第5話 そんなことないですよ、タイスケさん

文字数 3,998文字

 8月。夏休みの途中で、日奈は東京の共学の私立高校に転校してきた。
 ‘合波高校(あいばこうこう)’は特にバドミントン部が強いわけでもなかったが、萱場はその高校を勧めた。
「その学校は学外活動にとても理解がある。東城トランスポートでの練習も、事情とスケジュールさえきちんと説明すれば、補習もしっかりやってくれる。勉強だけはきちんとしとけ。授業をしっかり受けた後の放課後は俺がお前をみっちりと鍛え直してやる」

 萱場は女子部の特任コーチを引き受けるに当たって、萱場・佐倉ペアを‘混合ダブルス’で各大会にエントリーさせて欲しいと監督に願い出た。30歳から男子ダブルスでやってきた育成方法を、一度混合ダブルスという形で実践してみたかったのだ。そして、もう一つ目論見があった。
‘混合ダブルス、オリンピック代表選考’
 はっきり言って、今更萱場はオリンピックに対して興味も無かった。
 だが、萱場は30を過ぎてからの5年近く、‘もっと若ければ’という思いを心の隅にずっと持っていた。超晩成型であり、会社の現場仕事で学んだ‘生き様’をバドミントンにも反映させてきた自分の生き方を後悔はしていない。ただ、日奈のような若い選手をいきなりオリンピックという荒波に放り込み、花開かせてやりたい、という思いがあった。それは競技人生だけでなく、若い選手の、‘人生そのもの’にとっても大きな意義があるものだと考えた。
 それに、混合ダブルスを決して甘く見る訳ではないが、選手の絶対数から言っても、オリンピック代表を目指すことは萱場の中では十分勝算があった。自分自身の男子ダブルスでの経験と、日奈が仮にも名門聖悟女子高の厳しい練習に食らいついてきたことを考えると、可能性は五割を超える数字として萱場の頭の中で弾き出された。
 東京へ転校して東城トランスポートの練習に参加しないかということ、当面は萱場とペアを組みながら指導すること、そして、オリンピック代表を目指すこと、を日奈と彼女の両親に説明し、了承を貰った。事前に家族は健康で元気だ、と確認しておいたとおり、日奈も心置きなく東京に乗り込めるはずだ。
オリンピックの話をすると、日奈の目は輝く、というよりも‘ぎらついた’。こいつは野心も持った大した女だ、と、ますます徹底的に鍛え上げたくなった。

 日奈は東城トランスポートの合宿所から学校に通うことになった。合宿所は会社の体育館の隣に建っており、選手の何人かもここで寝起きしている。日奈の性格ならば遠慮したりすることもなく、みんなとうまくやって行けるだろうと萱場は判断した。
 夏休みの間は、日奈は朝練から女子部の練習に参加し、朝・午前と、女子部の選手に‘しごかれた’。日奈は体力には絶対の自信を持っていたが、実業団の選手たちのそれは日奈の想像を超えていた。
 とにかく、選手たちはコート外での時間も一秒たりとも無駄にしない。一試合終わるとすぐにストレッチをする。その後は体育館の二階のランニングコースへ駆け上がり、走り込みとダッシュを始める。そして、降りてくると息の上がった状態ですぐに試合を始める。更に隙間の時間にトレーニングルームに駆け込み、我先にと争ってマシンを奪い合い、筋力トレーニングを始める。
 化け物だ、と日奈は思った。最初の何日か日奈がまごまごしていると、先輩選手の1人が笑いながら日奈に檄を飛ばした。
「ほら、新人!ぼやっとしない!給料貰ってやってんだから、死ぬ気でやる!」
 日奈は反論を試みた。
「え・・・わたしは給料貰ってません・・・まだ、社員でもないし・・・」
 するとその先輩選手は、ははっ、と大声で笑いながら日奈に更に檄を飛ばす。
「あんた、寮の食事、お金払ってないだろ?電気代も水道代も会社に払って貰ってるだろ?おんなじ、おんなじ!」
 先輩はそう言って手をぱんぱんと叩き、遊んでる暇に走る、走る!と日奈を追い立てた。
 二階のランニングコースを走り、地獄だ、と日奈は思った。鹿児島にいた時、炎天下の外で走る自分は過酷な走り込みに耐えている、と悦に入っていたが、無風の蒸し風呂のような室内でのランニングとダッシュは、水よりも『か、風をください・・・』と日奈を苦しめた。本当に、すうっ、と大息を吸い込もうとしても、冷たく気持ちのよい風を吸い込むことができないことがこんなに苦しいとは思ってもいなかった。
 そして、ぜいぜいと息をしたままコートに降りてくると、
「さ、すぐに試合だよっ!」
 と、先輩が待ち構えている。
「息が上がった状態で打つのを当たり前に思っとかないと、最後の1点は取れないよ!」
 確かに、その通りだ、と日奈は思った。走り込みだろうが、トレーニングだろうが、常に相手との最後の競り合いを意識して追い込まないと意味がない、と理解した。
 日奈はその点、賢い選手でもあった。
 一旦先輩の言うことが‘合理的だ’と腑に落ちると、‘なにくそ!’という負けじ魂が腹の底から沸き起こり、意識を集中させて試合にも走り込みにも筋力トレーニングにも取り組んだ。
 午前の練習が終わっても、体の手入れと昼食が終わるまで手を抜くな、と先輩は日奈に教えてくれた。ぶっ倒れるようにして練習を終えた選手たちは、ストレッチルームになだれ込み、マットの上で入念に筋肉の手入れをする。
 専属のトレーナーにマッサージを受ける者、肩や足のアイシングを行う者。
「日奈もアイシングしておきなよ」
 先輩は日奈の‘くるん’というスウィングを見て、肩に相当負担がかかっている、と一発で指摘した。
「氷・・・冷たくてとても我慢できません・・もう、外してもいいですか?」
 日奈が甘えた声で肩の氷を外したがると、先輩は容赦なく否定する。
「まだまだ。最低でも20分は冷やさないと。音楽でも聞きながら、我慢して!」
 食堂で、日奈はまた先輩に甘えた。
「先輩・・・疲れすぎて食べる気が起きません・・・ちょっとだけ残してもいいですか?」
 先輩は呆れを通り越して憐れむような目で日奈を見る。
「日奈・・・これはね、トレーナーさんやスタッフの人たちが考えに考え抜いて作ってくれたメニューなんだよ。練習してこの食事を食べれば、知らない内に、ここ一番!で踏ん張りの効く骨と筋肉ができあがるようになってるんだよ・・・」
「わたしの背も伸びますか?」日奈は更に甘えた声を出す。
「・・・背はどうか分かんないけど、敵に差をつける体ができあがるよ。それと、これはおまけだけど、美容にもいい、ってみんなから評判だよ」
「全部、食べます!」
と日奈はおかずを口に詰め込み始めた。先輩は日奈のことを‘可愛い子だな’と、初めて優しいほほ笑みで見つめた。

