから」
「え。妙子さん、催眠術かなにかできるんですか?」
「まさか。古典的な技術よ」
その古典的な技術とは、子守唄だった。
一番最初に眠らされたのは、ゆかり。
ゆかりをトントンしながら萱場もいつの間にか寝入っていた。
日奈は部屋の天井を見上げながら妙子の歌声を聴いていた。
・・・滝の流れに笹舟一艘
・・・ゆらゆら流れて滝壺落ちる
・・・ぷかりと浮いたと思ったら
・・・次の滝までぷーかぷか
すー、すー
小さな子供のように、日奈も眠った。
翌日の準決勝開始まで24時間を切っている。
本当はこのままホテルに戻ってすぐにベッドに入りたいぐらいの疲労だったが、これからが本番だ。
「日奈、行くぞ」
「はい」
萱場と日奈が向かったのはメインアリーナの一角にあるトレーニングルームだ。
「湊さん、お願いします」
「おうおう、よくぞ勝ちなさった。後はワシに任せなさい。まずはカヤさんからだ。日奈ちゃんはその間アイシングしておいで」
このざっくばらんな話し方をする老人はこう見えても東城トランスポートと契約しているトレーナーだ。大学からスポーツ学部立ち上げの特任教授就任を要請されたが現場に立ち続けたいと断った職人肌。専門は筋肉・関節のダメージ回復。今回のオリンピックでは他の競技種目も含め、日本選手団に帯同して各選手のアフターケアにフル稼働している。
湊は萱場の体をほぐしながら感嘆の声を上げる。
「見事だ、カヤさん。いつ触ってもあんたの身体のしなやかさには恐れ入る。鍛錬と節制の賜物だ」
「ありがとうございます。ただ、今日はかなり無理をしました」
「『アレ』をやったんだろう」
「はい、やりました」
『アレ』とは、汗をかくのを我慢するという、萱場究極の心理戦の技術だ。
「カヤさん、そんなことをしていると命をすり減らすぞ」
「湊さん。できると分かっていることを出し惜しんで屍のように生きたくはありません」
「・・・あんたが戦国時代に生まれてたら、虎狼のような武将になってたろうよ」
湊の前では萱場は本音を吐く。静かに見える萱場の内面は、湊に向かって吐く言葉のままに照度の高い、燃えさかる一等星のような炎の光を放っていた。
「寝ててもいいぞ」
湊の言葉に甘え、萱場は眠りながら施術を受けた。関節をごりごりやられても目覚めないほど眠りに集中した。
湊はきっかり30分でケアを終えると、萱場を起こした。
「さ、後はアイシングだ。辛いだろうがバスタブで腰から下氷水に浸かるんだ」
「はい。今日は何分ぐらい」
「肉離れしてもおかしくないぐらいのダメージだった。30分我慢してくれ」
「きついですね・・・」
「闘う人間の宿命だ」
萱場と入れ替わりに日奈がトレーニングルームに入ってきた。
「うー、冷たかったー!」
「日奈ちゃん。今日は容赦せんからな」
「うわ。セクハラはやめてください」
「日奈ちゃんみたいなちびっ子にセクハラなぞせんわい。やるのはパワハラだ」
湊はそう言って日奈の肩の関節を、ゴキん、と鳴らす。
「いたたたた! ちょっ、タイム!」
「ラリー中にタイムなぞ通用せんよ」
そう言いながら湊は日奈に真面目に語りかける。
「日奈ちゃんよ、あんたの失速スマッシュは肩に大きな負担をかけるスウィングだ。自覚はあろう」
「はい」
「多用すると選手生命を縮めてしまうよ。あんたは若い。まだまだこれからなんだから」
「え、でも。自分の武器を使わずに負けちゃったら悔しくて生きてられません!」
「なんとまあ。日奈ちゃんもカヤさんと同じか。女武士だ」
萱場と日奈が湊のケアを受け終わったのが午後11時半。だがまだこれでも終わらない。
「ほら、しっかり食べてもらうからね」
今度はアリーナの中にある特設キッチンでやはり選手団に帯同している管理栄養士の田端が待ち構えていた。給食のお母さんというのがぴったりのベテランだ。
「田端さん、こんな夜中に食べたら却って体によくないんじゃないですか?」
「日奈ちゃん、水分も栄養分もエネルギーに変換して使い果たしたカラカラの体で眠っちゃったらどうなる?」
「うーん。ふくらはぎを痙攣したりとか」
「その通り。ちゃんと食事を摂って筋肉の回復をしておかないと、明日の準決勝で脚をつっちゃうわよ」
「日奈。田端さんの作ってくださるメニューは消化が抜群にいい。胃がもたれることはないから安心して食べるんだ」
「あらまあ。萱場さんから褒められるなんて女冥利に尽きるわね」
「えー。タイスケさんには妙子さんがいるんですよー」
「いいのいいの私だってダンナがいるしね」
「わー。やらしー」
冗談を言いながら遅い食事を終えたのが日付の変わった0時15分。
「日奈ちゃん、もしよかったらだけど、今日はわたしたちの部屋で一緒に寝ない?」
「え?」
「ものすごい疲労でしょうから体がもの憂くて眠りづらいと思うわ。わたしが眠るのを手助けしてあげるから」
「え。妙子さん、催眠術かなにかできるんですか?」
「まさか。古典的な技術よ」
その古典的な技術とは、子守唄だった。
一番最初に眠らされたのは、ゆかり。
ゆかりをトントンしながら萱場もいつの間にか寝入っていた。
日奈は部屋の天井を見上げながら妙子の歌声を聴いていた。
・・・滝の流れに笹舟一艘
・・・ゆらゆら流れて滝壺落ちる
・・・ぷかりと浮いたと思ったら
・・・次の滝までぷーかぷか
すー、すー
小さな子供のように、日奈も眠った。