第38話 勝ちたいのさ

文字数 2,873文字

「勝ちたい」

 ようやくゆかりを寝かしつけた妙子の隣で萱場が呟いた。

「そう・・・分かったわ」

 と応じる妙子。

 そのまま部屋の灯りを消して眠ろうとする2人。
 だが、萱場は目が冴えて寝付けなかった。

『あなたは必ずや勝利者となるでしょう』

 異国のレストランでのほんの短い時間の、けれども鮮烈すぎる『縁』。
 その時のオーナーシェフの言葉が耳から離れなかった。萱場は心の中で何度も反芻した。

「勝利者・・・」

 自分とは程遠い言葉だと萱場は感じた。むしろ自分は敗者だと思って生きてきた。アスリートの世界の中で、トップ以外の選手は文字通り敗者だろう。また、ベストを尽くす姿勢を貫いてきた自負はあるが、勝利のための努力だったかどうかは今となっては微妙だと考えている。
 若かりし頃、インターハイのシングルスの試合も手抜きをしたつもりは決してなかった。全力を出し切ったはずだ。

 だが、殺されそうになったことも殺しそうになったこともあるというオーナーシェフの回顧と、白人の男に銃を向けられたという事実。

 しかも、自分ではなく愛娘に対して。

 今日1日を境に萱場はピュアすぎるストイックさを更に自身に向けることとなった。

 自分は、死力を尽くしただろうか、と。

 妙子もまた眠れずにいた。
 萱場との長い日々の中で、自己への厳しさと、若手育成のために自分のタイトルすら後回しにするような献身とが萱場の特性であり彼の人間としての強さだと信じてきた。

 その萱場をして「勝ちたい」とストレートに言わしめる何か。

「泰助さんはもっとわがままになってもいい」

 妙子はそう思った。他人への気配りを維持してもらうため、代わりに萱場の勝ちたいという渇望をすべて自分ひとりで受け止めようと決意した。

 こうして2人は一睡もせずに夜を明かした。

 けれども萱場の脳はクリアだ。
 惰眠を貪らずに覚醒したままの状態で今日の戦いに突入できると自己診断した。
 しかも、筋肉の細胞ひとつひとつに、『あなたは必ずや勝利者となるでしょう』という彼の言葉が刷り込まれた状態で。

 妙子も一睡もしなかった。
 そして、自分は誠実でストイックで心優しい萱場という男の妻であると、改めて決意を固めた。

 ・・・・・・・・・・

 午前の二回戦。
 デンマークの世界ランキング5位のペアは、男子選手のスマッシュが世界屈指のスピードだ。
 だが、萱場・日奈ペアのコンビネーションはそのスピードを上回るキレだった。

 まずは日奈が魅せる。

 昨日強盗に遭ったというショックなど、ざっ、と水に流し去り、敵男子選手のスマッシュを日奈が見事なフットワークで返しまくった。

 試合終盤、前衛の女子選手が叩いた打球を返した後、態勢の立て直しが間に合わないと見た日奈が、ダンスのようにくるん、とターンした。
 動作の導線としては無駄な移動距離なのだが、ターンの鮮やかなスピードとプレーの華麗さ・可憐さに会場から、ほー、とため息が出る。

 態勢を立て直した日奈は、この日大会最速をマークした男子選手のジャンピングスマッシュを前に出ながらレシーブする。前衛の女子選手がドライブで応酬すると日奈は更に前に出ながらドライブを打ち返し、3打目のラリーで逆に敵陣に叩き込んで勝利をもぎ取ると会場から大きな歓声と拍手が起こった。

 そして、駒を進めた夜の三回戦。

 敵は昨年まで世界ランク1位だった香港のペア。
 マイク・リーがミックスダブルスに参戦しなければ金メダル確実と言われていた相手だ。

 試合前、応援席から澄み渡った声がした。

「泰助さん! 勝って!」

 日奈は驚いた。

 芯はあるが古風で決して人前で大きな声を出さない妙子が、会場に響き渡る音量で檄を飛ばしたのだ。

 しかも、『勝って!』と。

 振り返りもせずに背中で了解の意思を示す萱場。
 代わりに日奈に向かって静かに呟いた。

「勝つぞ」

 ラリーが始まると敵ペアは実に的確な戦略を敷いてきた。
 フットワークがキレにキレまくっている日奈に対し、速く低い弾道は餌食だと判断したのだ。日奈のスピードを殺す滞空時間の長い、深く大きなクリアを多用する。日奈は天井近く打ち上げられたシャトルが落ちてくるまで待たざるを得ず、敵ペアは失速スマッシュのイン・アウトの判断に時間を使えることとなる。

 両者決め手を欠いて試合が膠着状態になりつつあった中盤、萱場は決断した。

「日奈、どけ!」

 突然の萱場の怒号に日奈はフットワークですすっ、と萱場の通り道を開ける。
 敵ペアがフォアハンド最深部に上げた高いクリアを追って、ネット前にいた萱場が長いコンパスを活かし数歩のフットワークで追いつく。
 そのまま後方にジャンプしながらスマッシュと全く同じフォームのまま、クロスにカットを放った。

 ペア結成以来、一度も使ったことのない攻撃パターンだ。

 意表を突かれた敵ペアが慌ててバックハンド後方に上げたクリアをそのまま大きなストライドで萱場が追う。
 マイク・リーばりの、まるでシングルスのようなダブルスのフォーメーション。

 が、日奈は萱場の意図を十分に理解していた。
 萱場のショットだと会場じゅうの誰もが思った瞬間、彼はそのまま方向を変え、前衛のポジションに走る。代わりに日奈が凄まじいスピードのフットワークで打点の下に向かい、やはり後方に跳びのきながら、今度は失速スマッシュをクロスに打ち込んだ。

 目まぐるしく前衛・後衛を入れ替える萱場・日奈ペア。

 もはや敵ペアの高低を使い分けたレシーブは意味を成さなかった。日奈には届かないだろうと思って放った高さの返球を、突如目の前に現れた萱場が叩き込んでくる。

 萱場・日奈ペアにして初めてではなく、おそらく世界で初めてであろうこのフォーメーション。
 誰も使ったことがない理由は単純だ。

 激烈に体力を消耗するからだ。

 だが、萱場も日奈も、ちぎれんばかりの四肢の軋みと心肺の苦しさを乗り越えない限り勝利はないと覚悟を決めてこの過酷なフォーメーションを続行した。

 アリーナのプロジェクターに2人の顔がアップになると会場のオーディエンスは訝しく思った。

「カヤバもサクラも全然息が上がってないな」
「見て。カヤバの顔。汗なんて一滴もかいてないわよ」

 さわさわと囁きが会場を覆う。

 萱場と日奈という2人のアスリートは、破裂せんばかりの心身の苦しみを意思で押さえ込んでクールな表情を世界中に配信している。

 何をやっても平然とプレーし続けるふたりに、敵ペアは徐々に戦意を喪失していった。

 そして、最後のプレー。

 萱場のバックハンドに上がる速いクリア。

「はっ!」

 短い気合いと同時に放ったのはマイク・リーがやったのと同じハイバックスマッシュ。

 見事にクロスに決まると会場から歓声が上がった。

「ファンタスティック!」

 割れんばかりの拍手でもってふたりの勝利を讃えるオーディエンス。

 萱場は仰向けに倒れ込んでガッツポーズをする。

「やったー!」

 日奈が駆け寄り、がっ、と2人で右手を握り合った。

 長い埋もれ続けた日々を経て、萱場泰助の名が世界に知られる日となった。
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