第55話 「俺は昔、フェザー級のボクサーだったんだ」

文字数 1,636文字

「俺は昔、フェザー級のボクサーだったんだ」 
それが土門英の触れ込みの文句であった。
夜になると彼はグランド・キャバクラ「祇園」の用心棒の一人として店に詰めていた。彼の強さを知る者は一人も居なかったが、それはどうでも良いことであった。彼の顔には試合で負った傷を縫った跡が残っていたし、肩もパンチャーらしい撫で肩であった。おまけに、いつも踵でリズムをとるような歩き方をしていた。つまり、如何にもボクサーらしく見えた訳で、大抵の場合、「祇園」にとってはそれで十分だった。
 もう一人の用心棒は、辰市拳と言う名の、ちょっとハンサムだが表情の無い無口なライト・ヘビー級の若い男で、彼はその頃、街頭で殴り合いをさせたら最強と言う評判の男だった。
辰市は大口をたたく奴らを一発でのしてしまったが、土門英は話し合い路線の熱心な信奉者だった。誰か揉め事を起こす奴が居ると、彼はそいつに近づいて行って精選した台詞を一言二言吐いては遠ざかって行った。
「おとなしくしねえと、おめえの頭をかち割るぜ」
従って、彼の手に生傷が在ったことは一度も無かった。土門英はとても綺麗な手をしていた。
 だが、彼はよく怒り狂って、「祇園」が跳ねた後、花見小路のバー「レッド・ハート」に飛び込んで来た。
着ているシャツは土で汚れてドロドロだったし、元ボクサーと一目で判る腫れぼったい目蓋の顔は、新たな敗北でくしゃくしゃに歪んでいた。それでいて、両手は、誰か別人のもののように生き生きと動くのだった。クラブ歌手の沢明美が彼を愛したのもその故だったのかもしれない。
と言っても、彼の綺麗な手がとりわけ優れた機能を持っていた訳ではなかった。左右何れの手も指の先端が皆、潰れて変形していた。特に左の親指がひどかった。それは、碌でもない場所で暴れ過ぎた所為、喧嘩をし過ぎた所為であった。右手などは拳を握っても関節の突起がまるで無く、かえって凹んでいるくらいであった。それでも、その手は全体として、ある種の優雅さを具えていたのである。
時々、土門英がバー「レッド・ハート」でビール割りの焼酎を飲んで居ると、田舎の教会で紅茶を啜っている牧師を彷彿とさせるところが在った。
あのスッと伸ばした小指を見るだけで、見る眼の有る人間には直ぐに解った。そう、彼の手は、単なるポーズをとるだけでなく、演技をすることが出来るのであった。
 
 土門英がふらっと「レッド・ハート」に入って来てカウンターの止まり木に座る。そして、話し始めると沢明美が隣に移って耳を傾けた。明美は「祇園」で唄い終わると、いつも「レッド・ハート」にやって来て土門英が来るのを待っていた。
 彼の話の内容はいつも決まっていた。
東京で赤田毅というボクサーと試合をした時のこと。名古屋でタクシーの運転手を殴って留置場にぶち込まれたこと。大阪で職務質問をした警官と悶着を起こして逮捕されたこと。そして、瑠璃と言う美貌の女のこと。特に東京での赤田毅との一戦は彼に強烈な印象と影響を残していた。否、彼のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではないようだった。

 土門英は十六歳の時、初めて街の大きなボクシング・ジムを訪れた。毎週日曜日にアマチュア同士の試合が行われていた。それが彼の出発点であった。
ジムに通い始めてから暫くして、土門英も日曜日の試合に出るようになった。
彼はボクシングを通じて嘗て無い高揚感と燃焼感と、そして、この現実の世での自己の実在感というものを初めて実感した。土門英はリングの上で生き生きと輝いて相手と打ち合った。そこには不安や焦燥が湧き上がって来る余地は全く無かった。眦を吊上げて激突する行為の中で、相手の弱点を徹底的に突いての潰し合いの中で、彼は無意識の内に自分自身を賭けて何かを獲ち得ようとした。
試合に出るようになった土門英は、勝ったり負けたりでボクサーとしての可能性は平凡であった。が、十七歳のプロデビュー戦を勝利で飾ると、そこから破竹の勢いで連戦連勝を重ねて頭角を現した。
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