 午後は、朝一番の配送を終えた萱場が、仮眠を取った後で練習にやってくる。
 これが、午前にも増して、日奈にとっては地獄だった。
 萱場はコートの中で緻密で複雑なフォーメーションを日奈に叩きこもうとした。
 しかも、それを、息の上がった状態で正確に思い出して実行しなくてはいけない。
「あれ?あれ?」としどろもどろになると、日奈は体の動きまでバラバラになった。
「日奈・・・学校の授業とか、ちゃんと聞いてたか?」
「え?え?」と日奈は疑問符いっぱいの目で萱場を見る。
「勉強だけはちゃんとしとけ、って俺が言ったのはこういうことだよ・・・
 バドミントンも仕事も、やり方を学んで理解して納得する、っていう作業まではまさしく学校の勉強と同じなんだよ。
 日奈は学校の先生とか軽く見てただろ?」
「はい、軽く見てました」
 即答する日奈を、素直で正直と褒めればいいのか・・・と、萱場は、はあっ、と息を吐いた。それから、こんこんと、日奈に懇切丁寧に説明してやった。
「学校の先生も俺も、お前が‘戦う’ための道具を一生懸命持たせてやろうとしてるんだ。
 学校の先生を馬鹿にして授業を適当に聞いてると、せっかくの道具も自分から捨てることになるぞ。
 俺がフォーメーションにこだわるのは、年寄の俺と背が低い日奈の‘武器’になるからだ。
 これを学んで二人で確認する作業を怠ると、絶対後悔する。
 反対に、納得して腑に落ちると、‘これは凄い武器だ’って練習にも身が入るぞ。‘考えてバドミントンする’ことが楽しくなるぞ」
 日奈はまだ納得できない。
「でも、ラリーで苦しくなると、考えたり思い出したりするどころじゃないんです」
 萱場は、にこにこと笑いながら日奈に声をかけてやる。
「思考は頭だけじゃないよ。飽きるほどフォーメーションを反復してやると、体が覚えて更に体が応用編も考える。それに・・・」
 日奈はぼうっと上の空で聞いているようだ。
「日奈は負けたくないんだろ?」
 日奈の顔が突然目が覚めたようにしゃきっ、とする。
「はい、負けたくありません!」
「オリンピックに出たいんだろ?」
「絶対、出たいです!」
 萱場は、単純だが教え甲斐のある生徒に向かってこう言った。
「その日奈自身の‘心’で思考するんだよ。それが本心なら、四六時中‘負けたくない!’‘オリンピックに出たい!’って心を持ち続けてれば、日奈の脳みそは勝手にフル回転する。
 それで、納得できないこととか、こうした方がいい、ってことがあれば遠慮なく俺に言ってくれ。俺もまだ、俺の思考が、萱場・佐倉ペアにも当てはまるのかどうか、半信半疑だからな」
 日奈は元気よく、
「はい、タイスケさん!」
と返事をした。
「タイスケさん?」
 萱場がとても嫌そうな顔で反復すると、日奈は不思議そうな顔になった。
「え・・・わたしのことも日奈、って名前で呼んでくれてるんで、タイスケさん、って呼ぼうかな、って」
「まあ、いいけど・・・・」
 萱場はやはり心から嫌そうな顔で更に続けた。
「何だか、日奈がいうと、ぞんざいにカタカナで呼ばれてるような気がするんだが・・・」
「え、そんなことないですよ、タイスケさん」
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