第49話 朝顔の露のように

文字数 1,602文字

 萱場は生死の境をさまよった。

 診断は足の筋肉の複数箇所の断裂、靭帯の損傷だったが、長い競技人生と特にオリンピック本戦での限界を超えたプレーの連続で内臓のあらゆる器官がダメージを受けていた。

 手術室に入る直前、ストレッチャーに目を閉じて横たわる萱場の唇に、妙子はそっと唇を重ねた。

 それは、もう戻らない可能性を覚悟しての、夫婦の無言の会話だったのだろう。日奈はその光景(シーン)を見て、自分もいずれ必ず結婚しようと心に決めた。

 術後、萱場はもう歩行以上の運動をすることは叶わないと黒人医師からの説明があった。帯同していた東城トランスポートの監督は長年の選手としての酷使を妙子に詫び他の選手を連れて帰国した。

 日奈は萱場が回復するまでケープタウンに残ると言い張ったが、ご両親やおばあちゃんに早く顔を見せて安心させてあげて、と妙子に促されて帰国した。
 帰国する間際、妙子に許可をもらった上で、疲労で眠り続ける萱場の額におでこを、とっ、と当てて自分なりの想いを示して帰って行った。

 目を覚まし、ベッドの上で上半身だけは起こせるようになった頃、妙子とゆかり以外の見舞客がやってきた。

「あなたはやはり勇者でしたな」

 コックの衣装ではなくポロシャツにチノパンだったが、自ら銃を手に取って萱場たちを強盗から救ってくれたチャイニーズレストランのオーナー・シェフだった。

「そして勝利者となった」
「ありがとうございます。ですが、決勝では途中棄権となってしまいました」
「いえ。あなたは最後まで闘った。わたしは移民してから出続けていた店を弟子に任せて決勝戦の会場にいたのです」
「そうでしたか・・・」
「あなたの最後のプレー。501km/hのスマッシュを見届けました」
「あれは・・・私が打ったんではないと今でも思っています」
「ほう?」
「コートを右足で蹴る時、激痛と一緒に死んだ父親の顔が浮かびました」
「お父様の、ですか・・・」
「はい。普段は遅いスマッシュしか打てない私の最後のプレーを彩ろうと手助けしてくれたんでしょう」
「失礼ですがお父様のお仕事は」
「内航タンカーの機関長でした。船乗りです」
「あなたのお父様も、勇者ですね」

 オーナーシェフはケータリングサービスとして料理を幾種類も持ってきてくれていた。ちゃんと医師の了解も取ってあるという。

 オーナーシェフも一緒に、萱場、妙子、ゆかりの4人でささやかなオリンピックの打ち上げをした。

 デザートの杏仁豆腐をスプーンで食べるゆかりを見てオーナーシェフがつぶやいた。

「娘が1歳の時、(わし)の店は白人たちの襲撃を受けました」
「・・・・・・」
「全員、泥酔していた。おそらく店を壊すことが目的での襲撃でした。だが、散弾の、拡散された銃弾が、娘の胸を貫いた」

 萱場も、妙子も、沈黙して話を聞いた。

「即死でした」

 妙子も訥々と語られるチャイニーズアクセントの英語を聞き取り、目に涙を浮かべている。

「あなたこそ、本当の勇者です」

 萱場の言葉に、ありがとう、と静かにオーナーシェフはつぶやき、椅子から立ち上がって病室の窓からケープの街の空を見上げた。

 萱場は日奈と観た喜望峰のインド洋と大西洋がぶつかり合う大きな水の塊を思い出していた。

 それはとても雄大なものだったけれども、元を辿れば萱場の父が亡くなった中学2年の時の夏の朝に見た、朝顔の花びらに乗った一滴の露と本質は同じだ。

「朝顔の露より(もろ)い身を持つわたしたち」
「奥様、それは(うた)ですか?」

 英訳して妙子が(そら)んじた一文を美しいと感じたのだろう。オーナーシェフの問いに妙子は続けて答える。

「はい。わたしの祖母が口癖のようにつぶやいていた(うた)です。(はかな)くともわたしは、朝顔の上できらめく露のように清らかでありたい。あなたの娘さんのように」
「お二人のお嬢さんを抱かせてください」

 萱場と妙子が頷く。

 彼は、ゆかりを抱き上げた。

 そして、ぎゅっと頬ずりし、声を上げて泣いた。

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