第13話 さあ、日奈をたたき起こすか!

文字数 4,963文字

 ・・・・日奈と出会った日からの何か月かの出来事を走馬灯のように思い出していると、中央コートからどよめくような歓声が聞こえてきた。男子ダブルス決勝戦。東城トランスポートの別府・太田ペアが新日本製紙の斎藤・金谷のチャンピオンペアに競り勝ちそうなのだ。
 別府・太田はぎらぎらとした目で斎藤・金谷ペアの‘心’まで呑み込んでしまっているかのようだ。‘勝ったな’萱場は思った。‘頑張れよ’と腹の中で声を掛けてから、自分達の眼前の敵に目を向け直し、『さあ、どうする?』と、冷静に超高速思考を再開した。
 男子は小林。携帯電話会社の‘ダイバ’所属の若手のホープ。そして、女子は新日本製紙所属の高瀬 レイナ。オリンピック用に組まれた別企業同士のペアだ。高瀬はインドネシア出身でコーチ兼選手として来日。同じ新日本製紙の男子選手と結婚して日本に帰化した。彼女は20代前半から世界選手権女子シングルス3連覇を成し遂げ、母国インドネシアでも尊敬を受けている選手だ。全盛期を過ぎたとはいえ、混合ダブルスでのプレーを目の当たりにして、‘凄い女だ’と萱場は高瀬を心底尊敬した。明らかに男子の小林が敵の弱点であり、萱場たちはシャトルを小林に集めるのだが、高瀬はことごとくそれをカバーしてくる。それだけではなかった。高瀬は自分が頑張るだけでなく、小林を励まし、慰め、小林の精神力の回復まで思うように操縦しているのだ。諦めそうになった小林に付け込もうとしても、高瀬がそれを許さない。次のプレーではきっちりと小林の精神を回復させ、女子の自分には打てない破壊力のあるスマッシュを自由自在に打たせてくる。
 1セット目は普段のような様子見どころではなかった。開始からアクセル全開で打ち合い、デュースまでもつれ込んだ末に、落とした。
 2セット目、萱場も日奈も死にもの狂いで小林のスマッシュに食らいついた。
 途中、5ポイントリードされたが、小林が疲れを見せた瞬間を逃さず、畳みかけて2セット目をもぎ取った。高瀬の精神面のフォローもさすがに萱場と日奈の窮鼠猫を噛むような速攻には間に合わなかった。
 3セット目。いよいよ高瀬は真骨頂を発揮する。
 高瀬はこの試合のキーパーソンが「日奈」であることをはっきりと認識する。そして、日奈を振り回し始めた。肉体的にも、精神的にも。
 まず、肉体面では日奈を前後左右に振り回す。多少の失点を覚悟の上で高瀬は日奈をネット前に誘い出す。
‘あ、叩ける!’というやや甘いレシーブでネット前に日奈をおびき寄せ、日奈がプッシュで押し込むとアクロバティックなレシーブでネット前ぎりぎりにぽとりと返す。
 あまりの絶妙なショットに日奈が上げることもできず、やむを得ずヘアピンで返すと、返球が甘いのに高瀬はわざと決めない。ヘアピンの応酬に持ち込む。こうなると、萱場は手出しもできない。
 日奈が自分の持てる限りの技術でクロスに返そうが高瀬は平然と、日奈が返せそうなぎりぎりのショットで置きにくる。日奈のヘアピンがネットインで決まりそうになっても、タッチネットもせずに当たり前のように返してくる。そして、頃合いを見計らい、日奈が絶対の自信を持って返した厳しいヘアピンを、目にも留まらないスピードで飛び込んで、日奈の足下に叩きこむ。日奈は何が起こったのか分からず、呆然とする。
 世界選手権を3度も制した高瀬にとっては‘こんなの当然よ’とでもいうような錯覚を日奈に植え付ける。そんなはずはないのだ。そんな思い上がった性根で世界の頂点には立てない。高瀬は謙虚に相手の力を認めたからこそ、思考と策謀を必死に巡らせ、全力で日奈を潰しにかかっているのだ。でも、日奈には萱場がどうアドバイスしてもそれを納得するだけの心の余裕が最早無かった。
 そして、萱場・佐倉組の失点がすべて‘佐倉のせいだ’というようなプレーの終わり方をするよう、高瀬は巧妙に試合を運んだ。その駆け引きのためだけに、萱場が多少ミスった返球もあえて決めずに見逃すようなプレースらあった。そして、わざわざ日奈の厳しいレシーブを選んで超高難度のショットで叩きこむ、というようなプレーが続いた。今、ポイントは18オール。
