第33話 喜望峰(Cape of Good Hope)
文字数 2,412文字
萱場は一睡もできなかった。
7年前、マイク・リーとの鮮烈な練習試合のことを思い出して。
いや、鮮烈というのは萱場にとってだけ当てはまる言葉であって、リーにとってはウォーミングアップ程度の日常の一瞬の出来事でしかなかっただろう。
「タイスケさん、おはようございます!」
「・・・ああ、おはよう」
「今朝は何ジュースがいいですか? キウィ? パパイア? マンゴー?」
「ミネラルウォーターを沸かして、それだけくれないか」
「タイスケさん!」
「な、なんだ」
「わたし、喜望峰見たいです!」
「喜望峰?」
「連れてってください。車で」
「午前は練習があるじゃないか」
「調整の自主練ですよね。でも、タイスケさん。世の中には練習や仕事よりも大事なこともあるんですよ」
「・・・喜望峰がそうなのか?」
「喜望峰は方便です。要はわたしにサービスしてください、ってことです」
「・・・ダメだ。今の気分じゃ運転に自信がない」
「タイスケさんなら大丈夫ですよ」
「そうじゃない。喜望峰までは幅が狭くて横が断崖の曲がりくねった道を通らないといけないんだ。観光客も結構なスピードで走る。事故を起こしそうな気がする」
「それでもいいですよ」
「何言ってるんだ」
「パートナーですからそれもありですよ。どっちにしたってこのままじゃ、コート上でふたりとも死んじゃうじゃないですか」
「・・・!」
「海でも見ましょうよ」
「海・・・か」
「スケールでっかいですよね。だって、喜望峰ですよ」
「ああ。確かに、俺も見たい。本音はそうだ」
「本音でいきましょう。わたしたち、パートナーじゃないですか」
「ただ、やっぱり食欲がない」
「起きがけで食べれないならわたしがお弁当作ってあげます」
「作れるのか?」
「なんてことを。寮で先輩方とアスリート食パーティーしてますから」
簡単な身支度をし、弁当を詰めて萱場と日奈はすぐに車で出かけた。
単純だ。
南へ走ればいいのだ。
「うわ。ちょっとこわいですね、これ」
「だから言っただろう。車もすれ違えるぎりぎりなんだよ」
一般道のはずなのに、アウディやベンツといった白人たちの高級車がハイウェイ並みのスピードで行き交う。そして、外を見れば萱場が言ったとおり、外国の映画や、名作と呼ばれるアニメのカーチェイスシーンに出てきそうな断崖絶壁の、けれどもとてもお洒落なワインディングロード。
「萱場さん、音楽かけましょうよ」
そう言って日奈がカーナビのプレイボタンを押すと、爆弾のような男性の歌声がいきなり飛び出してきた。
「わ、なにこれ!」
「エルビス・プレスリーの、ハウンド・ドッグだ。日奈はプレスリーとか言ってもわからんだろう」
「名前だけは聞いたことありますよ。へえ・・・かっこいい。タイスケさんはプレスリーのファンなんですか」
「というより、これはサントラなんだ。妙子と初デートの時に観た、フォレスト・ガンプ、っていう映画の」
「わ、初デート!」
「トム・ハンクス主演の、俺が大好きな映画だ」
車の中には、ジェファーソン・エアプレイン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、その他数々の名曲が溢れた。完全に世代の違うはずの日奈にも、なんの違和感もなく同化していく。日奈はこの瞬間のこの雰囲気にうっとりしていた。
昼頃にはケープポイントに着いた。
ここには展望台があり、喜望峰が見下ろせるのだ。
壮大な景色を、ふたりは見た。
「わあ、すごいっ!」
日奈の大はしゃぎの様子に、隣にいる白人の観光客たちがビクッと反応している。
萱場は眼下の海に視線を落とした。
喜望峰を挟んで、ふたつの海が巡り合っている。
「タイスケさん。大西洋とインド洋ですよね」
「そうだ」
「わたしとタイスケさん、どっちが大西洋でどっちがインド洋でしょうね」
「ぷ、ふ、はははっ」
「あ、笑った。わたしは結構真面目ですよー」
