第8話:荻原碌山の人生と代表作品

文字数 1,732文字

  19歳の秋、画家をめざして上京を決心した。上京した守衛は、画塾・不同舎に通った。しかし、日々写生を繰り返し描く現状に飽き足らず、欧米の美術に身を学びたい希望を抱くようになった。上京からわずか1年半、留学を決意した守衛は、洗礼を受けた。

 そして1902年「明治34」年3月、ニューヨークに向かい旅立った。アメリカに渡った守衛は、苦労の末にニューヨークの富豪、フェアチャイルド家に住込みで働きながら、学僕として美術学校アート・スチューデンツ・リーグで絵画を学び始めます。

 渡米から二年、わずかな資金を懐に憬れのパリへ渡る。 守衛は、画学校に通い、パリでの絵画修業に励む。 渡仏から約半年、資金も尽きてニューヨークに帰ろうとした矢先、守衛はロダンの「考える人」に出会った。そして、その力強い生命感に身震いを覚え、一気に彫刻家になろうと決心。

 ロンドンをまわりニューヨークのフェアチャイルド家に戻った守衛は、再びパリへ渡るために学僕を続けます。美術学校を替えミケランジェロの素描写真を壁に貼るなど彫刻を学ぶための人体素描の修練に励んだ。倹約を重ねた守衛は、今度は本格的に彫刻を学ぶため、再びパリへと渡った。

 パリではアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学し、本格的な彫刻の修行を開始。ジュリアンの教室で守衛の彫刻の才能は頭角を見せ始め、校内のコンクールでは常に上位で、一等を2度獲得する程でした。この頃の作品には「女の胴」と「坑夫」が残っている。

「坑夫」は、アカデミー・ジュリアンを訪ねた友人高村光太郎が是非石膏に採り日本に持ち帰るよう強く勧めた作品。中央公論に発表された夏目漱石の『二百十日』読んで、登場人物の碌さんに共感。2度目のパリ滞在中に自らを碌山と名乗った。

 守衛は、念願のロダンと会うこともでき、ムードンにあるアトリエをも訪ねた。帰国に際してロダンに別れの挨拶した折、「帰国後は師と仰ぐべきものがないが、誰を師と仰ぐべきか」と尋ねた。すると、ロダンから「自然、自然こそ最大の師ではないか」と教えを受けた。

 7年間の留学を終えた守衛は、帰国の途路。それまでに学んだ西洋美術とイタリア・ギリシア・エジプトの古代美術を直接肌で触れて確かめるようにして帰国。守衛のアトリエは、浅草橋で帽子商を営む次兄の本十が工面して新宿角筈に建ててくれた。

 アトリエは制作場と台所、6畳の座敷があり、アトリエを訪ねた芸術家たちは、帰朝した守衛と芸術談に花を咲かせた。郷里の先輩、相馬愛蔵・黒光のパン屋「中村屋」は、1909年の夏には、新宿に本店を移し、家族も共に移り住んだ。

 守衛は、午前中の制作を終えると中村屋に足を運んで最中の餡を詰めを手伝い家族同様に過ごし子供たちの面倒を見た。 夫・愛蔵の女性問題に苦しむ相馬黒光への同情は、恋愛へと変わり、叶わぬ境地に守衛は苦悩する。

 その思いは彫刻の制作にも表れた。日本近代彫刻の最高傑作とされる「女」。1909年12月から始めた制作は、寒い冬を越え、桜の蕾が、綻ぶ季節の3月に完成した。粘土の凍るような寒い日には、荻原は自らの衣服を制作途中の像に掛け凍結を防いだ。

  後ろで手を組み、地に足を付け立ち上がろうとする姿は、依然として続いていた相馬黒光への愛と苦悩に悩む荻原自身の心の姿でもあった。 その相克は美と生まれ変わり、らせん状の構成は、混沌の状態から純粋なものに高められて苦悩を克服し昇華した「女」となった。

 精魂を傾けた「女」の制作を終え20日余り経った4月20日の夜、荻原は、中村屋の居間で突然血を吐き倒れた。浪漫に充ちた芸術家、荻原守衛は、1910年4月22日、黒光らに看取られ30歳余の生涯を終えた。「愛は芸術に 悶えは美に」は、荻原守衛の生命の芸術をあらわす言葉。

 30年の生涯を駆け抜けた荻原守衛は、その生命感にあふれた彫刻と浪漫に満ちた真摯な生き方を伝え残して逝った。その短い生涯に全霊をかけ獲得した生命の芸術は時代を越え人々に語りかける。

 そして碌山美術館を後にして安曇野の大王わさび農園に到着。そこで遅めの昼食にした。ここの本わさびが、付いた信州そばを食べた。
*「碌山美術館の資料を参照させていただきました」 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み