第2話:如月家に赤ちゃん誕生

文字数 1,781文字

 その後、合意文書をアメリカのブッシュ米大統領とソ連のゴルバチョフ大統領が、交換した。9月に米国は核戦力の大幅削減を世界に向かって、発表した。10月には、米ソ首脳も参加し、アラブ諸国とイスラエルが初めてそろって参加した中東和平会議が、開かれた。

こうして、米ソ両大国の融和が、世界に平和をもたらすかに見えた。2人の新居は、北柏駅から徒歩10分の3DKマンション。如月達夫は、北柏駅から、常磐線で通った。勤務先は、品川の湾岸エリアのソニー本社で通勤時間は、約70分。

 一方、如月富子は、自転車、パスで、約10分のTB信用金庫に通い始め、半年が過ぎ新婚生活に慣れ始めた。1991年11月8日、早朝。如月富子さんが、気持ち悪いと言い、会社を休むと連絡した。

 そのため、如月達夫も心配になり、会社を休んで、タクシーで、近くの産婦人科に行くと、おめでたですと告げられ、出産予定日は、1992年6月3日と告げられた。

 その話をすぐに、如月と柳井の実家に連絡すると、喜んでくれた。そうして1991年が終わり1992年となった。正月には、近くの神社に行き、初詣と、安産祈願をしてきた。

 富子さんは、初産であり、如月達夫は、気を使って1月中旬から、彼女の実家の柳井家から柏市役所に通勤する様に告げた。1992年6月1日に産婦人科病院に入院して6月3日に出産。

 大きな泣き声の元気な男の子が、誕生し、如月勝男と名付けた。この勝男誕生のニュースで、如月と柳井の実家でも大喜びしてくれて、出産祝いをもらった。その後、富子さんは、大事を取って8月お盆休みまで役所を休んだ。

 育児は、義理の母の柳井節子さんに手伝ってもらった。やがて1993年となった。初詣に行き、如月家の家内安全と投資の成功を祈願してきた。1993年5月14日、如月の奥さん富子さんが、再び、体調を崩した。

 そして、産婦人科に行くと妊娠が判明し予定日12月12日と告げられた。1993年8月、長期間、与党であった自民党が、倒れた。そして、非自民の連立内閣が誕生し細川護熙首相の誕生となった。

 やがて秋風が吹き、10月、11月、12月と足早に過ぎ、12月10日、富子さんは近くの産婦人科病院に入り、12日、可愛い女の子を出産し、薫子と名付けた。そうして1993年が明けた。

 この年、ソニーでは、秘密裏に任天堂と共同して1つのゲーム機を開発していた。そんな任天堂とソニーのコラボにより誕生した幻のゲーム機が「任天堂プレイステーション」で、あった。

 それは、1991年、シカゴで開催された家電見本市・CESの中で、その試作機と名称が発表された。しかし、詳細は、不明だが、任天堂側が、ソニーとの契約を破棄した。

 これで、「任天堂プレイステーション」が、世に出ることはなかった。ただし、ソニーは任天堂による契約破棄を契機に試作機段階までこぎ着けていた「任天堂プレイステーション」を改良した。

 そして、「プレイ・ステーション」として、家庭用ゲーム機市場に参入。その後、1993年11月15日、ソニーとナムコは「PS-X」の業務用への応用に関して共同開発する事で、基本合意した。

 その後、ソニー内部で、大規模な人事異動が発表された。翌、日にソニーの技術者とソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門の65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立された。

 如月達夫もソニー本体からソニー・コンピュータエンタテインメントに転出することになった。1994年となり秘密裏に新型高性能ゲーム機の発売の話が、進行していった。

 如月達夫は、秋葉原だけでなく東京だけでなく関東一円のパソコンショップ、電気店を駆け回り販売状況の確認と購入者が、プレイステイションを使った印象や感想、今後期待することなどを随時、報告した。

 その外回りで、疲れ果てて、家に帰ると風呂に入ってすぐ寝る生活を続いた。1994年5月10日に「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した。

 同時にコンピュータグラフィックで、描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。本来、プレイステーションはスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用した。
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