第19話:如月の家族で伊豆旅行へ

文字数 1,713文字

 そして、ホテルに戻って来て、また温泉に入り18時、夕食会場へ向かった。バイキング形式で好きな料理を選んで食べられた。その後、部屋に帰って来て、今日の淡島マリンパークの写真を見ながら、雑談をして21時過ぎには、解散して部屋で、22時には眠りについた。

 翌朝、部屋の源泉かけ流し露天風呂に入り、すっきりと目覚めた。そして部屋で、ゆっくりし8時に朝食会場へ向かった。9時過ぎにホテルを出て414号線を南下して40分で、浄蓮の滝に到着。3月、まだ、観光客は、少なく流れ落ちる浄蓮の滝の美しい滝を写真に取った。

また、伊豆の踊子の像にも子供達が、興味を持っていたので、父が、詳しく説明した。浄蓮の滝の見学が終わると、次に、近くのワサビ田を見学に行って眺め写真を撮った。そのワサビの葉の鮮やか緑色が印象的だった。次に414号線を北上して35分で。韮山反射炉に到着した。

 反射炉とは、銑鉄「砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む」を溶かして優良な鉄を生産するための炉。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となるが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっていた。

 そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造。溶かした鉄は、鋳型に流し込み大砲などに加工された。炉体と煙突の部分を合わせた高さは約16メートル、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけである。

 稼働当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いた。1853年のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされた。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と並行し反射炉の建造を命じた。

 ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた江川英龍だった。しかし、蘭書の記述だけの資料で、反射炉を建造するのは、困難を極めた。建設予定地は。下田港に近い所で、1853年の年末には基礎工事を開始した。

 しかし、1854年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が反射炉建設地内に進入するという事件が起った。そこで、急きょ、反射炉建設地を韮山代官所に近い現在の伊豆の国に移転する事になった。

 反射炉は、ある蘭書に基づいた連双式「溶解炉を二つ備える」のを2基、直角に配置した形となった。これは、四つの溶解炉を同時に稼動させ大型砲を鋳造するための工夫。しかし1855正月、江川英龍は、韮山反射炉の竣工を目前にし病死。

 跡を継いだ息子の英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め技師の派遣を要請した。佐賀藩士の助力を得て、1857年11月、韮山反射炉は着工から5年半で完成。韮山反射炉では、1864年に幕府直営反射炉としての役割を終えるまで西洋式大砲が鋳造された。

 見学を終え11時半過ぎ車で沼津港へ向かった。12時過ぎに沼津港魚市場に到着し市場内の海鮮食堂を数軒、見て回り気に入った食堂に入り寿司、桜エビかき揚げ定食、まぐろ刺身定食を注文。13時過ぎに店を出て近くの海鮮の店で酒の肴になりそうな食品を探し購入。

 その後、車で数分のKRホテルにチェックインした。その後、早速、風呂に入って、1時間程、部屋で休んで、ホテル前の海岸線を散策して、部屋に戻り、テレビを見て18時過ぎにレストランに行き、予約していた夕食を食べて、部屋に戻った。

 そして、如月夫妻は、ビールを飲みながら今日の旅行の雑談した。この地域は、素晴らしいねと言うと奥さんが、また来たいと、つぶやいた。その後、床について、翌朝9時半、ホテルの精算を終えて、沼津インターから東名高速に入った。

 途中の海老名サービスエリアで一休みして、昼頃に柏の自宅に帰って来た。2014年8月になり、如月勝男が、単独で松本市に行き、以前から資料を集めて探していた。K薬品とEP社へ就職を考えて一人で企業見学に向かった。

 最初にEP社へ行くと歓迎してくれたが、ソフトウェア部門は、子会社に分社化していた、そのため企業自体も小さく給料、福利厚生施設も今ひとつであり大手のN社、F社とは、格段の差があると感じた。
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