第44話 由紀江、旧友から夫の再就職世話を頼まれる

文字数 3,183文字

「まあ、いらっしゃい!」
「お久し振り。お邪魔します」
由紀江はドアを全開にして友を中へ招じ入れ、玄関ホール脇の応接室へ通した。
「それにしても吃驚したわ。突然電話を架けてくるんだもの」
「そんなに驚いた?」
「そりゃ驚くわよ、四年振りの電話だもの」
「もう四年にもなるのね」
横庭に面した掃き出しのガラス戸を閉めて、由紀江は友の顔を懐かしく眺めた。
 由紀江の頭の中に、あの夢多かりし学生時代の想い出が、一瞬のうちに走馬灯のように甦った。
讃美歌を歌い毎日清らかな祈りを捧げた蔦の絡まるチャペル、枯葉がひらひらと舞い散る秋の日の図書室の窓辺、心地良い汗を流してボールを追ったテニスコート、ローソクの灯に輝く十字架を見詰めて細い指を組みながら俯いていた友の横顔、口数も少なく心に何の装いもせずに夢見ていた恋への憧れ、一人一人の懐かしい友の顔々・・・それらが瞬時に由紀江の胸の中を満たした。
 だが、由紀江の思いとは裏腹に、麗子は刺すような濃い眼差しで由紀江を睨むようにして言った。
「あなた随分綺麗になったわね。少しふっくらとして肌も艶々しているし、あの頃よりも生き生きしているみたいよ、幸せなのね」
「幸せなのはあなたの方でしょう。あんなに格好良い人と好き合って一緒になって、散々私たちを羨ましがらせておいて・・・あなたこそ幸せを絵に描いたような人なのだから」
「それは言わないで、由紀江さん」
麗子は急に眼を伏せて遮った。
「私、今、幸せなんかじゃないの。顔も痩せ細ったし、手もこんなにカサカサに荒れちゃって。洋服もバーゲン物ばかりなの。私の結婚は間違っていたのよ」
「麗子さん、そんなこと言っちゃいけないわ」
由紀江は口を噤んだ。そして、あの頃の麗子のことを思い起こした。

 二人は四年前までカトリック系の女子大「聖京都学園女子大学」で同級であった。
麗子は、社員三百人・年商百五十億円の中堅企業を経営するオーナー社長の長女であった。ピアノを習い、派手好みで勝気で、加えて、群を抜く美貌の持ち主であったし、常に仲間内で女王のように振る舞っていた。ファッションもヘアースタイルも絶えず新しい流行を追い、アウトレットのブランド品を揃えて身に着けていた。
こうした派手ずくめの麗子は、何時も何か仲間達の間に新しい話題を振り撒いていたが、ボーイフレンドや恋愛の話にも事欠かなかった。
「私、今、二人の男性からプロポーズされているの」
麗子は、常に話題の中心に居る者の自信たっぷりの調子で言った。
「一人は半年も前から私に一目惚れしたのだって。有名私立大学を卒業して大手の化学会社に勤めているって言うのだけど、でも、私、余り乗り気じゃないの、断ろうと思っているの。だって、その人、ハンサムでもないし話題も乏しいし、なんか辛気臭くて面白くないのね」
そこで彼女は悪戯っぽく微笑って、少し声を潜めた。
「もう一人はね、私の好みのタイプなの。イケメンだし話は上手いし、よく気が利くし、国立大学出の秀才で、何もかもがスマートなのよ。皆にも一度紹介するわ」
敬虔なカトリックの女学園で、小学校から大学まで厳格な教育を受けて来た仲間達は、麗子の大胆な話に驚いた。男性と交際っていることだけでなく、その人評までずばずば言う、その明らさまな物言いに唖然とした。
 そして、それから四、五日経って、麗子の恋人だというその青年が、大学の門前でスポーツカーに凭れて彼女を待っているところを、皆は見せつけられた。
彼は、麗子が言ったように、ハンサムなイケメンであった。長身で颯爽としていたし、又、いかにも秀才然ともしていた。
麗子が皆に引き合わせると、躊躇無く気軽に話しかけて来た。それは如才無くそつが無く、機知に富んで気が利く態度であった。服装も洒落た最先端のものを着用し、気位高く自信に満ち溢れているようであった。
麗子は卒業すると直ぐに彼と結婚した。愛し合った二人が幸福な結婚生活を送っているだろうということは、級友達は誰も疑わなかった。
「似合いの夫婦で、二人して派手に暮らして居るでしょうよ」 
噂が出ればいつも、半分は羨望を持ってそう話し合われた。