「すまん。やっぱり日奈は世界中どこでも日奈だ」
「じゃあ、タイスケさん。マイク・リーとタイスケさんならどっちがどっちの海でしょうね」
「さあな。でっかい方がマイク・リーだろう」
「シングルスならば、ですよね」
「・・・どういう意味だ?」
「わたしとタイスケさんはペアですよ。2人のダブルスなら、7つの海を全部飲み込んで1つの海で世界を覆いますから。ついでにリーも飲み込みましょう」
「ありがとう」
呟きながら照れて、萱場はまた数歩海の方に近づいた。
少しでも至近な距離で見たかった。
その波と大きな海水の流動は、美しさというよりは凄まじさを感じさせた。
怖いくらいの、畏怖の念を萱場は胸に抱いた。
それでも萱場は呟いた。
「海って、いいなあ」
「あ!」
「な、なんだ?」
「お父さんのセリフですね」
「ああ・・・親父が船乗りになる時、金刀比羅 さんに航海安全祈願で詣でて思わず出た言葉だな」
「でも、間違ってますよ。正確には、『おわあ、海っていいなあ!』です。はい!」
「はい、って・・・」
「ためらわない!」
「お・・・」
萱場はその大海に真正面で向き直り、深く息を肺から腹まで吸い込んだ。
「おわあ! 海って、いいなあっ!」
コート上での気合よりも大きな萱場の声は、そのまま岬の先端に波ごと吸い込まれていった。
ふたつの海を堪能した萱場と日奈は車で喜望峰の先端まで走った。
『CAPE OF GOOD HOPE』と書かれた看板の前で日奈がスマホで自撮りしようと誘った。
「いいよ。俺は女子高生じゃない」
「いいからいいから」
日奈はそう言って有無を言わさずぴったりと萱場に体をくっつけてピースサインをし、大西洋とインド洋ごちゃ混ぜをバックにスマホのシャッターを押した。
「きれいに撮れました。で、送信・・・っと」
「ん? 誰に送った?」
「へへ。妙子さんに見せつけて嫉妬させます。あれ?」
ヴッ、とスマホがLINEの着信を告げた。向こうは夜中のはずだがまだ妙子は起きていたようだ。内容を読んで日奈が叫ぶ。
「タイスケさん、ゆかりちゃんも来るって!」
7年前、マイク・リーとの鮮烈な練習試合のことを思い出して。
いや、鮮烈というのは萱場にとってだけ当てはまる言葉であって、リーにとってはウォーミングアップ程度の日常の一瞬の出来事でしかなかっただろう。
「タイスケさん、おはようございます!」
「・・・ああ、おはよう」
「今朝は何ジュースがいいですか? キウィ? パパイア? マンゴー?」
「ミネラルウォーターを沸かして、それだけくれないか」
「タイスケさん!」
「な、なんだ」
「わたし、喜望峰見たいです!」
「喜望峰?」
「連れてってください。車で」
「午前は練習があるじゃないか」
「調整の自主練ですよね。でも、タイスケさん。世の中には練習や仕事よりも大事なこともあるんですよ」
「・・・喜望峰がそうなのか?」
「喜望峰は方便です。要はわたしにサービスしてください、ってことです」
「・・・ダメだ。今の気分じゃ運転に自信がない」
「タイスケさんなら大丈夫ですよ」
「そうじゃない。喜望峰までは幅が狭くて横が断崖の曲がりくねった道を通らないといけないんだ。観光客も結構なスピードで走る。事故を起こしそうな気がする」
「それでもいいですよ」
「何言ってるんだ」
「パートナーですからそれもありですよ。どっちにしたってこのままじゃ、コート上でふたりとも死んじゃうじゃないですか」
「・・・!」
「海でも見ましょうよ」
「海・・・か」
「スケールでっかいですよね。だって、喜望峰ですよ」
「ああ。確かに、俺も見たい。本音はそうだ」
「本音でいきましょう。わたしたち、パートナーじゃないですか」
「ただ、やっぱり食欲がない」
「起きがけで食べれないならわたしがお弁当作ってあげます」
「作れるのか?」
「なんてことを。寮で先輩方とアスリート食パーティーしてますから」
簡単な身支度をし、弁当を詰めて萱場と日奈はすぐに車で出かけた。
単純だ。
