第1話:柏の小学生の仲良し4人組の成長

文字数 1,754文字

 千葉県柏は、江戸時代中期より「味醂『みりん』は柏」と呼ばれ有名だ。1917年「大正6年」設立の万上味醂「まんじょうみりん」株式会社は、1925年「大正14年」の野田醤油醸造と合併。現在「万上『まんじょう』」は、キッコーマンのブランドとして名を残している。如月家は、米農家で米やもち米を生産して万上味醂「まんじょうみりん」に米、もち米を販売していた。

 一方、柳井家は、筑波山麓の貧農で、生活に困り、万上味醂「まんじょうみりん」の社員になり、毎日、みりん製造の仕事に携わって生活していた。そのため、生活は、あまり良くない。そんな柏に、1975年5月に如月達夫が、次男として生まれた。その後、間もなく8月には、柳井富子は次女として生まれた。小学校4年になると如月達夫、柳井富子、手塚敏夫と樋口芳江は、同級生で仲良くしていた。

 遊ぶのは、江戸川、利根川、手賀沼。手賀沼では大人にウナギの捕り方を教えてもらった。さらに川釣りは、利根川と江戸川を結んだ、利根運河で、ナマズ、鯉、テナガエビを釣った。この中でもテナガエビは、食べると美味しいため好評であった。ウナギは、それほど取れる事はない。

 それでも、ウナギが取れると蒲焼きにして食べると、味は、最高で、家族にも喜ばれた。但し、自転車でないと広いので、行けない。そのため自宅の自転車が空いてないと使えず、附きに1、2回、サイクリングに出かけた。これが実に楽しく、思い出に残っている。そんな、楽しい小学校生活も過ぎていった。

 そして、如月達夫、柳井富子、手塚敏夫と樋口芳江は、同じ学区の中学にそろって入学した。そして中学2年になると仲間で一番優秀な手塚敏夫が、みんなに数学、英語、国語、理科、社会と教えた。如月達夫、柳井富子は、記憶力が良く、成績もオール4程度で、手塚敏夫は、学年トップクラス、樋口芳江もクラスでトップ争いをしていた。

 そのため大きな如月の家に4人が、集まって一緒に勉強していた。しかし、中学2年生の秋、手塚敏夫と樋口芳江は、お父さんの転勤で関西と東京へ引っ越していった。その後、如月達夫、柳井富子は、自宅から少し離れた小金高校に合格して通い始めた。如月は、陸上部とECC「英語部」、柳井は、体操部とECC「英語部」に入った。

 如月は、早大生を家庭教師につけてもらい勉強をして早稲田大学経済学部を目指し、同じ時、一緒に柳井富子も教えてもらった。柳井は、実家が、裕福でなかったので、奨学金を借りて、埼玉大学経済学部を目指して勉強して、1987年に如月も柳井も希望通りの大学に合格できた。その後、柳井は、南柏から武蔵野線で南浦和経由で70分で通った。

 一方、如月は、大学の近くの学生アパートで生活をして、通い始めた。そして、2人は、休みの日、南浦和に集まって、映画を見たり、食事したりして、学生生活を楽しんでいた。大学の投資研究会に入り投資の勉強を開始した。そして、如月の父が、昔から株投資していたので、如月、柳井も興味を持った。こうして1990年、就職先活動を開始、

 如月は、ソニーに3ヶ月の研修のための3週間アルバイトした。柳井は、地元柏市役所に就職したいと考えた。1991年、柳井富子は、柏市役所に入り、如月もソニー本社に就職。そして、如月と柳井は、両家に挨拶に行き結婚の承諾を得た。6月16日に柏で結婚式をすることに決めた。結婚式には、学生時代の友人が来て祝福してくれ滞りなく結婚式を終了。

 翌日、青森、仙台へ2泊3日の新婚旅行に出かけ戻ってきた。その後、如月家の離れを如月達夫夫妻の家として使うことになった。1991年6月に文化的・宗教的に西欧・中欧に近いスロベニアが、10日間の戦闘により短期間で独立を達成した。次いでマケドニア共和国が独立。ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。

 その後、1991年8月、ソ連が、保守派のクーデターが失敗に終わりソ連が事実上崩壊した。モスクワ市民が見守るなかKGB「旧ソ連国家保安委員会」の前身に当たる治安機関の初代長官ジェルジンスキーの銅像が、引き倒された。そして、ソ連邦が、消滅し、ロシアとなった。その後、米ソ首脳会談で、戦略兵器削減交渉「START」調印された。
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