 今、四年振りに逢った麗子は以前とはかなり様子が違っていた。
美貌の面影は痩せが目立って生気が無く、自信に満ちていた立ち居振る舞いも影を潜めて伏眼がちになっている。
あの華麗だった花が無残に萎れてしまっている・・・
由紀江は麗子の顔を正視出来ない思いに駆られた。
「彼は私が思っていたような人ではなかったの。娘の見る眼なんて危ういものなのね。イケメンだとか格好良いだとか、秀才っぽいとか話が上手いとか、そんな上辺だけしか見ていなかった。真実のところなんか何も見えていなかったのよね。父が私たちの結婚を猛烈に反対した訳がやっと解った気がしているの」
麗子はハンカチを取り出してそっと眼にあてた。
 麗子の夫、中条秀一は京都の国立大学を卒業後、日本を代表する大手上場企業「三井重工業(株)」に勤めたが、給料や賞与の多いことをいいことに、夫婦二人で派手な生活を続けた挙句、世間知らずのぼんぼん育ちにつけこまれて加工業者と金銭トラブルを起し、一年前に失職してしまった。
会社は超大手の一流企業だったので、スペアになる有能な人材は掃いて捨てるほど居た。従って、会社の対応は秀一の予想を超えて厳しかったし、先輩や同僚も競争相手が一人抜けるのを幸いに極めて冷淡だった。サラリーマンは椅子取り競争の世界であり、上に行くほど椅子の数は少なくなることを誰もが熟知していたのである。
 出身大学やこれまでの彼の履歴から見て、再就職の口は次々と有りはしたが、面接で悉く不採用となった。知識と能力は群を抜いていたが、人物としての器を否定されたようだった。秀一は、応募者の思い、情熱、希望、夢、ロマン、気概等と言った情緒が綺麗に作文された履歴書や職務経歴書だけで篩いにかける書類選考や、模範解答或いは期待解答で返答する質疑応答の面接試験というものに大きな違和感を覚えていた。彼は何時も、こいつらは馬鹿か、と思って、採用担当者と対面していた。その高慢さが言葉や表情に現れて何時も不採用となった。
見るに見かねた麗子の父親が自分の会社へ入ることを勧めたが、それは秀一がにべも無く断わってしまった。
「俺にあんな街工場に毛の生えたような中小企業に入れと言うのか?冗談じゃない!それに女房の実家の世話になんかなれるものか」
が、些かの蓄えもなかった夫婦は忽ち貧窮の底に陥ってしまった。
「でもねえ由紀江さん、わたし・・・」
麗子は涙を拭って言った。
「このままでは終われないの。今までのことはすっかり忘れて生まれ変わった気持で、一からやり直そうと思っているの。彼もその覚悟で中国語の勉強を始めたの」
「中国語の勉強を?」
「これからの世界を牽引するのは中国だって彼は言うのよ。それで、実はあなたにお願いがあって今日お邪魔したのだけど、聞いて貰えるかしら」
「ええ、私でお役に立つことであれば何なりと・・・」
「あなたのご主人は確かあの有名な大手グローバル企業「大日本ケミカル㈱」へお勤めだったわよね。それで、チャンスが有れば是非、彼の就職をお世話願えないかと思って・・・」
「再就職のお世話を?」
「給料や処遇は問わないわ。後はそれを土台にして彼が立ち上がって行くでしょうから」
麗子は懇願するように再就職の世話を繰り返し依頼した。
「他に頼れるところももう無いし・・・」
そう言った時の麗子の寂しい面差しが由紀江の瞼に焼きついた。
麗子とはそれほど親しくも無かった自分の所まで、夫の再就職の依頼に訪れるくらいだから、余ほど切羽詰っているのだわ、何とか力になってあげなければ・・・由紀江は心を痛めた。
 麗子が帰るのを送ってから、由紀江はコーヒーの支度をして、奥のリビングへ向かった。
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