南へ走ればいいのだ。
「うわ。ちょっとこわいですね、これ」
「だから言っただろう。車もすれ違えるぎりぎりなんだよ」
一般道のはずなのに、アウディやベンツといった白人たちの高級車がハイウェイ並みのスピードで行き交う。そして、外を見れば萱場が言ったとおり、外国の映画や、名作と呼ばれるアニメのカーチェイスシーンに出てきそうな断崖絶壁の、けれどもとてもお洒落なワインディングロード。
「萱場さん、音楽かけましょうよ」
そう言って日奈がカーナビのプレイボタンを押すと、爆弾のような男性の歌声がいきなり飛び出してきた。
「わ、なにこれ!」
「エルビス・プレスリーの、ハウンド・ドッグだ。日奈はプレスリーとか言ってもわからんだろう」
「名前だけは聞いたことありますよ。へえ・・・かっこいい。タイスケさんはプレスリーのファンなんですか」
「というより、これはサントラなんだ。妙子と初デートの時に観た、フォレスト・ガンプ、っていう映画の」
「わ、初デート!」
「トム・ハンクス主演の、俺が大好きな映画だ」
車の中には、ジェファーソン・エアプレイン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、その他数々の名曲が溢れた。完全に世代の違うはずの日奈にも、なんの違和感もなく同化していく。日奈はこの瞬間のこの雰囲気にうっとりしていた。
昼頃にはケープポイントに着いた。
ここには展望台があり、喜望峰が見下ろせるのだ。
壮大な景色を、ふたりは見た。
「わあ、すごいっ!」
日奈の大はしゃぎの様子に、隣にいる白人の観光客たちがビクッと反応している。
萱場は眼下の海に視線を落とした。
喜望峰を挟んで、ふたつの海が巡り合っている。
「タイスケさん。大西洋とインド洋ですよね」
「そうだ」
「わたしとタイスケさん、どっちが大西洋でどっちがインド洋でしょうね」
「ぷ、ふ、はははっ」
「あ、笑った。わたしは結構真面目ですよー」
「すまん。やっぱり日奈は世界中どこでも日奈だ」
「じゃあ、タイスケさん。マイク・リーとタイスケさんならどっちがどっちの海でしょうね」
「さあな。でっかい方がマイク・リーだろう」
「シングルスならば、ですよね」
「・・・どういう意味だ?」
「わたしとタイスケさんはペアですよ。2人のダブルスなら、7つの海を全部飲み込んで1つの海で世界を覆いますから。ついでにリーも飲み込みましょう」
「ありがとう」
呟きながら照れて、萱場はまた数歩海の方に近づいた。
少しでも至近な距離で見たかった。
その波と大きな海水の流動は、美しさというよりは凄まじさを感じさせた。
怖いくらいの、畏怖の念を萱場は胸に抱いた。
それでも萱場は呟いた。
「海って、いいなあ」
「あ!」
「な、なんだ?」
「お父さんのセリフですね」
「ああ・・・親父が船乗りになる時、
「でも、間違ってますよ。正確には、『おわあ、海っていいなあ!』です。はい!」
「はい、って・・・」
「ためらわない!」
「お・・・」
萱場はその大海に真正面で向き直り、深く息を肺から腹まで吸い込んだ。
「おわあ! 海って、いいなあっ!」
コート上での気合よりも大きな萱場の声は、そのまま岬の先端に波ごと吸い込まれていった。
ふたつの海を堪能した萱場と日奈は車で喜望峰の先端まで走った。
『CAPE OF GOOD HOPE』と書かれた看板の前で日奈がスマホで自撮りしようと誘った。
「いいよ。俺は女子高生じゃない」
「いいからいいから」
日奈はそう言って有無を言わさずぴったりと萱場に体をくっつけてピースサインをし、大西洋とインド洋ごちゃ混ぜをバックにスマホのシャッターを押した。
「きれいに撮れました。で、送信・・・っと」
「ん? 誰に送った?」
「へへ。妙子さんに見せつけて嫉妬させます。あれ?」
ヴッ、とスマホがLINEの着信を告げた。向こうは夜中のはずだがまだ妙子は起きていたようだ。内容を読んで日奈が叫ぶ。
「タイスケさん、ゆかりちゃんも来るって!」