 高瀬は、‘お前は萱場のお荷物なのだ’という意識を無言で、プレーだけでもって日奈の心に植え付けようとする。たった数十分のこの3セット目の間だけで。そして、ともすれば、それはこの試合だけでなく、これからの長い人生においても、‘わたしのせいで’という負の意識すら植えつけかねない。
 なんて恐ろしい選手だ、と萱場は高瀬 レイナという女をまじまじと見つめた。
 そして、ひょっとしたら、これまで自分と対戦した相手たちも似たような思いをしていたのかもしれない、としみじみと感じた。
 現に中央コートではとうとう別府・太田が斎藤・金谷を打ち負かし、全日本初優勝とオリンピックの切符を手にした。東城トランスポート陣営からは地鳴りのような歓声が沸き起こり、新日本製紙陣営から起こった‘ああー’という落胆の声が萱場の耳にも届く。もし、練習試合で斎藤・金谷に仕組んだことが原因の一つだとしたら、あいつらの人生を変えてしまったのは俺かもしれないな、とぼんやり考えた。そして、もし日奈が自分の敵なら、同じことを日奈にしただろう、とも
 だが。
 その結果、別府・太田の人生は開いた!
 それに。
 只今現在この瞬間、日奈は俺のパートナーだ。日奈の人生も、俺と日奈とでこじ開ける!
 にやりと心の中で萱場は笑った。そして、思考のスピードを更に上げる。
 ‘尊敬と実戦は別だ!’
 改めて高瀬を実体のある敵として睨みつける。
 ‘船のエンジンが海のど真ん中で停まったら・・・’
 萱場は父親の病床の言葉をゆっくりと思い出す。
 ‘櫓を漕ごうが、泳ごうが、なんとしても陸にたどり着く!’
 思考の停止は即、死を意味する。萱場は実社会で‘社会人’として、仕事でも、バドミントンでも生き抜いてきた。今、‘ゆかり’の父親としても生き抜こうとしている。
 ‘さあ、日奈を叩き起こすか!’
 34歳と10カ月の肉体が漲るように燃え上がるのが分かった。
「日奈っ!」
 茫然としていた日奈はうつろな目で長身の萱場を見上げる。
「やるぞ!」
「え・・・何を?」
「‘ゆかりフォーメーション’だ!」
 萱場は気恥ずかしさの微塵も感じずに、自分の娘の名前を冠した‘技’の名前を、観客席にも届くようなでかい声で叫んだ。妙子もゆかりも会場には来ていないが、もしいたら妙子は顔を真っ赤にし、ゆかりは訳も分からずけらけらと笑っただろう。
 中央コートの試合が終わり、観客は混合ダブルスのコートの方に移動して来ていた。
 小・中学生の女の子たちは女子選手を見ようと試合開始から固唾を飲んで見ていたが、小学生の男子たちはお目当ての男子ダブルスが終わり、暇つぶしにぞろぞろと徒党を組んで歩いてきたところだった。萱場の大声を聞いて、
「お、何だ、あの試合?」
「‘yukari フォーメーション’って何だ?」
 まさか女の子の名前とは思わない男子たちが、興味を持ち始めたようだ。
 萱場のサービスだ。当たり前のように日奈を後ろに立たせる。
「掛け声!」
「はい!」
 萱場の気合いに日奈が答える。
 「オー・ゼ!」「オ!」「ゼ!」「オ!」「ゼ!」「オー!」
 聖悟女子高のダブルスペアがここ一番という時に使う気合いの掛け声だ。サービスする選手が‘ゼ!’と気合を発し、後衛の選手が‘オ!’と応える。
 実業団の試合では見られないような‘熱血’に客席から男子小学生の、「おー」というどよめきと拍手が入る。
 高瀬はそれでも冷静なまま、警戒心だけを深めて萱場のサービスを受ける準備をする。
 萱場の慎重なサービスを皮切りに、ラリーが始まった。
 何打目かで、高瀬は異変に気付く。常に日奈が萱場の背後に立つように位置取りしているように見えたからだ。日奈の姿が自分達の視界から消えたような錯覚に陥る。高瀬は小林に目で合図をして、わざと日奈がいるはずの萱場の真後ろに深いクリアを上げるように指示する。だが、萱場の身長まで目測に入れなかった小林のレシーブは僅かに甘くなった。明らかに小林のミスだ。萱場がジャンプすれば前衛でも届くような位置にシャトルは飛んでいく。
 しまった!と高瀬はすぐにレシーブの態勢に入る。そして、当然のように萱場はぶわっ、と体を起こす。しかし、ジャンプしない。高瀬が面喰っていると、更に萱場はスマッシュの空振りをする。コンマ何秒かの思考で高瀬は状況を判断しようとするが、理解できない。そして、そのまま萱場はしゃがみ込んだ。
‘何?トラブル?捻挫でもしたの?’高瀬が更に思考のスピードを上げても追いつかないぐらいの事態が次々と起こる。しゃがんだ萱場の後ろに突然姿を現した日奈が‘失速スマッシュ’を高瀬の顔面めがけて打ち込んでくる。
‘うっ!’高瀬は身構えた。だが、シャトルはネット最上部に引っ掛かる。
 19-18。小林・高瀬がここへ来てリードする。
 高瀬はこのプレーに一体何の意味があったのか、全く分析できなかった。怪我でないのなら萱場が叩き込めば18-19で貴重なリードを奪えたはずだ。もし上手くそのままの気合いが保てれば、‘廃人’寸前の佐倉を放っておいて全部萱場1人で打ちまくっても勝てる可能性がある、とクレバーな萱場が考えない筈がない。
 しかし、そんな高瀬の思考とは裏腹に、スタンドの小学生の餓鬼どもは、
「すげーぞ!」
「チョーかっけー!」
と失点したにも関わらず、‘ゆかりフォーメーション’に対し、無責任な、ヤジとも応援ともつかない大歓声を萱場と日奈に浴びせる。
 ‘地味で嫌らしい’が身上のはずの萱場のバドミントンが、餓鬼どもを沸かせている。
‘結構、気持ちいいもんだな’と思いながら萱場は日奈の方を振り返る。
 日奈は大汗をかき、全身を揺らして呼吸しているが、その顔はにやにやと笑っていた。
「ん、何かおかしかったか?」
 萱場が不審そうに訊くと日奈はけらけらと笑いながら萱場を苛め始めた。
「だって、タイスケさんが、‘ゆかり!’って大声で叫ぶんだもん。おかしー!」
 日奈が女子高生丸出しの口調で、これも観客席に聞こえるようなでかい声で笑うと男子小学生どももどっ、と笑う。
「‘ゆかり!’なんて叫んでない。‘ゆかりフォーメーション’って言ったんだ!」
 つられて萱場がでかい声で言い返すと、
「ガンバレー」
と、カタカナで小馬鹿にしたような応援が男子小学生の方から上がり、皆げらげらと笑っている。
 ちっ、と萱場は本当に嫌そうな顔で舌打ちする。
「それより、ここからは全部俺が前衛に回るぞ!」
 敵にも聞こえるようなでかい声で堂々と伝える。
「後ろに上がったら全部叩き込め。後衛は全部日奈に任せる!」
 ‘任せる’という言葉を聞いて日奈は嬉々とする。
「わたしを信じてくれるんですね!」
 日奈のきらきらした目を見ながら、萱場は冷静に言う。
「いや、信じてる訳じゃない。
 俺は自分自身だって信じちゃいない。
 信じようが信じまいが、事実は変えれん。事実が変わらんなら、後はやるしかないだろうが!」
 萱場の飛ばした檄に、日奈はあまりにも素直に笑いながら答える。
「それも、そうですね!」

 萱場はここへ来ての1失点など問題にしていなかったのだ。あんなものが決まる訳がないと分かった上で‘ゆかりフォーメーション’なるものをやった。日奈がネットに引っかけることを想定内でやったのだ。
 それよりも、萱場は日奈がダメージから回復してこの試合だけでなく、次の試合もそのまた次の試合も戦えることを最優先に考えた。事実、大笑いして悲壮感と緊張感がぶっ飛んでしまった日奈は、‘わたしは全然、悪くない’といういつもの日奈に戻っている。そんなことで悩む暇に‘喋り’、‘さっさと体を動かす’日奈が復活している。
それはこのペアでもそうだし、このペアが解消されて日奈が次の道に進むときにも、そして、日奈が人生を歩み、母親になる時にも絶対に必要なものだ。
そういう意味ではこの‘ゆかりフォーメーション’という‘必殺技’(?)には大きな意味があった。
‘朗らかさ’という、日奈の最大の武器を取り戻すための。
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